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関連審決 審判1990-22090
関連ワード 有用性 /  物の発明 /  方法の発明 /  製造方法 /  新規性 /  容易に実施 /  物質発明 /  容易に発明 /  相違点の認定 /  先願の地位 /  29条の2(拡大された先願の地位) /  技術的手段 /  遡及 /  パリ条約 /  優先権 /  優先日 /  禁反言 /  実施 /  同意 /  拒絶査定 /  請求の範囲 /  変更 /  要旨変更 / 
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事件 平成 4年 (行ケ) 100号
裁判所のデータが存在しません。
裁判所 東京高等裁判所
判決言渡日 1993/10/20
権利種別 特許権
訴訟類型 行政訴訟
主文 特許庁が、平成2年審判第22090号事件について、平成4年3月19日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
当事者の求めた判決
1 原告主文と同旨2 被告原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯 原告は、昭和55年3月31日、名称を「MB―530A誘導体」とする発明につき、特許出願をした(特願昭55―41292号)が、平成2年10月31日に拒絶査定を受けたので、これに対し不服の審判の請求をした。
特許庁は、同請求を平成2年審判第22090号事件として審理したうえ、平成4年3月19日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし、その謄本は、同年4月25日、原告に送達された。
2 本願発明の要旨別添審決書写し記載のとおりである。
3 審決の理由 審決は、別添審決書写し記載のとおり、4件の米国特許出願(1980年2月4日出願の出願番号第118049号、同第118051号、1980年8月5日出願の出願番号第175232号、同第175460号)に基づく優先権を主張して、昭和56年2月4日にわが国において出願され、本願発明の出願の日の後に公開された特許願昭56―14479号の願書に最初に添付された明細書(以下「先願明細書」といい、これに記載された発明を「先願発明」という。先願明細書の内容は、特開昭56―122375号公報記載のとおり。)の記載を引用し、本願発明は、先願明細書に記載された目的物質である先願化合物(構造式Ta)についての発明と同一であり、この先願化合物についての発明は、上記優先権主張に係る米国特許出願のうち、本願の出願日前に出願された米国特許出願第118049号の明細書(以下「米国明細書A」といい、その出願を「米国特許出願A」という。)及び同第118051号の明細書(以下「米国明細書B」といい、その出願を「米国特許出願B」という。)に記載されているから、本願発明は、パリ条約4条B項、特許法29条の2第1項の規定により、特許を受けることができないと判断した。
原告主張の審決取消事由の要点
審決の理由のうち、先願明細書及び米国明細書Bの記載内容の認定(審決書4頁10行〜8頁19行)、本願発明と先願発明との一致点及び相違点の認定並びに本願発明と先願発明とが同一の化合物の発明であるとの判断(同10頁9行〜13頁1行)は、いずれも認める。
また、先願明細書に、完成された先願化合物の記載があることも認める。
しかしながら、先願発明の優先権主張の基礎とされた米国明細書A又は同Bに記載された先願化合物について、その明細書の記載がいずれもパリ条約(1900年12月14日にブラッセルで、1911年6月2日にワシントンで、1925年11月6日にヘーグで、1934年6月2日にロンドンで、1958年10月31日にリスボンで及び1967年7月14日にストックホルムで改正された工業所有権の保護に関する1883年3月20日のパリ条約)4条H項の要件を満たしておらず、先願化合物についての発明は未完成であり、あるいは、明細書の開示不十分の瑕疵を有するのに、審決は、それらの明細書に瑕疵はないとした結果、先願発明が米国特許出願A又は同Bに基づく優先権の主張ができるとする誤った判断に至ったものであるから、違法として取り消されなければならない。
1 米国明細書A又は同Bにおける先願物質の発明未完成若しくは開示不十分 審決は、米国明細書Bでは「目的の化合物が得られていることから、その原料物質も存在していたことは明らかである。」(審決書15頁3〜5行)と認定し、
