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審判番号(事件番号) データベース 権利
平成14ワ2473損害賠償等請求事件 判例 特許
平成4ワ6690特許権侵害行為差止等請求事件 判例 特許
平成10ワ16832補償金請求事件 平成12ワ5572補償金請求事件 判例 特許
平成16ネ5168報償金請求控訴事件 判例 特許
平成15ワ23981補償金請求事件 判例 特許
関連ワード 特許を受ける権利 /  承継 /  発明者 /  職務発明 /  相当の対価(相当な対価) /  協議 /  技術的思想 /  有用性 /  新規性 /  公然知られ(29条1項1号) /  共同研究 /  共同開発 /  公然実施(29条1項2号) /  技術的範囲 /  時効 /  ライセンス /  援用権(援用) /  権利の濫用(権利濫用) /  存続期間 /  特許料(維持年金) /  技術的意義 /  信義則 /  特許発明 /  実施 /  加工 /  構成要件 /  実施料 /  設定登録 /  移転登録 /  対価 /  請求の範囲 /  変更 / 
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事件 平成 15年 (ワ) 26311号 報償金請求事件
原告A
訴訟代理人弁護士 彦坂敏之
被告 株式会社東芝
訴訟代理人弁護士 竹田稔
同 川田篤
補佐人弁理士 小栗久典
裁判所 東京地方裁判所
判決言渡日 2004/09/30
権利種別 特許権
訴訟類型 民事訴訟
主文 1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
原告の請求
被告は,原告に対し,5000万円及びこれに対する平成15年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
事案の概要
1 請求の要旨 原告は,被告会社の元従業員であり,被告会社在職中に温水器用ステンレス鋼製缶体の発明(以下「本件特許発明」という。)をした。この発明は,昭和52年11月24日,被告会社により特許出願され,昭和61年8月28日,発明者を原告,権利者を被告会社として設定登録された(特許第1333891号。以下,この特許権を「本件特許権」という。)。
本件において,原告は,特許法35条3項に基づき,職務発明の相当対価の一部請求として5000万円及び遅延損害金の支払を求めている。
2 前提となる事実(当事者間に争いがないか,あるいは当該箇所に掲げた証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実) (1) 当事者 ア 被告は,電気機械器具製造等を目的とする株式会社である。
イ 原告は,被告会社の元従業員である。
(2) 原告の就職 原告は,昭和39年3月,神奈川大学工学部応用化学科を卒業後,被告会社の関連会社を経て,昭和47年10月ころ,被告会社に就職した。
(3) 電気温水器の缶体開発の着手 ア 被告会社は,昭和40年ころから,電気温水器の開発・販売を行っていたが,当時,電気温水器の缶体部分には,SUS304と称されるステンレス鋼(以下「304鋼」という。)が使用されていた。また,被告会社は,昭和44年ころからは,304鋼に替えてアルミナイズド鋼を使用していた。
イ 被告会社は,昭和50年4月1日,新日本製鐵株式会社(以下「新日鉄」という。)との間で,ステンレス鋼製缶体の素材及び加工技術に関する共同研究を目的とした共同研究協定を締結した(乙6)。
(4) 本件特許権(甲4,5) 被告会社は,本件特許発明について,社内規程により特許を受ける権利承継し,昭和52年11月24日,本件特許発明につき,原告を発明者,被告会社を出願人として,次のとおり,特許出願をし,特許を得た。
ア 出願年月日 昭和52年11月24日 イ 出願番号 52-139899 ウ 出願公告年月日 昭和60年12月11日 エ 出願公告番号 60-056784 オ 査定年月日 昭和61年3月14日 カ 発明の名称 温水器用ステンレス鋼製缶体 キ 特許請求の範囲 筒体と,この筒体の一方又は他方開口端部に各裾縁部を重ねて溶接され且つ流水の流入口又は流出口がそれぞれ設けられた両蓋体とを備え,フェライト系ステンレス鋼で形成された温水器用ステンレス鋼製缶体において,缶体組成を重量パーセントでCr:18.5〜19.5,Mo:1.8〜2.5,Ti:0.1〜0.5,Nb:0.2〜0.5,Si<0.5,C+N<0.02を含み残部Fe及び避け難い不純物から成るものとし,各蓋体の裾縁部と筒体の開口端部との重ねられた隙間の深さを深くとも20mmに定めたことを特徴とする温水器用ステンレス鋼製缶体。
ク 特許番号 第1333891号 ケ 登録年月日 昭和61年8月28日 (5) 本件特許権の移転,消滅(甲4) ア 被告会社は,平成3年4月1日,本件特許権を東芝設備機器株式会社(以下「東芝設備機器」という。)に譲渡し,平成4年1月27日,その旨の移転登録がされた。
イ 東芝設備機器は,本件特許権の第7年分特許料を納付しなかったため,平成3年12月11日,本件特許権は消滅した(平成5年1月14日登録)。
