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関連審決 不服2001-5952
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審判番号(事件番号) データベース 権利
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平成14行ケ199特許取消決定取消請求事件 判例 特許
関連ワード 進歩性(29条2項) /  容易に発明 /  技術常識 /  化学構造 /  パリ条約 /  優先権 /  優先日 /  置換 /  容易に想到(容易想到性) /  実施 /  拒絶査定 /  請求の範囲 /  国際公開 / 
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事件 平成 15年 (行ケ) 405号 審決取消請求事件
原告 シャイアーバイオケム インコーポレイテッド
訴訟代理人弁理士 杉村興作
同 高見和明
同 徳永博
同 梅本政夫
被告 特許庁長官小川 洋
指定代理人 小柳正之
同 森田 ひとみ
同 一色 由美子
同 涌井幸一
同 宮下正之
裁判所 東京高等裁判所
判決言渡日 2004/09/16
権利種別 特許権
訴訟類型 行政訴訟
主文 1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
当事者の求めた裁判
1 原告 (1) 特許庁が不服2001-5952号事件について平成15年5月1日にした審決を取り消す。
(2) 訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告 主文1,2項と同旨
当事者間に争いのない事実等
1 特許庁における手続の経緯 原告は,平成7年4月19日,パリ条約による優先権を主張して(優先権主張日1994年4月20日(以下「本件優先日」という。),優先権主張国米国),発明の名称を「抗ウイルス性を有する置換1,3-オキサチオラン」とする発明(後記補正後の請求項の数は13である。)について,特許出願(平成7年特許願第527244号,以下「本件出願」という。)をし,平成12年12月27日付けで拒絶査定を受けたため,平成13年4月16日,これに対する不服の審判を請求した。
特許庁は,これを不服2001-5952号として審理した。原告は,この審理の過程で,平成13年5月16日付け手続補正書により,本件出願の願書に添付された明細書につき,特許請求の範囲の補正をした(以下,この補正後の明細書を「本件明細書」という。)。特許庁は,審理の結果,平成15年5月1日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は,同月13日,原告に送達された。なお,出訴期間として,90日が付加された。
2 本願発明の請求項1の特許請求の範囲 「ヒトにおいて,2-ヒドロキシメチル-5S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性又は2-ヒドロキシメチル-5-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性のヒト免疫不全ウイルスの感染を治療するのに用いられる医薬調合物であり,当該医薬調合物は: 2R-ヒドロキシメチル-4R-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン; 2S-ヒドロキシメチル-4S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン又は上記の2つのアイソマーの任意の組み合わせ; 2R-ヒドロキシメチル-4R-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン; 2S-ヒドロキシメチル-4S-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン又は上記の2つのアイソマーの任意の組み合わせ; それらの薬学的に許容された塩,及びそれらの薬学的に許容されたエステルより選択された化合物を含み,その用量は2-ヒドロキシメチル-5S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性又は2-ヒドロキシメチル-5-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性のヒト免疫不全ウイルスの感染を治療するのに有効な量であり,当該医薬調合物は薬学的に許容される担体を更に含む,医薬調合物。」 (以下「本願発明」という。) 3 審決の理由 別紙審決書の写しのとおりである。要するに,本願発明は,「国際公開第92/08717号パンフレット(以下,審決と同じく「引用刊行物1」という。)に記載された発明及び「Bioorganic & Medicinal Chemistry Letters, Vol. 3, No. 8 pp. 1723-1728, 1993」(以下,審決と同じく「引用刊行物2」という。)に記載された発明に基づいて,当業者が容易に発明することができたものであるから,特許法29条2項により,特許を受けることができない,とするものである。