「米国明細書Bには、当該原料物質は他の米国特許出願の番号を引用して醗酵法により製造されるものであることが記載されており、当該原料物質を入手するための技術的手段が示されており、当該他の米国特許出願は米国特許第4231938号として特許明細書が発行されている。してみれば、先願発明が技術的に不可能なことが明らかな技術的手段を前提として為されたものであるとも認められない。」(同15頁5〜13行)、「米国明細書A又はBには前記先願化合物が提供されたことが技術的にも裏付けられて記載されていること、及び、前記先願化合物を製造する方法及びその有用性を明らかにする記載も為されていることは、先に摘示したとおりであり、これらについての米国明細書A又はBの記載に瑕疵はない。」(同14頁7〜13行)と判断したが、誤りである。
(1) 本願発明及び先願発明の目的物質である先願化合物Taの構造は、その出発物質Vaの構造によって実質的に決定される密接な関係にあり、別紙製造工程図に示すように、8′―(2ブチルカルボニル)オキシ誘導体(出発物質Va)の8′位のアシル基を脱アシル化して4,8′―ジヒドロキシ誘導体(Wa)を得、これにt―ブチルジメチルクロロシランを反応させて4―シリル誘導体(Xa)とし、次いで8′位をアシル化して4―シリル化―8′―アシロキシ誘導体(Ya)とした後、4位のシリル基を脱シリル化して目的化合物(Ta)が製造される。すなわち、目的化合物Taは、構造式Va→構造式Wa→構造式Xa→構造式Ya→構造式Taという化学的合成工程を経て製造されるのであるが、いずれも基本骨格が同じ化合物であるから、当業者にとって、このような合成工程自体は、出発物質Vaが提供され、目的化合物Taの構造式が示されれば、比較的容易に製造することができるものである。
ところが、出発物質Vaは、新規な物質であり、特定の新規な菌株を用いて、これを特定の条件で培養することによって初めて得られる醗酵性生産物であって、米国特許出願A及び同Bの出願時点において、これを製造するためには、製造に必要な特定の微生物が寄託され、その微生物名が開示され、さらに培養温度、培地等の培養条件、抽出法、精製法等が開示されていなければ、これを生産しうる可能性は全くなかった。
(2) しかるに、米国明細書Bには、出発物質Vaの構造式は示されているものの、これについては、「さらに最近になって、【A】等は、(1979年6月15日出願のUSSN48,946において)MSD803と命名され、全く異なる醗酵から単離された表T中の構造式Vaを有する阻害剤を報告した。」(甲第4号証訳文2頁15〜17行)として、その出願当時には未公開であった自己の先願米国特許の出願日(1979年6月15日)と出願番号(USSN48,946)を引用しているのみであり、この出発物質Vaをいかなる微生物から製造するかにつき、何らの記載もなく、このことは米国明細書Aについても全く同様である(甲第3号証訳文2頁本文下から3行〜3頁1行)。
すなわち、出発物質Vaは、米国特許出願A及び同Bの各出願当時、未公開の特許出願の番号によって引用されているのみであり、このような公開ないし頒布されていない文献の引用は、米国明細書A及び同Bの記載内容を補充するものではなく、前記引用は、出発物質Vaを製造する上で何らの情報を提供するものではない。
現に、出発物資Vaの製造方法が初めて明らかにされたのは、本願出願より後の1980年(昭和55年)8月5日に米国特許出願Aに係る部分継続出願として出願された前示米国特許出願第175232号(以下「米国特許出願C」という。)及び同日に米国特許出願Bに係る部分継続出願として出願された前示米国特許出願第175460号(以下「米国特許出願D」という。)の各明細書においてであるが、この事実も、米国明細書A及び同Bにおいて、発明の構成部分が明らかにされていなかった証左であり、米国明細書A及び同Bで引用された前示米国特許出願48946号が、米国特許第4231938号として特許されたのも、本願出願の後である1980年11月4日である。
また、出発物質Vaの化学的合成が米国特許出願A及び同Bの出願当時に、当業者において可能であったか否かについて検討しても、構造式Va中には、不斉炭素が8個存在し、それによる式Vaの光学異性体は、理論的に2の8乗=256種類存在し、これを立体特異的に化学合成することは不可能であった。事実、構造式Vaで表される物質の化学的合成に成功したのは、1983年(昭和58年)である。