(6) 被告会社社内規程に基づく補償金の給付 ア 被告会社においては,従業員の行った発明・考案等の特許出願等の取扱い及び従業員に対する表彰・報酬支払などに関して,昭和46年から「従業員発明考案取扱規程」が設けられていた。同規程は,その後,数回にわたって改定されているが,少なくとも昭和49年4月1日以降に適用されている規程においては,従業員が職務発明を行った場合は,被告会社が必要がないと認めた場合を除き,特許を受ける権利を被告会社に承継させるべきものとされ,承継に伴い,従業員には当該発明の評価(A区分からC区分までの3区分)に従い「譲渡補償」として所定の金額が支払われるものとされている。そして,被告会社の承継した職務発明につき特許登録がされ,当該特許発明が被告会社において実施された場合には,特許権が消滅するまでの期間について,各年度(各年4月1日から翌年3月31日まで)ごとに評価(1級から6級の6段階)に応じて「実績補償」として所定の金額が支払われ,従業員から承継した職務発明につき被告会社が特許を受ける権利ないし特許権を第三者に譲渡した場合には,譲渡補償及び実績補償に準じた評価に従い,「特別の事情による補償」(以下「特別事情補償」という。)として所定の金額が支払われるものとされている(出願後,登録前の実施については,登録後最初に行う補償に含めて行う。)。これらの補償に関しては,「譲渡補償細則」「実績補償細則」及び「特別の事情による補償細則」が,「従業員発明考案取扱規程」の細則として定められている(以下,本件特許権に適用される「従業員発明考案取扱規程」及び上記細則を「本件規程等」と総称する。)(乙14ないし17〔枝番号は省略する。以下同じ。〕)。
イ 被告会社は,本件規程等に基づき,本件特許発明について特許を受ける権利を原告から承継し,これについて特許出願して本件特許権を取得した。
ウ 原告は,本件特許発明に関して,本件規程等に基づいて,被告会社から少なくとも次の補償金の支払を受けた。
(ア) 譲渡補償(B区分)昭和53年 3000円(甲7) (イ) 実績補償(4級) 平成元年10月 2万5000円 (ウ) 特別事情補償 平成4年12月 10万円
当事者の主張
1 相当対価の金額について (原告の主張) (1) 本件特許発明の意義・有用性 ア 原告は,被告会社の研究所において,金属の腐食防止に関する研究に従事していたところ,諸外国の文献を参考にして,腐食の抑制には溶出モリブデンの再不動態化が有効であると考え,研究会などで発表した。原告は,金属中の付随不純物SiとMnを0.5パーセント以下とした高純度の19クロム2モリブデンのステンレス鋼を用い,溶接部の隙間深さを20o以下とする構造の缶体を製作することにより,500ppm塩素以下の水道水質基準を満たすことができることを学会発表し,被告会社内のみならず,学会においても賞賛された。原告が提起した隙間深さの問題は,当時の学会発表に散見されていたが,腐食挙動が隙間深さによるものであると具体的に提唱したのは世界初であった。
原告は,そのころ,新日鉄において開発中であった金属(19クロム2モリブデンのステンレス鋼で,後にYUS190と称されるようになった。以下「YUS190」という。)が有用適切であると考え,サンプルを取り寄せ,研究したところ,YUS190を用いて,原告が提案した構造で缶体を作ると,水道水を利用する電気温水器において,腐食の問題をすべて解決することができることが判明した。そこで,原告は,被告会社に提案し,これを受けて被告会社は,昭和50年,新日鉄との間で共同研究協定を締結し,研究の結果,原告が研究・開発した缶体構造との組合せにより,耐腐食性に富む電気温水器の製品化が可能となったのである。原告は,電気温水器にYUS190を採用する際,溶出モリブデンによる隙間腐食の再不動態化を考慮すると,隙間腐食の限界は解析中で20o以下が予想されるから,被告会社の関連会社の工場長に隙間深さは20o以下で限りなく浅くするように依頼してその了承を得たり,電気温水器プロジェクト員として,隙間深さの点について一定の研究方針を取り付けるなどしており,原告の隙間深さに関する提案は,共同研究において大いに議論された。また,原告による開発活動の成果を受けた開発プロジェクト長が,被告会社の関連会社社長らの承認を得た上で,本件特許発明実施した電気温水器の生産を開始したのであって,原告は,電気温水器の開発に具体的に関与していた。そして,原告の研究の成果である本件特許発明は,YUS190を利用し,水道水利用において腐食を防止できる缶体構造を提案した優れた用途発明であり,同発明は,腐食問題を解決し,電気温水器及び太陽熱温水器の開発に大きく貢献したのである。
被告会社は,昭和51年12月ころから,被告会社の関連会社が本件特許権の構成要件を充足する製品を販売していたと主張するが,当該製品は,原告の提案を被告会社において採用し,本格的に研究を開始した後,更に1年が経過した後に発売されたものである。昭和51年当時,電気温水器に採用されていたのは,YUS27A(SUS304+Cu)であって,YUS190ではない。
イ 本件特許権の実施状況 被告会社は,昭和51年ころから昭和61年ころまでは,本件特許発明実施した電気温水器を独占的に製造・販売し,昭和62年以降は,他の製造会社から特許実施料を得ていた。また,被告会社は,昭和54年以降,太陽熱温水器について他の製造会社から特許実施料を得ていた。
(2) 相当対価の額について ア 売上総額 5335億円 被告会社において,腐食問題解決前である昭和51年には,電気温水器の年間生産高は2万台,販売額は54億円であったが,本件特許発明により同問題が解決した後である昭和52年以降は,年間生産高は4万5000台,販売額は180億円まで増加した。昭和53年から平成9年までの20年間における売上総額は,以下のとおりである。
(ア) 電気温水器 4062億円 (イ) 太陽熱温水器 1273億円 (ウ) 合計 5335億円 イ 被告会社の純利益 1067億円 被告会社が得た純利益は,上記売上総額の20パーセントを下らないというべきであるから,売上総額に20パーセントを乗じると,1067億円となる。
ウ 相当対価の額 106億7000万円 本件特許発明に関して原告が被告会社より受けるべき相当の対価は,上記純利益に原告の寄与度10パーセントを乗じて算出した106億7000万円とするのが相当である。
エ 原告による一部請求 5000万円 上記のとおり,原告は,被告会社に対し,本件特許発明の相当対価として106億7000万円を請求する権利を有しているところ,被告会社は,現在までに,合計12万8000円を支払ったのみである。なお,平成4年に10万円が支払われた後,被告会社から補償金の支払はないが,同支払の際,当該支払が最終であるとの説明はされなかった。