4 審決が認定した,引用刊行物1記載の発明の内容,本願発明と引用刊行物1記載の発明との一致点・相違点 (1) 引用刊行物1記載の発明の内容 「薬学的に有効な量の2-ヒドロキシメチル-4-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン又は2-ヒドロキシメチル-4-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン,及び薬学的に許容されるキャリアからなるHIV感染に有効な医薬調合物」(審決書3頁) (2) 本願発明と引用刊行物1記載の発明との一致点 「「薬学的に有効な量の2-ヒドロキシメチル-4-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン又は2-ヒドロキシメチル-4-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン,及び薬学的に許容されるキャリアからなるHIV感染に有効な医薬調合物」である点」(審決書4頁) (3) 本願発明と引用刊行物1記載の発明との相違点 「本願発明が,「2-ヒドロキシメチル-5S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性又は2-ヒドロキシメチル-5-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性のヒト免疫不全ウイルスの感染を治療するために, 2R-ヒドロキシメチル-4R-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン; 2S-ヒドロキシメチル-4S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン又は上記の2つのアイソマーの任意の組み合わせ; 2R-ヒドロキシメチル-4R-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン; 2S-ヒドロキシメチル-4S-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン又は上記の2つのアイソマーの任意の組み合わせ; それらの薬学的に許容された塩,及びそれらの薬学的に許容されたエステルより選択された化合物」を使用するのに対し,引用刊行物1記載の発明では,治療対象のヒト免疫不全ウイルス(HIV)の限定,並びに,2-ヒドロキシメチル-4-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン及び2-ヒドロキシメチル-4-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオランの立体配置の限定,がない点」(審決書4頁)
原告の主張の要点
審決は,本件出願時における技術常識の認定を誤り,本願発明を,当業者が容易に発明することができたと判断したものであるから,違法として取り消されるべきである。
1 審決は, 「(2)治療対象のヒト免疫不全ウイルス(HIV)の限定について 引用刊行物2には,「現在,AIDS治療には3つの承認された薬剤があるが,これらの薬剤はすべて急速な耐性の出現や,骨髄毒性(AZT),末梢神経障害及び急性膵炎(ddI及びddC)のような重大な欠点を有する。さらに,HIV-1のddI耐性株は,ddCに交差耐性を有することが判明した。より良い薬剤のニーズが非常に意義あることは明かである。」と記載されている。(第1723頁本文第3〜6行)すなわち,本願出願日前より,AIDS治療の分野において,薬剤に対する耐性株の出現が問題とされていたのであるから,抗HIV活性を有する新しい薬剤を見出した場合,一般のHIVに加えて,AIDS治療薬として従来から知られていた各種薬剤に対する耐性株についても,当該新しい薬剤の効果を確認してみることは当業者が当然に行うことである。