(3) 審決は、目的の化合物が得られていることから、その原料物質も存在していたことは明らかであると認定し、米国明細書A又は同Bの記載に基づかずに出発物質の存在を認定しているが、倒立した議論というべきである。
特許庁の「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」によれば、その第一部、
第1「化学物質発明に関する運用」の「W化学物質発明の成立性」の項には、「1 化学物質そのものが明細書において確認できない場合,その化学物質は発明として成立していないものとして取り扱う。2 化学物質の製造方法が明細書に明らかになっていない場合,その化学物質は発明として成立していないものとして取り扱う。〔注〕その化学物質の製造方法が微生物を利用する場合のみであって,出願前その微生物が容易に入手できないものであるときは,出願前その微生物の寄託を必要とする。3 化学物質の有用性が明細書に明らかになっていない場合,その化学物質は発明として成立していないものとして取り扱う。」と記載され、化学物質の発明が完成しているといえるためには、化学物質そのものが明細書において確認できること、化学物質の製造方法が明細書において明らかになっていること及び化学物質の有用性が明細書に明らかになっていることの3要件が必要であり、そのいずれかを欠くものは、発明未完成とされる。
また、同「運用基準」の第一部、第1の「U 明細書の記載要領」の項には、特許法36条4項(昭和60年法律第41号による改正前のもの、以下同じ。)の規定を受けて、「化学物質の製造方法は、少なくとも一つ記載されていなければならない。その製造方法は、原料物質、製造条件及び場合によっては製造装置等必要な事項と共に当業者が容易に実施できる程度に具体的に記載されていなければならない。」(同2(4))と記載され、その「Y 明細書の要旨変更」の項には、「化学物質の製造方法が明らかになっていない明細書にその製造方法を加える補正は、
明細書の要旨を変更するものとする。」(同2)とされている。
このように、目的化合物の製造のために必須でしかも未知の微生物に由来する新規な物質を出発物質として初めて得られる新規化合物の発明において、単に出発物質の構造式が示されているだけでは、発明の構成部分が明らかに記載されているということはできず、審決の上記認定は誤りである。
2 優先権主張の要件 パリ条約4条H項は、「優先権は、発明の構成部分で当該優先権の主張に係るものが最初の出願において請求の範囲内のものとして記載されていないことを理由としては、否認することができない。」として、最初の出願において特許請求の範囲に記載していない構成部分に係る発明についても優先権を主張することができる旨規定しているが、同項ただし書に、「最初の出願に係る出願書類の全体により当該構成部分が明らかにされている場合に限る。」と規定しているとおり、その発明の属する技術分野における通常の知識を有する者が、最初の出願当時の技術水準に基づき、容易に発明実施することができる程度に発明に係る構成部分が具体的に記載されていることが、優先主張の要件である。
本件においては、上記1のとおり、先願発明の特許出願に当たって、出発物質Vaの製造方法を具体的に開示した米国特許出願C及び同Dを米国特許出願A及び同Bと合わせて優先権主張の基礎とし、先願明細書に出発物質Vaの製造方法を具体的に明らかにした先願化合物Taの発明を記載したものであるが、米国特許出願C及び同Dの出願日は本願出願日の後であるから、本願に対する関係でこれに基づく優先権主張の利益を享受することができず、本願出願日に先立つ米国特許出願A及び同Bの各明細書には、先願化合物Taを製造するのに必須不可欠で、しかも最も重要な出発物質Vaの製造方法の記載を欠き、パリ条約4条H項の要件を充足せず、結局、米国明細書A及び同Bに記載された発明と先願明細書に記載された発明との間には、パリ条約上の優先権主張の要件である発明の同一性を欠くこととなり、先願発明は、米国特許出願A及び同Bに基づく優先権主張の利益を享受することはできない。
3 以上のとおりであるから、先願発明につき米国特許出願A及び同Bに基づく優先権主張を肯定し、これを前提にして、本願発明の出願日である昭和55年3月31日に遅れて昭和56年2月4日に出願された先願発明を本願の先願として、特許法29条の2を適用した審決の認定判断が誤りであることは明らかである。
被告の主張の要点
審決の認定判断は、以下のとおり正当であり、原告の取消事由の主張は理由がない。
1 原告の主張1について 本願発明及び先願発明において、その目的物質である先願化合物Taの製造過程が原告の主張1(1)のとおりであること、米国特許出願A及び同Bの出願当時、