そこで,原告は,職務発明に基づく相当対価請求(特許法35条3項,4項)の一部請求として,被告会社が過去に得た純利益の総額1067億円に対応する相当対価106億7000万円のうち5000万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平成15年12月16日)から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を請求する。
(被告の反論) (1)ア YUS190は,既に昭和51年8月以前から温水器に使用されており,本件特許権の明細書には,原告が主張するような水道水を利用した温水器という用途の限定はない。また,本件特許発明が被告会社において社内受理された日である昭和52年10月20日より約1年前の昭和51年12月16日から,被告会社の関連会社(東芝住宅産業株式会社。以下「東芝住産」という。)は,原告とは関係なく設計・製造した電気温水器(以下「本件先行製品」という。)を販売していたところ,同製品は,本件特許発明技術的範囲に属するものであったから,本件特許発明は,出願時(昭和52年11月24日)において既に日本国内において公然知られ,また,公然実施されていた発明であった。本件先行製品の開発及び設計は,発売日から1年以上前からされており,原告が,本件特許権の内容たる構成に想到したことを窺わせる事情は一切存しない。原告は,被告会社における電気温水器の開発に関し,新日鉄が開発したステンレス鋼の耐食性の評価について関与したにすぎず,そのほか具体的な提案をしたわけではない。すなわち,本件特許権は,原告がその構造を十分に認識していた東芝住産の既販売製品を特許請求の範囲としたにすぎず,技術的にみて,発明としての価値はない。したがって,被告会社は本件特許権を受ける権利を承継したものの,特段の利益を得ていない。
イ(ア) 本件特許権の特許請求の範囲を分説すると,次のとおりである。
A 筒体と, B この筒体の一方又は他方開口端部に各裾縁部を重ねて溶接され且つ流水の流入口又は流出口がそれぞれ設けられた両蓋体とを備え, C フェライト系ステンレス鋼で形成された D 温水器用ステンレス鋼製缶体において, E 缶体組成を重量パーセントでCr:18.5〜19.5,Mo:1.8〜2.5,Ti:0.1〜0.5,Nb:0.2〜0.5,Si<0.5,C+N<0.02を含み残部Fe及び避け難い不純物から成るものとし, F 各蓋体の裾縁部と筒体の開口端部との重ねられた隙間の深さを深くとも20mmに定めた G ことを特徴とする温水器用ステンレス鋼製缶体 (イ) 本件先行製品が有する構成を,(ア)に対応して分説すると,次のとおりとなる。
a 筒体(タンク胴)と, b この筒体の一方又は他方開口端部に各裾縁部を重ねて溶接され且つ流水の流入口又は流出口がそれぞれ設けられた両蓋体(鏡板)とを備え, c フェライト系ステンレス鋼(YUS-190)で形成された d 温水器用ステンレス鋼製缶体において, e 缶体組成を重量パーセントでCr:18.95,Mo:2.05,Ti:0.15,Nb:0.27,Si:0.09,C+N:0.017を含み残部Fe及び避け難い不純物から成るものとし, f 各蓋体の裾縁部と筒体の開口端部との重ねられた隙間の深さを15.5mmに定めた g ことを特徴とする温水器用ステンレス鋼製缶体 (ウ) 上記の本件特許発明構成要件と本件先行製品の構成を比較すると,本件先行製品は,本件特許発明構成要件をすべて充足する。また,本件先行製品の構成a〜gのうち,「温水器用ステンレス鋼製缶体への『YUS-190』の使用(構成c及びe)」は,東芝電気器具株式会社(以下「東芝電気器具」という。),東芝住産,被告会社及び新日鉄による共同研究の結果に基づいて,東芝住産及び東芝電気器具の社長が,昭和51年5月27日,最終的に決定したものであるし,缶体の具体的設計(構成a,b,d,f,g)は,東芝電気器具が行った。
それ以降の製品を含め,被告関連会社により販売された電気温水器は,すべて東芝電気器具において製造されたものであり,いずれにせよ,原告がこれらの設計に具体的に関与したものではない。
ウ 以上によれば,本件特許権は,新規性欠如(出願前公知)の無効事由が存するために,権利としての価値がないものであるから,被告会社が特許を受ける権利承継したことにより受けるべき利益は存在せず,本件特許発明について,被告会社が原告に対して支払うべき相当の対価はそもそも存しない。しかも,被告会社が製造又は販売に関与した電気温水器は,本件先行製品を含め,東芝電気器具において,一貫して製造されていたもので,この点に照らせば,被告会社は,本件特許権を実施することに関しては,本件特許発明について特許を受ける権利承継したことにより何ら新たな利益を承継したものではない。したがって,このような観点からしても,本件特許権に関し,後記のとおり既に支払った各補償金のほか,原告に支払うべき対価は存しない。
エ 本件先行製品は,昭和49年12月ころから昭和51年12月ころにかけて開発されたものであるが,当時,「東芝」の標章が付された電気温水器は,東芝住産が商品企画を行い,東芝電気器具が製造し,東芝住産が販売していた。被告会社の一組織である東芝総合研究所は,東芝電気器具等から委託を受け,缶体材料の耐食性の評価研究や防食対策等の技術課題について研究を行っていた。原告も,同研究所の一部門である家電研究所などに所属しつつ,共同開発に携わり,会議に出席するなどしていた。