なお,請求人は,平成13年7月4日付け手続補正書(方式)において,「構造が非常に類似した化合物については,多くの場合には交差耐性を示すというのが,本技術分野における技術常識であった。」という理由で,2-ヒドロキシメチル-5S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性又は2-ヒドロキシメチル-5-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性のヒト免疫不全ウイルスに対し,これらの化合物に構造の類似した,本願発明の医薬有効成分である1,3-オキサチオラン誘導体が有効であるという結果は,驚くべきものであると主張している。
しかるに,多くの場合においては,構造が非常に類似した化合物が交差耐性を示すとしても,構造が類似した化合物が,必ず,交差耐性を示すものでもないから,シス体のシトシン誘導体10(BCH-270)及びシス体の5-フルオロシトシン誘導体12(BCH-1081)がMT-4細胞において抗HIV活性を示すという事実に基づいて,2-ヒドロキシメチル-5S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性又は2-ヒドロキシメチル-5-(5’-フルオロシトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン耐性の株を含めて種々のHIV株について,抗HIV活性を確認してみるという程度のことは,当業者の容易になし得るところである。
したがって,上記の治療対象のヒト免疫不全ウイルスの限定に,格別の技術的困難性があるとは認められない。」(審決書5頁〜6頁) と判断している。しかし,この判断は誤っている。
2 交差耐性とは,「菌がある薬剤に耐性化した場合に,他薬剤に対しても同一機構により耐性化する現象をいい,同一系統の薬剤間によく見られる。」(甲第18号証)ということである。したがって,ある菌が,特定の薬剤に対して耐性を持つ場合,当該薬剤と構造が類似している別の薬剤に対しても,高い蓋然性で耐性(交差耐性)を持つという技術常識が存在していた,といえる。
本願発明に係るオキサチオラン誘導体(2R-ヒドロキシメチル-4R-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン)(本件明細書において「化合物♯1」と表記されているものである。以下「本願化合物1」という。)と,2-ヒドロキシメチル-5S-(シトシン-1’-イル)-1,3-オキサチオラン(以下「3TC」という。)の化学構造の差は,次のとおりである。
NNNH2OOSCH2OH NNNH2OSOCH2OH (本願化合物1) (3TC) 両者は,ペントース環において酸素原子と硫黄原子が入れ代わったというだけで,その構造はきわめて類似している。ペントース環において異なっている酸素原子と硫黄原子は,周期律表において同じYa族に属しているために,両者は通常は二価イオンとして存在し,また水素結合を作るのに関与する2つの孤立電子対を有するなど,類似の性質を有している。それを考えても,3TCに耐性を示すHIVは,本願化合物1に対しても耐性であると考えることは当業者にとって当然である。
さらに,糖部分の構造が類似していると,特に交差耐性が生じ易いとも認識されており,本願化合物1と3TCの糖部分の構造も非常に近いことからすると,当業者にとって,交差耐性を生じると考えることが当然であった(甲第5号証ないし第15号証)。
しかし,原告が実験を行ったところ,3TCに対して耐性を持つHIV株が,本願化合物1に対しては感受性を有することが確認できたものであって,上記の技術常識の下では,このような実験を行うことは,当業者が容易に想到できるものではない。
3 被告は,本願化合物1と3TCの立体配置が異なることを強調し,構造が異なる化合物である,と主張する。
しかし,本願発明は,ペントース環の立体配置を限定するものではなく,その立方異性体(本件明細書において,「化合物♯2」と表記されているもの)も含み,これも薬剤として有効であることが確認されているのであって,被告の主張する立体配置や構造の差は,本願発明の進歩性を否定する根拠とはならない。
4 原告は,交差耐性が必ず生じると主張しているものではなく,また,甲第5号証ないし第15号証に,交差耐性を生じない例が開示されていることを否定するものでもない。しかし,そのことをもって,本願発明の進歩性を否定するべきではない。
一般的に,実験を行う場合,新たな知見を得られる蓋然性がないともいえず,他方,確実に成功する保障もないという状況の下で,研究者は,有益な知見が得られる蓋然性を技術的常識に基づいて評価した上で,実験をするか否かを決定している。このような選択をすることに困難があり,かかる困難を乗り越えて実験を行い研究を飛躍的に進歩させることこそが,発明の進歩性にほかならない,というべきである。