先願化合物Taの出発物質Vaが新規な物質であり、微生物を利用する醗酵性物質であることは認める。
審決認定のとおり、米国明細書Bには、その発明の技術内容として欠くことのできない事項である出発物質Vaを用いた先願化合物Taの製造方法が具体的な技術手段を伴って記載されており、目的物質である先願化合物Taが得られたことも確認値とともに記載されている。
そして、出発物質Vaを入手するための具体的な方法の開示はないものの、他の米国特許出願の出願日及び出願番号(1979年6月15日出願のUSSN48,946)並びに醗酵法により製造されることが記載され、前記のとおり先願化合物Taが得られていることから、出発物質Vaが存在していたことも明らかである。
原告は、出発物質Vaの製造方法が具体的に記載されていないことをもって、出発物質Vaの製造方法が開示されていないと主張し、特許庁の「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」を根拠とするが、同「運用基準」において、発明の成立性につき、原告の主張するような3要件を要求しているのは、化学物質発明の特質から、製造方法及び有用性が発明の効果の裏付けとしてとらえられているからであり、同時にこれらの要件の存在が化学物質発明の目的達成手段についての裏付けをなすからである。そして、このような裏付けに足りる記載があれば、これらの要件は備わっているものとみるべきである。米国明細書Bの記載は、この裏付けとなる記載として十分であるから、先願化合物Taの発明は、米国明細書Bにおいて完成しているとみるべきである。
原告は、また、出発物質Vaは、米国明細書Bの記載をもってしては、その出願当時の技術水準に基づき、当業者が製造することができないものであったと主張するが、米国明細書Bの記載が不十分であったとしても、同明細書において引用されている米国特許出願第48946号(1979年6月15日出願)は、米国特許第4231938号として特許明細書が発行されており、出発物質Vaの製造が技術的に可能なことが明らかである。
そして、米国明細書Bに記載の発明及びこれに基づく先願発明は、化合物Vaの製造方法の発明でもその物の発明でもなく、化学物Taに関する発明であり、しかも、先願化合物Taの製造方法は、原告主張のとおり、Va→Wa→Xa→Ya→Taという工程をとり、出発物質Vaは、目的物質Taの4工程も前の製造原料であるから、出発物質Vaの製造方法は、目的化合物Taに関する発明の成立・不成立に直接関係するものではない。出発物質の製造方法の開示の程度は、当該物質の入手の困難性の程度に応じて定まる記載要件の問題にすぎない。
そして、特許法36条4項の規定は、「願書に最初に添付した明細書」と規定されていないことから明らかなように、明細書の記載が出願当初から完全であることは望ましいものの、これが不十分な場合でも、技術文献として当業者が容易に発明実施をすることができる程度に記載されていれば、明細書の要旨を変更しない限度でその補正が認められることを前提としており、その補正の効果は出願時まで遡及する。これを先願明細書についてみるに、上記のとおり、先願発明の成立性に関する要件は、米国明細書Bの記載において十分満たされており、その技術内容が特定されている以上、先願発明の出願時前に明らかになっていた出発物質Vaの製造方法を補充することは、新規な事項の加入ではなく、単に不明瞭な記載を補完したにすぎず、当初出願の明細書に記載されている事項の範囲内として認められるものであり、明細書の要旨を変更するものには当たらない。
したがって、審決が、「米国明細書A又はBには前記先願化合物が提供されたことが技術的にも裏付けられて記載されていること、及び、前記先願化合物を製造する方法及びその有用性を明らかにする記載も為されている」とし、「これについての米国明細書A又はBの記載に瑕疵はない」とした判断に誤りはない。
2 同2について 上記のとおり、米国明細書Bの記載は、先願化合物Taに関する発明の成立性を裏付けるのに十分であり、パリ条約4条H項ただし書にいう「当該構成部分が明らかにされている」との要件を満たすものである。
したがって、先願発明である特願昭56‐14479号は、パリ条約4条B項及び特許法26条の規定による優先権主張の利益を享受することができ、先願発明の先願としての基準日は、米国特許出願A又は同Bに基づく優先権主張日である1980年(昭和55年)2月4日であるとした審決に誤りはなく、原告の主張は理由がない。