原告も関与した,被告会社,関連会社及び新日鉄との共同研究においては,@新日鉄が開発した「YUS190」を採用するかどうかが議論されたにすぎないこと,A電気温水器缶体の蓋体と筒体とを重ね溶接するについて,「隙間腐食」との関連において溶接方法については議論されたが,本件特許発明構成要件Fに係る「隙間の深さ」については特別の議論がされていなかったこと,B試作品の中には,「重ね溶接」において当該「隙間の深さ」を「10o」としたものがあり,本件特許発明構成要件をすべて満たすものが既に製作されていたこと,C原告が所属していた家電研究所は,「YUS190」をはじめとする缶体材料の耐食性の程度や,それらの適切な溶接方法についての検討を行ってはいるものの,当該材料を用いた缶体の具体的構造や寸法をどのようにすべきかなどについては,東芝電気器具や東芝住産に対して指示やアドバイスを行った事実を示す記録は存せず,結局のところ,原告の共同開発における役割は,耐食性の試験に限定されており,原告からは特段の提案がされていないことなどからすると,むしろ,実際の製品としての温水器の具体的な構造については,東芝電気器具が,製品製造の観点から独自に決定していたものというべきである。
なお,原告は,独自の実験によって,本件特許発明構成要件F(隙間の深さを深くとも20oに定めた点)について,技術的意義を見いだしたと主張するようである。しかし,隙間腐食防止の観点からすると,隙間はより短く,究極的にはゼロにすることが望ましいことは,技術的にみれば自明であるから,「隙間の深さ」をある値より短くするということ自体は,当業者が適宜なし得る設計事項にすぎないものである。また,本件先行製品は,前記のとおり隙間の深さが15.5oで,構成要件Fを充足するものであったし,被告会社の関連会社において,従来,隙間の深さが20oを超える電気温水器を発売していたところ,本件特許発明技術的思想を採用して,20o以下に設計を変更したという事情も存しないのであるから,本件特許発明が被告会社において技術的に貢献したとは言い難い。
なお,被告会社の関連会社により公然実施されていた技術について,特許出願がされてしまった理由は,約30年も前のことでもあり,記録の大半が失われ,関係者も退職するなどしている状況の下では,その詳細は不明である。恐らく,本件特許権の出願は,製品の製造・販売のような事業活動を行わない研究機関である東芝総合研究所が担当したため,同研究所内の特許担当者が,東芝電気器具が独自に設計,製造し,東芝住産が販売していた個々の電気温水器製品の具体的構造や販売開始時期を認識しないまま,社外弁理士に出願依頼をし,その処理をまかせた結果,特許成立までに至ったものと推測される。
(2)ア 本件特許発明については,被告会社が本件特許発明特許を受ける権利承継する際,本件特許発明は,被告会社社内における分類上,「B区分:積極的権利化は行わず,先願権の確保ないし公知化を図るべきもの」との評価がされたにとどまるし,登録後,昭和63年から平成2年まで実績補償のための評価(最高1級から最低6級まで)がされ,当該評価に応じた額の補償金が次のとおり支払われたが,この際も,「4級」又は「6級」とされたにすぎない。
(ア) 昭和53年 譲渡補償(B区分) 2000円 (イ) 昭和63年度 実績補償(4級) 2万5000円 (ウ) 平成元年度 実績補償(6級) 6000円 (エ) 平成2年度 実績補償(6級) 6000円 イ 本件特許権の東芝設備機器への譲渡に伴い,本件規程等に基づき原告に特別事情補償10万円が支払われたが,同補償は登録済みの特許権については「将来2年間の実績補償相当分」により算定されるところ,この際は,最終的な補償となることを考慮したためか,やや高めの「3級」と評価されている。
ウ 東芝設備機器は,平成3年12月11日,特許権の存続期間をなお6年間残しながら,特許料を納付しなかったため,本件特許権自体が消滅してしまっている。東芝設備機器が,本件特許権が電気温水器事業のために必須のものと評価していたのであれば,本件特許権を消滅させることはなかったはずであり,同社は,特許料の支払を継続する価値を有さないものと判断したというほかない。このような取扱いからしても,本件特許発明の有する価値が低いことは明らかである。なお,本件特許権について,被告会社が実施料収入を得たことはない。
エ 本件特許権に関する職務発明の相当対価は,上記のような本件特許発明の内容や無効事由が存することなどに鑑みると,本件規程等に基づき被告会社から原告に既に支払われた額をもって足りているというべきである。
2 消滅時効について (被告の主張) (1) 被告会社は,従業員規程等に基づいて各補償金を発明者に支払う際には,被告会社本社知的財産部(旧特許部)が作成した補償金明細書を,各事業部知的財産担当を通じて発明者に交付している。同明細書は,時期により多少書式が異なるが,補償金支払の対象となった権利(譲渡補償の場合には提案),金額,補償金の種類が記載されており,発明者は,補償金が給与と共に銀行口座に振り込まれる前に同明細書を受領していた。
この点,原告が書証として提出した特別事情補償に関する文書には,「権利譲渡補償金支払いの件」,「東芝設備機器株へ権利譲渡に伴う補償金」と明記されているのであり,原告としては,当該支払が,本件特許権の東芝設備機器への譲渡に伴う特別事情補償であって,当該支払が最後の支払となり,その後,何らの補償も被告会社から支払われることがないということを,明確に認識していたというべきである。
よって,遅くとも,特別事情補償が支払われた平成4年12月25日が消滅時効の起算点である。
(2) 本件特許権に関する各補償金の支払時期は,次のとおりである。
ア 譲渡補償について 本件特許発明につき特許を受ける権利が譲渡された当時,本件規程等において,譲渡補償は,出願の翌月に支払われるものとされていた。そこで,本件特許発明についての譲渡補償の支払時期は,出願(昭和52年11月24日)の翌月である昭和52年12月末日となる。