本願発明の薬物についても,実験をして,耐性が生じないことを確認できることが保障されていたものではなかったものの,原告はあえて実験を行い,有効な薬物であることを確認したものである。単に,試みることが容易であるというだけで,進歩性を否定することは相当ではなく,成功することが合理的に予測されるか否かをもって,進歩性の判断基準とすべきである。
審決の判断は,進歩性を肯定する基準を不当に高く設定するものであり,相当でない。
被告の反論の要点
1 交差耐性については,ある微生物(または細胞)が耐性を獲得したことが確認された複数の薬剤間では,一般にそれらの構造が類似しているということがいえるというにとどまり,構造が類似している薬剤間では必ず交差耐性が生じるというような技術常識は確立していない。これは,抗HIV剤分野についても同様である。
本件出願時において,ある化合物に対して耐性のHIV株に対して,交差耐性を含めた耐性発現の機序の解明についての研究が盛んに行われていたこと(甲第5号証〜第15号証)からは,逆に,原告のいうような技術常識がなかったことが裏付けられるのである。
2 原告は,本願化合物1と3TCの構造を比較し,両者は,ペントース環において酸素原子(O)と硫黄原子(S)が入れ代わったというだけで,その構造はきわめて類似しており,このように構造が近い化合物間においては交差耐性を示すであろう,と考えるのが当業者にとって当然である,と主張している。
しかし,本願化合物1と3TCとは,次の図に示すとおり,ペントース環の2カ所において,酸素原子(O)と硫黄原子(S)が置換されているのみならず,置換基の立体配置についても異なっている。
(本願化合物1) (3TC) また,酸素原子と硫黄原子とが周期律表上同じ族に属し,類似の性質を有しているとしても,両者はその大きさが異なるから,ペントース環上の両者の置換は,ペントース環に変換をもたらすものというべきで,この点に関する原告の主張も失当である。
仮に,本願化合物1と3TCとのペントース環が共通となるように,両者を比較してみると,下記のとおりとなる。
(本願化合物1) (3TC) 上記の図から明らかなように,本願化合物1においては,ペントース環の1’位(1,3-オキサチオラン環の4位)にヌクレオシド塩基を有するのに対し,3TCにおいては,ペントース環の2’位(1,3-オキサチオラン環の5位)にヌクレオシド塩基を有しており,両者の構造は異なる。
当裁判所の判断
1 交差耐性は, 「菌がある薬剤に耐性化した場合に,他薬剤に対しても同一機構により耐性化する現象をいい,同一系統の薬剤間によく見られる。」(微生物学辞典(日本微生物学協会編)・甲第18号証350頁), 「ある微生物(または細胞)が一つの薬剤に対し感受性を失い耐性(抵抗性)となった時,同時に他の薬剤にも同一機序により耐性化することがある。これを交差耐性という。一般には交差耐性が生じる薬剤間で構造や作用機序が類似している。」(生化学辞典(第2版))・乙第1号証462頁) と説明されている。
2 エイズウイルスの治療薬(逆転写酵素阻害剤)において,交差耐性が必ず生じるというものではないことは,原告自身認めており,また,上記の交差耐性についての解説からも明らかである。さらに,以下の各証拠の記載からも根拠付けることができる。
(1) 乙第2号証(日本臨牀 51巻・1993年増刊号「HIV感染症・AIDS 1993」中の「逆転写酵素阻害剤 Reverse transcriptase inhibitors」(白阪琢磨ほか著)) ア「1983年にヒト免疫不全ウイルス(human immunodeficiency virus type-1;HIV-1)が,後天性免疫不全症候群(acquired immunodeficiency syndrome;AIDS)の病原体として発見同定されてから10年の間に,・・・現在臨床投与が認可されている抗HIV-1剤は未だにわずか3つの逆転写酵素(reverse transcriptase;RT)阻害剤,アジドチミジン(azidothymidine;AZT),ジデオキシイノシン(dideoxyinosine;ddI),ジデオキシシチジン(dideoxycytidine;ddC)のみである。