証拠(省略)
当裁判所の判断
1 本願発明に係る目的化合物が構造式Taで示される先願化合物と同一の化合物であること、先願化合物が、別紙製造工程図に記載されているとおり、構造式Vaによって示される化合物を出発物質とし、構造式Va→構造式Wa→構造式Xa→構造式Ya→構造式Taという化学合成過程によって製造されること、本願出願日の前に米国において特許出願された米国特許出願A及び同Bの各明細書(米国明細書A及び同B)において、出発物質Vaが、特定の微生物を用いた醗酵法によって製造されることが記載されている反面、その微生物の特定及び培養条件、抽出法、
精製法等の開示がなく、出発物質Vaの製造方法については、単に、「さらに最近になって、【A】等は、(1979年、6月15日出願のU.S.S.N.48946において)MSD803と命名され、全く異なる醗酵から単離された構造式:(略)Vaを有する、さらに強力な阻害剤を報告した。」(甲第3号証・米国明細書A訳文2頁本文下から3行〜3頁1行)及び「さらに最近になって、【A】等は、(1979年、6月15日出願のUSSN48,946において)MSD803と命名され、全く異なる醗酵から単離された表T中の構造式Vaを有する阻害剤を報告した。」(甲第4号証・米国明細書B訳文2頁15〜17行)として、その出願当時には未公開であった自己の先願米国特許の出願日(1979年6月15日)と出願番号(USSN48,946)とを引用しているのみであること、出発物質Vaの製造方法につき開示がなされたのは、米国特許出願A及び同Bのそれぞれの一部継続出願として、本願出願日の昭和55年3月31日より後の1980年8月5日にされた米国特許出願C及び同Dの各明細書においてであり、米国特許出願A及び同Bに合わせて米国特許出願C及び同Dに基づく優先権を主張して、本願出願日よりも後の昭和56年2月4日に出願された先願発明の明細書においては、
出発物質Vaの製造方法を具体的に明らかにした先願化合物Taの発明が記載されていることは、いずれも当事者間に争いがない。
2 そこで、先願発明の特許出願が、本願出願日の前である1980年(昭和55年)2月4日に米国において特許出願された米国特許出願A及び同Bに基づく優先権主張の利益を享受でき、本願に対する関係で、先願の地位を有するかどうかについて検討する。
(1) 一般に、わが国においては、化学物質の発明の成立が肯定されるためには、@化学物質そのものが明細書において確認できること、A化学物質の製造方法が明細書に明らかにされていること及びB化学物質の有用性が明細書に明らかにされていることの3要件が必要であることは当事者間に争いがなく、「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」(昭和50年10月特許庁策定)によれば、その第一部、第1「化学物質発明に関する運用」の「U 明細書の記載要領」の項には、
「化学物質の製造方法は、少なくとも一つ記載されていなければならない。その製造方法は、原料物質、製造条件及び場合によっては製造装置等必要な事項と共に当業者が容易に実施できる程度に具体的に記載されていなければならない。」(同2(4))と記載され、また、「W 発明の成立性」の項には、上記三つの成立要件の記載に付加して、「その化学物質の製造方法が微生物を利用する場合のみであって、その微生物が容易に入手できないものであるときは、出願前その微生物の寄託を必要とする。」と注記され、さらに、その「Y 明細書の要旨変更」の項には、
「化学物質の製造方法が明らかになっていない明細書にその製造方法を加える補正は、明細書の要旨を変更するものとする。」(同2)と記載されていることは、当裁判所に顕著な事実であり、この運用基準の示すところは、わが国の特許法の規定に照らし、化学物質の発明の成立を判断するうえで妥当なものと認められる。
(2) そこで、先願発明及び本願発明が共通の目的物質とする先願化合物Taについて、その製造方法を検討する。