イ 実績補償について (ア) 前記のとおり,本件規程等において,各年度ごとに実績補償が行われるものとされているのであるから,各年度の社内実施について原告が受けるべき「相当の対価」の支払時期は,それぞれ各年度の実績補償の支払に適用される各規程等に定められた支払時期というべきである。すなわち,被告会社は,本件規程等に基づいて,各年度ごとに「相当の対価」に相当するものとして実績補償を算定し,支払うべき対価がある場合には,同規程等に定められた支払時期に支払をするのであり,もし,支払うべき対価がなければ,同支払時期に実績補償の支払がされないことになる。そして,被告会社の従業員が,支払時期を経過した時点において,対象年度の「相当の対価」の金額の支払がなかったり,または支払われた金額が不相当であると判断した場合には,過去における社内実施の程度は既に確定した過去の事実であり,将来における社内実施の可能性やライセンスの可能性などの不確定な事実とは無関係に算定することが可能であるから,従業員が対象年度の実績補償に対応する「相当の対価」の不足分を請求することについて,法律上の障害も,事実上の障害も存しない。さらに,「相当の対価」の請求権は,当事者間の長期的な信頼関係が重視される雇用契約から生じるものであること,従業者である発明者は,既にされた社内実施の状況を容易に知り得るだけの知識及び地位を有していることを考慮すると,既に確定した社内実施分について,「相当の対価」に不足があると思料する場合には,時間が経過し,事実関係が不明確にならないうちに,不足分について早期に使用者に請求すべきことが,信義則上,期待されているというべきである。
(イ) 本件規程等において,実績補償の支払時期については,「遅くとも実績調査対象年度の翌年9月末までに行うことが望ましい。」と規定されていた。
もっとも,被告会社においては,実績補償は,実績調査対象年度の翌年9月から12月までのいずれかの給与と併せて支払がされており,そのことは,被告会社の従業員にとっては周知の事実であった。本件特許権についても,前記のとおり,各実績補償がされ,原告はこれを異議なく受領していたのである。そうすると,本件特許権に関する実績補償のうち,最後に行われた平成2年度分ですら,その支払時期は遅くとも平成3年12月分給与の支払時期である平成3年12月25日である。
ウ 特別事情補償について 本件規程等において,特許権の譲渡に伴う特別事情補償も,実績補償に準じてされるものと規定されており,その支払時期は,遅くとも特許権譲渡がされた翌年度の9月31日までに支払うべきところ,本件特許権に関する特別譲渡補償も,被告会社の社内慣行により,平成4年12月給与の支払とともにされた。そこで,特別事情補償の支払時期は,平成4年12月25日である。
(3) 時効期間について ア 使用者が商法上の会社であり,発明者がその従業者である場合,使用者が特許法35条に基づいて発明者から特許を受ける権利または特許権を承継するのは,企業の目的を達成するために必要な財産法的行為にほかならないから,同条3項及び4項に基づく「相当の対価」の支払請求権は,発明者と使用者との間の発明の譲渡という財産法的行為において,発明を奨励し,産業の発展に寄与するという特許法上の観点から,発明者と使用者との間の利益を適切に調整し,発明者に発明への動機付けを与えるための請求権であって,特許を受ける権利の譲渡とそれに対する相当の対価の支払という契約関係は,基本的には付属的商行為性を帯びるというべきである。そして,発明者と使用者との間の発明の譲渡行為という定型的な商行為に基づく「相当の対価」の支払請求権についても,たとえ特許法35条に基づく「法定の権利」であるとしても,契約関係のうちの「金額」の部分のみが同条により修正され,契約の内容に化体されるにすぎず,契約の原因となるべき各事実が有する商行為性までが払拭されるわけではない。したがって,その法的性質はなお商行為上の債権であり,商行為により生じた債権について適用される「5年」の短期消滅時効(商法522条)が適用されるというべきである。本件特許権に関する「相当の対価」の請求権は,次のとおり譲渡補償,実績補償及び特別事情補償を基礎付ける事実について認められる「相当の対価」の支払時期から既に5年が経過しており,商法522条に定める短期消滅時効期間を経過している。
補償の種類 規程等上の支払時期 時効期間満了日 (ア) 譲渡補償 昭和52年12月31日 昭和57年12月31日 (イ) 実績補償(昭和62年度まで) 昭和63年12月23日 平成5年12月24日 (同月23日が祝日) (ウ) 実績補償(昭和63年度) 平成元年12月25日 平成6年12月26日 (同月25日が日曜日) (エ) 実績補償(平成元年度) 平成2年12月25日 平成7年12月25日 (オ) 実績補償(平成2年度) 平成3年12月25日 平成8年12月25日 (カ) 特別事情補償 平成4年12月25日 平成9年12月25日 イ 仮に短期消滅時効が適用されないとしても,次のとおり,本件特許権に関する「相当の対価」の請求権は,譲渡補償,実績補償及び特別事情補償を基礎付ける事実について認められる「相当の対価」の支払時期から既に10年が経過しており,民法167条1項に定める10年の時効期間を経過している。
補償の種類 規程等上の支払時期 時効期間満了日 (ア) 譲渡補償 昭和52年12月31日 昭和62年12月31日 (イ) 実績補償(昭和62年度まで) 昭和63年12月23日 平成10年12月24日 (同月23日が祝日) (ウ) 実績補償(昭和63年度) 平成元年12月25日 平成11年12月27日 (同月25日が土曜日) (エ) 実績補償(平成元年度) 平成2年12月25日 平成12年12月25日 (オ) 実績補償(平成2年度) 平成3年12月25日 平成13年12月25日 (カ) 特別事情補償 平成4年12月25日 平成14年12月25日 (4)ア 仮に被告会社が,本件特許発明について特許を受ける権利承継したことにより利益を受けており,当該利益について被告会社に「相当の対価」の支払義務が発生していたとしても,本件規程等に基づく「相当の対価」の最終的な支払時期は,前記のとおり,最も遅いものでも,特別事情補償に関する平成4年12月25日であるから,同支払義務は,本訴提起時である平成15年11月18日には,既に時効により消滅しているというべきである。
被告会社は,本件訴訟の第1回弁論準備手続期日において,消滅時効援用した。