前記のとおり、先願化合物Taは、構造式Vaで示される物質を出発(原料)物質として、4工程の化学合成過程を経て製造されるものであるところ、出発物質Vaの製造方法の具体的・詳細な記載箇所である先願発明の公開特許公報(甲第5号証)によれば、「出発物質Va……はメルク社(MERCK,&CO.,Inc.,Rahway,New Jersey)の培養コレクシヨン中でMF―4845と称する菌株アスペルギルステレウス(Aspergillus terreus)、ATCC.No.20542(微工研菌寄第5233号)による醗酵生成物である。……さらに最近【A】等は米国特許第4,231,938号中で、MK―803と称し、構造式Va(R′=CH3)を有するもので完全に異った醗酵により単離される阻害物質を報告している。」(同号証明細書19欄14行〜20欄15行)との記載に引き続き、「A醗酵(培地、微量元素溶液)」と「B単離(抽出、ラクトン化、シリカゲルによるクロマトグラフイー、シリカゲルによる再クロマトグラフイー、逆相充てんによるクロマトグラフイー)」に分けて、具体的な方法を記載している(同21欄1行〜27欄8行)ことが認められる。
そして、北海道大学名誉教授【B】作成に係る意見書(甲第10号証)には、
「Vaを製造するには、先ず、日本出願明細書の6頁左上欄に記載されている、Vaの生産菌のアスペルギルス、テレウスATCCNo.20542を当該菌の寄託機関であるATCCより分譲を受け、入手することから始まる。ついで、これを同6頁左下欄から同7頁左上欄に記載された培養方法にしたがって、まずVaを含有する培養液を得る。次に、この培養液を、同7頁左上欄から同頁左下欄に記載された方法にしたがって、抽出、ラクトン化、およびシリカゲルによるクロマトグラフィー等の諸操作を行い、かくしてVaが得られるものと考えられる。
続いて、Vaを原料物質として、14頁右上欄に記載された工程図Aに従ってTaを合成する。この一連のステップは、本質的に、Vaの分子中、8′位に存在する2―メチルブリチル基(アシル基の一種である)を外して、Waのジオキシ化合物(分子中に2個の水酸基、―OH、を有している)を得る工程1と、このジオキシ化合物の8′位の水酸基を、2―メチルブチリル基以外のアシル基で、再度アシル化する工程5とからなる。工程2と工程3または4とは、一分子中に存在する2個の水酸基のうち、ナフタレン環の8′位の水酸基のみをアシル化するためにラクトン環の4位の水酸基にシリル基を一時的に導入して4位もアシル化されるのを防ぐ工程と、そのように導入されたシリル基を外して4位の水酸基を復元する工程であって、いわば本質的な工程ではない。」(同2頁8行〜24行)と記載され、結論として、先願明細書から原料物質Va及び先願物質Taを製造することは、平均的な合成化学者にとって著しい困難性はないことが記載されている(同2頁25〜27行)。
しかしながら、同意見書には、米国明細書A又は同Bの記載に基づく、「式Vaの化合物の製造、および、それを出発原料とする式Taの化合物の製造に関しては、当時の平均的技術者にとって、不可能であったと考える。何故ならば、Vaを製造することが、当時の平均的技術者にとって、醗酵的方法によっても、また有機化学的方法によっても不可能だったからであり、そして、原料物質のVaが製造できない以上、それから先の工程は実施するに由なく、従って目的物質Taも製造することが出来ないからである。」(同3頁3〜8行)と記載され、その理由につき、醗酵法による製造可能性について、「凡そあらゆる醗酵は、培地中の微生物の増殖作用に基ずくのであるから、先ず、MSD803を生産する微生物が特定されていなければならない。数100万種といわれる微生物(細菌、カビ、酵母、放線菌など)のなかから、通常の技術者がMSD803の構造式のみを頼りに、偶発的にその生産菌を見つけ、MSD803を製造する可能性は皆無に近い。かかるMSD803生産菌について、米国明細書は全くこれを特定していず、また、その手かがりとなる記載も皆無である。」(同3頁17〜22行)と、また、有機化学的手法による可能性について、「Vaは、……計8個の不斉炭素を含む(それ故、256の光学異性体が存在しうる)という極めて、特異かつ複雑な化合物である。これを、合成的に得るには、イ)……いわゆる全合成法と、ロ)……例えば……「コンパクチン」を出発物質とする方法とが考えられる。」(同4頁9〜20行)としたうえで、イ)の化学的全合成法については、「最初の成功は、先駆的研究の速報誌である、Tetrahedron Lettersに1983年に【C】氏(サントリー生物有機科学研究所、現東北大学理学部教授)により報告されたものであった。……その後、Va合成は、1988年および1989年に米国の研究者により報告された……のみであって、この化合物の合成が、依然として世界の有機合成化学者に挑戦される困難なターゲットになっていることが理解できる。……以上のように、米国特許出願時に平均的技術者が全合成的にVaを得ることが至難であったことは自明である。」(同4頁25〜5頁本文14行)と記載され、ロ)の近縁の公知化合物を出発物質とする方法については、コンパクチンについては【D】が発表したML―236Bという(A)の構造を持つものと、【E】等により発表された構造式(B)を持つものとがあり、両物質が同一のコンパクチンと考えられていたが、1985年に、メルク社がコンパクチンの正しい構造式が(A)であることを断定するまでは、一般に(B)の構造式を持つものがコンパクチンであると考えられていたため、構造式(B)のコンパクチンからの合成によっては、Vaの立体異性体である(C)の構造を有するものが得られてしまい、米国特許出願A又は同Bの出願当時、コンパクチンからVaを合成することは理論的に不可能であったことが記載されている(同5頁本文下から2行〜8頁末行)。
以上の記載によれば、先願化合物Taの製造方法のうち、最も重要かつ基本的な点は、出発物質Vaの製造方法であり、米国特許出願A又は同Bの各出願当時、その製造方法は、米国明細書A又は同Bに示された【A】等の他の米国特許出願第48946号による新たな醗酵法による以外になく、これが開示されていれば、その後の4工程の化学合成は当業者にとって可能であったものの、米国明細書A又は同Bには上記のとおり、他の米国特許出願番号のみが記載され、その開示がなされていなかったことから、その詳細な製造方法を当業者が知りうる手段はなかったことが明らかである。
(3) そうすると、米国明細書A又は同Bは、目的物質である先願化合物Taを得るにつき最も根源的かつ重要な出発物質Vaの製造方法について、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者(当業者)が容易に実施をすることができる程度にまで開示したものということはできず、結局、先願化合物Taの発明としては、当業者が反覆実施して目的とする技術効果を挙げることができる程度にまで具体的・客観的なものとして構成されているということができないから、前示運用基準に定める発明の成立性の要件を満たしておらず、わが国特許法上の解釈として、発明未完成の瑕疵があるものというべきである。
被告は、米国明細書A又は同Bにおいて目的物質Taが得られたことが確認値とともに確認されている以上、その出発物質である構造式Vaの製造方法は、記載不十分であるとしても、後に補正の許される範囲にあると主張する。
しかしながら、仮に米国特許出願A又は同Bにおいて目的物質Taが確認されていることが確実であるとしても、出発物質Vaの有する上記重要性並びに米国特許出願当時におけるその製造方法(特定の菌株を用いた特定の製造方法)及び物質の新規性に照らし、採用の限りではない。
このことは、米国特許法による解釈を採用しても同様であることは、元判事【F】の見解(甲第11号証)に「結果として、米国特許法の目でみれば、メルクの′049及び′051出願は発明を十分に記述していないし、1980年2月4日の優先日の権利を有さないであろう。米国特許法のもとでのメルクの正当な優先日は、特許法令の要件を明白に満たす出願を提出した日付けである1980年8月5日である。メルクが、1980年2月4日の優先日の権利を有していたと主張しうる如何なる可能性があろうとも、ともかくそれは上述したLitton判例によって阻まれるであろう。したがって、メルクは、問題となっている出願手続遂行中の自らの行為の結果、1980年8月5日以前の優先日を主張するのを禁反言によって阻まれるであろう。」(同号証訳文19頁7〜16行)とあることから明らかである。
3 以上のとおり、米国特許出願A又は同Bは、わが国特許法上の解釈として、先願化合物Taの発明につき発明未完成の瑕疵があるものというべきであるから、完成された先願化合物Taの発明である先願発明の特許出願との同一性を欠くものといわなければならない。
このように解される以上、先願発明は、米国特許出願A又は同Bに基づきパリ条約4条B項に定める優先権主張の利益を享受することはできないというべきであり、これら米国特許出願と合わせて優先権主張の基礎とした米国特許出願C及び同Dの出願日及び先願発明の出願日が本願発明の出願日に遅れることは明らかであるから、先願発明の特許出願が、本願発明の特許出願に対し、先願としての地位を有するものということはできない。
これと異なる前提に立って、先願発明に先願としての地位を認めた審決の判断は誤りであり、原告主張の審決取消事由は理由がある。
よって、原告の本訴請求を認容し、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。
裁判官 牧野利秋
裁判官 山下和明
裁判官 木本洋子