イ 原告は,前記のとおり,被告会社から,職務発明である本件特許発明の補償金であることを知って,5回にわたりこれを受領し,さらに,平成4年12月には,本件特許権が東芝設備機器に譲渡されたことも知っていた。また,被告会社は,本件特許権の実施により多額の利益を得たわけではないから,被告会社による消滅時効援用が,信義則に反し,権利濫用となるものではない。
(原告の反論) (1) 消滅時効制度は,権利者において,権利の主張に障害がないにもかかわらず,権利を主張することをしなかったことが前提となる制度である。このような前提を欠く場合に消滅時効援用することは,信義則違反または権利濫用として許されないものというべきである。
(2)ア 1970年代から1990年代の我が国の社会において,発明者は,職務発明の企業貢献度が高くても,給与に手当を上乗せされる程度で甘んじるのが当然であるとの考えが支配的であり,貢献度に応じた独立の報償金の支払を使用者に対して請求することができるとの発想を有してはいなかった。原告も,原告の貢献により,被告会社がいかに業績を伸ばしたか,それによりいかなる金額の報償金請求権を有していたかについての認識を全く持ち得なかったのであるから,原告において,被告会社に対し,報償金の請求をしようと思えばいつでもできたという状況にはなかった。
イ 原告は,平成12年ころ以降,各企業が職務発明者から職務発明に対して多額の報償金の請求を受け,訴訟において多額の報償金の支払を命ぜられる例が相次いだことから,本件特許発明について,被告会社に対する相当の対価の請求権の存在を認識するに至ったのである。
被告会社は,原告の発明により巨額の企業利益を上げたにもかかわらず,原告にそのような事実を知らせることなく,わずかな手当の支払により原告の権利意識を封じていたのであるから,被告会社による消滅時効援用は,社会的強者が不当な方法で社会的弱者の財産権を奪うに等しく,信義則に反し,あるいは権利濫用に当たるというべきである。
ウ なお,補償金明細書は,給与と共に補償金が振り込まれた後に,担当者が原告の研究室において交付していたのであって,振り込み前に交付されていたわけではない。
当裁判所の判断
1 原告が本件特許発明をしたこと,同発明について本件規程等に基づいて特許を受ける権利を被告会社が承継したこと,被告会社が本件特許発明につき本件特許権を取得したこと,被告会社が原告に対し本件特許発明について,昭和53年に譲渡補償として3000円,平成元年10月に昭和63年度の実績補償として2万5000円,平成4年12月に東芝設備機器に対する譲渡に伴う特別事情補償として10万円 を支払ったことは,前記「前提となる事実」(前記第2,2)記載のとおりである。
2 前記「前提となる事実」(前記第2,2)記載の事実に証拠(甲7〜9,乙1,2,乙4〜18)及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の事実が認められる。
(1)ア 被告会社及びその関連会社において,電気温水器の耐食性向上を目的として,昭和49年7月ころから,「グラスライニング缶体委員会」と称する委員会が組織され,会議が重ねられた。原告は,当該会議に参加し,グラスライニング缶体(ホーロー缶体)の防錆評価等に関与していた。
イ 被告会社は,温水器用ステンレス材料について,昭和49年12月ころから新日鉄と協議を行っており,原告も,当該協議に参加していた。
ウ 被告会社は,昭和50年4月1日,新日鉄との間でステンレス鋼を使用した温水器缶体についての共同研究協定を締結した。同契約において,被告会社はステンレス鋼缶体用の素材及び缶体の加工技術の評価を,新日鉄はステンレス材料の開発,製作,提供,材料の分析及び溶接施工法の開発を,それぞれ担当することとされた。
エ 被告会社は,昭和51年6月ころまでの間,新日鉄と協議を行うとともに関連会社との間で前記委員会を開催し,YUS190を用いた電気温水器開発について研究を行った。原告は,各種協議及び委員会に参加し,主としてYUS190等の缶体材料の耐食性の試験,評価を行い,報告書を提出するなどした。もっとも,証拠上,原告が缶体における溶接部の隙間の深さについて報告したのは,昭和52年9月30日付けの技術報告書に,「幾何学的形態の相異による腐食性に関し解析した結果,隙間限界深さ20oであることがわかった。」と記載されているのみであって,原告が隙間の深さ,溶接方法等について積極的に意見を述べるなどして電気温水器の設計等に関与したことを認めるに足りる客観的な証拠は存しない。
オ 東芝住産及び東芝電気器具は,昭和51年5月27日,電気温水器の設計において,YUS190を使用することを正式に採用し,併せて溶接方法を決定するなどした上で,従前の研究成果を前提とする電気温水器の設計,製造に着手した。
カ 東芝住産は,昭和51年12月16日,YUS190を使用し,蓋体の裾縁部と筒体の開口縁部の重ねられた部分の隙間の深さを15.5oにするなどした本件先行製品の販売を開始した。
キ 原告は,52年10月20日,本件特許発明につき,被告会社に提案した。
(2)ア 被告会社においては,従業員の行った発明・考案等の特許出願等の取扱い及び従業員に対する表彰・報酬支払などに関して本件規程等が設けられている。
本件規程等においては,従業員が職務発明を行った場合は,被告会社が必要がないと認めた場合を除き,特許を受ける権利を被告会社に承継させるべきものとされ,承継に伴い,従業員には当該発明の評価(A区分からC区分までの3区分)に従い「譲渡補償」として所定の金額が支払われるものとされている。そして,被告会社の承継した職務発明につき特許登録がされ,当該特許発明が被告会社において実施された場合には,特許権が消滅するまでの期間について,各年度(各年4月1日から翌年3月31日まで)ごとに評価(1級から6級の6段階)に応じて「実績補償」として所定の金額が支払われ,従業員から承継した職務発明につき被告会社が特許を受ける権利ないし特許権を第三者に譲渡した場合には,譲渡補償及び実績補償に準じた評価に従い,「特別事情補償」として所定の金額が支払われるものとされている(出願後,登録前の実施については,登録後最初に行う補償に含めて行う。)。
イ 本件規程等に定めらた上記各補償金の支払時期は,次のとおりである。
なお,被告会社においては,補償金はいずれも給与と共に銀行振り込みにより支払われ,支払に近接した時期に補償金の種別,金額などが記載された補償金明細書が発明者に交付されていた。被告会社における給与は,毎月25日に支払われている。
(ア) 譲渡補償 当該発明について特許出願がされた翌月末日 (イ) 実績補償 規程上,遅くとも,実績調査対象年度の翌年9月末までに行うことが望ましいとされている。もっとも,調査,集計などの都合上,被告会社においては,調査対象年度の翌年9月分から12月分までのいずれかの給与と共に支払われる慣行であった。
(ウ) 特別事情補償 規程上,遅くとも,当該譲渡がされた年度の翌年9月末までに行うことが望ましいとされている。もっとも,調査,集計などの都合上,被告会社においては,譲渡年度の翌年9月分から12月分までのいずれかの給与と共に支払われる慣行であった。
ウ 本件特許発明につき,規程等上の各補償金の支払時期は,次のとおりである。
(ア) 譲渡補償 本件特許権の出願日である昭和52年11月24日の翌月の末日である昭和52年12月末日(昭和49年4月1日改正従業員発明考案取扱規程6,7条,譲渡補償細則3項)。
(イ) 実績補償 年度 支払期日 a 登録後から昭和62年度まで 昭和63年12月23日 (昭和56年8月1日改正従業員発明考案取扱規程9条1項,昭和50年4月1日制定実績補償細則Tの3及び6,昭和63年9月1日改正従業員発明考案取扱規程9条) b 昭和63年度 平成元年12月25日 (昭和63年9月1日改正従業員発明考案取扱規程9条1項,昭和50年4月1日制定実績補償細則Tの3及び6,平成元年4月1日改正従業員発明考案取扱規程9条,同日改正実績補償細則Tの3及び6) c 平成元年度 平成2年12月25日 (平成元年4月1日改正従業員発明考案取扱規程9条1項,同日改正実績補償細則Tの3及び6) d 平成2年度 平成3年12月25日 (平成2年4月1日改正従業員発明考案取扱規程9条1項,同日改正実績補償細則Tの3及び6) (ウ) 特別事情補償 本件特許権が譲渡された日である平成3年4月1日の翌年の平成4年12月25日 エ 原告は,本件特許発明に関して,本件規程等に基づいて,被告会社から少なくとも次の補償金の支払を受けた。なお,(ウ)の支払以降,原告は,本件特許発明に関して,被告会社から何らの支払も受けていない。
(ア) 譲渡補償(B区分)昭和53年 3000円 (イ) 実績補償(4級) 平成元年10月 2万5000円 (ウ) 特別事情補償 平成4年12月 10万円 (3) 原告は,本件特許発明について,譲渡補償,実績補償及び特別事情補償の各支払を受ける際,それぞれ「補償金明細書」を被告会社より受領していた。譲渡補償における補償金明細書には,「譲渡」に伴う補償である旨明記されており,昭和63年度分の実績補償における補償金明細書には,平成元年10月12日付け「特許実績補償金 10月度『給与併合払』の件(連絡)」と題する文書が添付されていた。東芝設備機器への譲渡に伴う特別事情補償の明細書には,平成4年12月24日付け「権利譲渡補償金支払いの件」と題する文書が添付されており,同文書には,「掲記の件につき,権利譲渡補償金が12月分給与併合払いとなりますので,その明細書を添付してご連絡致します。」と記載されていた。また,同明細書には,「東芝設備機器株へ権利譲渡に伴う補償金」と記載されていた。
3(1) 勤務規則等により職務発明について特許を受ける権利等を使用者等に承継させた従業者等は,当該勤務規則等に,使用者等が従業者等に対して支払うべき対価に関する条項がある場合においても,これによる対価の額が特許法35条4項の規定に従って定められる対価の額に満たないときは,同条3項の規定に基づき,その不足する額に相当する対価の支払を求めることができると解するのが相当である(最高裁平成13年(受)第1256号同15年4月22日第三小法廷判決・民集57巻4号477頁。以下「オリンパス光学事件上告審判決」という。)。
したがって,本件において,原告が本件特許発明対価として,被告会社から少なくとも12万8000円の支払を受けたことは当事者間に争いがないが,同金額が特許法35条4項の規定に従って定められる対価の額に満たないときは,原告は,被告会社に対して,不足額に相当する対価の支払を求めることができるというべきである。
(2)ア しかしながら,本件においては,被告会社は,仮に原告が何らかの対価請求権を有していたとしても,既に時効により消滅したと主張するので,消滅時効の抗弁の成否についてまず検討する。
職務発明について特許を受ける権利を使用者に承継させる旨を定めた勤務規則等がある場合には,従業者は,当該勤務規則等により,特許を受ける権利を使用者に承継させたときに,相当の対価の支払を受ける権利を取得する(同条3項)。対価の額については,同条4項の規定があるので,勤務規則等による額が同項により算定される額に満たないときは同項により算定される額に修正されるが,対価の支払時期についてはそのような規定はない。したがって,勤務規則等に対価の支払時期が定められているときは,勤務規則等の定めによる支払時期が到来するまでの間は,相当の対価の支払を受ける権利につき法律上の障害があるものとして,その支払を求めることができないというべきである。そうすると,勤務規則等に使用者が従業者に対して支払うべき対価の支払時期に関する条項がある場合には,その支払時期が相当の対価の支払を受ける権利の消滅時効の起算点となると解するのが相当である(オリンパス光学事件上告審判決)。
ウ 本件のように,勤務規則等において,相当対価を分割支払として,特許権の存続期間中,一定の期間ごとに特許発明実施の実績に応じた額を使用者から従業者に支払う旨の定めがされている場合にあっては,相当対価のうち分割された各期間における特許発明実施に対応する分については,それぞれ当該分割金の支払時期が到来するまでその支払を求めることができないのであるから,相当対価の支払を受ける権利について,分割された各期間における特許発明実施に対応する分ごとに当該支払時期から消滅時効が進行するものと解するのが相当である。
そして,この場合において,特許権の存続期間中に使用者が特許権を第三者に譲渡したときは,使用者は,相当対価につき,特許権の当該譲渡により得るべき利益(その時点における当該特許権の評価額)に対応する分の支払を最後として,その後は従業者に対する相当対価の支払を要しないところ,相当対価のうち譲渡により得るべき利益に対応する分についても,勤務規則等に支払時期に関する条項がある場合には,その支払時期から消滅時効が進行するものと解すべきである。
エ 本件については,前記1,2において認定したとおり,被告会社においては,本件特許発明についての特許出願に先立って,本件規程等が設けられており,それによれば,従業員が職務発明をした場合には,特許を受ける権利承継時,特許発明実施時及び特許権の第三者への譲渡等の特別事情が生じた時に,その都度,当該特許発明の評価に基づいて補償金の金額を決定して支給するものと定められており,原告も,被告会社から,少なくとも,本件特許発明につき特許出願がされた昭和53年に譲渡補償3000円,平成元年10月に昭和63年度の実績補償2万5000円,平成4年12月に譲渡に伴う特別事情補償10万円の各支払を受けたものである。前記認定事実に照らせば,本件規程等の定める上記補償金が職務発明対価の一部をなすものであることは明らかであり,本件規程等における補償金の支払時期に関する条項は,相当対価の支払時期に関する定めに該当するものというべきである。
前記のとおり,本件特許権については,譲渡補償の支払時期は昭和52年12月末日,登録後から昭和62年度までの実績補償の支払時期は昭和63年12月23日,昭和63年度の実績補償の支払時期は平成元年12月25日,平成元年度の実績補償の支払時期は平成2年12月25日,平成2年度の実績補償の支払時期は平成3年12月25日であるから,相当対価のうち当該補償金の対象期間に対応する分(前記のとおり平成2年度分まで。すなわち,本件特許権の東芝設備機器への譲渡の前日である平成3年3月31日までの分)については,消滅時効の起算点はそれぞれ該当の支払時期というべきである。
また,本件規程等においては,職務発明として従業員から承継した特許権を被告会社が第三者に譲渡した場合にあっては,「特別の事情」に伴う補償として,特別事情補償が支払われ,その後は被告会社から当該特許権に関して実績補償等が支払われることはないものとされているところ,本件特許権については,平成3年4月1日に本件特許権が東芝設備機器に譲渡されたことに伴う特別事情補償の支払時期が平成4年12月25日であるから(前記2(3)において認定のとおり,同日ころ支払われた10万円が東芝設備機器への本件特許権の譲渡に伴う特別事情補償金であることは,原告に告知されていた。),相当対価のうち特許権の譲渡により得るべき利益に対応する分については,消滅時効の起算点はその支払時期である平成4年12月25日というべきである。
オ そうすると,本件特許発明に関する職務発明の相当対価については,被告会社は,本件特許権を東芝設備機器に譲渡したことにより得るべき利益(その時点における本件特許権の評価額)に対応する分の支払を最後として,その後は特許発明実施に対応する相当対価の支払を要しないから,結局,本件特許発明に関する職務発明の相当対価請求権については,最後に消滅時効が進行する分(相当対価のうち譲渡の利益に対応する分)の時効の起算点が平成4年12月25日ということになる。
職務発明の相当対価請求権は,特許法35条により従業者に認められた法定の権利であるから,消滅時効期間は10年と解すべきものである。
原告は,平成15年11月18日に本件訴訟を提起したものであるところ,本件特許発明についての職務発明の相当対価請求権は,遅くとも特別事情補償の支払時期から10年間の時効期間の満了,すなわち平成14年12月25日の経過をもって,消滅時効が完成しているというべきである。
(3) 原告は,本件特許権により多額の利益を得ていた被告会社が,そのことを原告に知らせることなく,わずかな手当の支払により原告の権利意識を封じていたのであるから,被告会社による消滅時効援用は,社会的強者が不当な方法で社会的弱者の財産権を奪うに等しく,信義則に反し,あるいは権利濫用に当たると主張するが,本件において,原告の上記主張を認めるに足りる証拠はない。
かえって,前記1,2において認定したところによれば,@ 本件特許発明については,原告による社内提案時,既に被告関連会社により本件先行製品が販売されていたこと,A 被告会社,関連会社,新日鉄との共同研究等においても,原告が主導的に研究を進めたことを窺わせるような事情は見られないこと,B 各補償金の金額算定に際して本件特許権の評価は高いものではなかったが,これらの補償金を受領した際,原告は当該評価に関して被告会社に対し異議を申し立てていないこと,C 本件特許権の譲渡を受けた東芝設備機器は,特許料を納付せず,同特許権は消滅したことなどに照らすと,原告主張のように被告会社が本件特許権により多額の利益を得ていたとか,原告の報償金請求を封じていたなどという事情が存在したとは窺われない。
上記によれば,被告会社による消滅時効援用信義則に反し,あるいは権利の濫用に当たる旨をいう原告の主張は,採用できない。
4 結論 以上によれば,本件特許発明について被告会社から本件規程等に基づき補償として原告に支払われた金額が,仮に特許法35条4項の規定に従って定められる対価の額に満たないとしても,原告の対価請求権については既に消滅時効が完成しているというべきであるから,支払われた金額の相当性についての判断を行うまでもなく,原告の本訴請求は理由がないというべきである。
よって,主文のとおり判決する。
裁判長裁判官 三村量一
裁判官 鈴木千帆
裁判官 荒井章光