RTを標的とした治療法の開発はHIV固有の酵素(RT)と基質との関係に基礎を置いたアプローチである。このアプローチはきわめて変異性の高いHIVでもウイルスの酵素の特定の部分では,その変異が著しく制限されている事実に基づく・・・」(192頁左欄) イ「1985年にAZTのHIV-1に対する増殖抑制効果がヒト培養T細胞で確認されて以来,多数のジデオキシヌクレオシド誘導体がHIVに対する抗ウイルス薬候補として開発されてきた。このクラスには現在,臨床で使用されているAZT,ddI,ddCのほかに,前臨床段階にあるd4T(2’,3’-didehydro-2’,3’-dideoxythymidine),3TC(3’-thia-2’,3’-dideoxy-cytidine),・・・などが属する。ジデオキシヌクレオシドはいずれも細胞質内での一連のリン酸化酵素反応で三リン酸化され,RTに媒介されて伸長しつつあるウイルスDNA鎖に効率よく取り込まれる。DNA鎖に組み込まれると,ジデオキシヌクレオシドは3’位に水酸基を欠くため,DNA鎖はそれ以上伸長を続けることができず,DNA合成が阻止され,ターミネーション(終止)が起こる。・・・・・。ジデオキシヌクレオシドは,細胞分裂の際のDNA合成や,DNAの損傷修復をつかさどるDNAポリメラーゼα(DNA polymerase α)に対しては親和性が低く,宿主細胞のDNA合成には高濃度でしか阻害効果を示さない。」(194頁左欄) ウ「AZT/ddC投与群では治療後株のAZTに対する感受性は治療前株に比べ全例で60倍から200倍と著しく低下していたが,ddC,ddIに対する感受性の低下は明らかではなかった(図2)。それら分離株の塩基配列を調べると,1例を除き既知の5つのAZT関連のアミノ酸変異が観察された。ddCに対する感受性の低下はいずれの株でも明らかではなかったが,塩基配列ではddC投与に関連していると報告されているアミノ酸変異(69番目の変異)が1例に認められた。」(195頁右欄)」 エ「著者らの分離したウイルス株の中で,AZT耐性株の1つ,ERS103ではddCやddIに対して感受性が低下していたが,RTの塩基配列上では既知のアミノ酸変異は認められず,かわりに,興味深いことに8つの新しいアミノ酸変異が観察された」(196頁左欄〜右欄) オ「HIV-1は上述したように,pol 遺伝子を変異させることによってそれぞれのRT阻害剤に対応した薬剤耐性を獲得する。しかし・・・RTが自己複製のために正常のヌクレオチドを用いてDNAを合成するという正常な機能を保ちながら,しかもRT阻害剤を排除するように変異するにはおのずから限界があると考えられる。例えば複数のRT阻害剤の多剤併用投与下ではHIVにはこれらすべての阻害剤を同時に排除するための変異が起こる可能性もあるが,一方で複数のRT阻害剤を同時に排除する変異を有するRTは正常の機能を保つことができずに,そのHIV-1が増殖できなくなる可能性も十分考えられる。」(197頁右欄〜198頁左欄) (2) 甲第5号証(ANTIMICROBIAL AGENTS AND CHEMOTHERAPY (1990) Vol.34 p436-441) 「驚くべきことに,非常に狭い範囲の交差耐性が観察された;交差耐性は3’-アジド基を含んでいるヌクレオシドアナログに限定されていた。これらのデータは,阻害剤を組み合わせて使用して薬剤耐性の発現が遅らせるための途を示すものである。」(436頁) (3) 甲第6号証(同(1991) Vol.35 No.5, p988-991) ア「10μmのAZT中で複製可能であったいくつかのHIV-1単離物は,2’,3’-ジデオキシシチジンと,硫黄原子がペントース環の3’炭素に置換されている新規なシトシンアナログであるBCH-189の両者に感受性を有していた。いくつかの場合には,3’-ジデヒドロ-2’,3’-ジデオキシチミジンと交差耐性が見られた。」(988頁) イ「多くのアナログはAZT耐性のB-52株と,AZTに対する感受性が減少した多くの他の単離物の複製を抑制することが可能であった。しかし,B-52株と試験した11の単離物の1つはd4Tに対する顕著な耐性を示した(表1及び図2)。加えて,これらの単離物の中で2つはAZDUに対して感受性を有していた。これらの観察はAZT耐性変異体を研究した他の研究者による過去の報告とは異なっている。この点において,d4T,AZTとAZDUの構造が類似していることは特筆すべきである。」(990頁左欄) (4) 甲第8号証(JOURNAL OF VIROLOGY(1992) Vol.66, p7128-7135) ア「我々はインビトロ選択の技術を用いて,2’,3’-ジデオキシイノシン(ddI)とに対して耐性であり,かつ2’,3’-ジデオキシシチジン(ddC)に対して交差耐性であるヒト免疫不全ウイルス1型(HIV-1)の変異体を作製した。」(7128頁) イ「そのように作製された組み換えウイルスは親株のHXB2-Dよりも5倍以上大きなddI耐性を示した。更に5倍以上大きなddC耐性も証明されたが,その組み換えウイルスはジドブジン(AZT)によって阻害され続けた。」(同頁) ウ「この交差耐性は,ddIとddCの両者が2’,3’ジデオキシ部分を有していることによるのかもしれない。」(7133頁) 3 原告は,本願化合物1と3TCとで構造がきわめて類似していることから,当業者が,本願化合物1が交差耐性を持つと考えるのは当然であり,原告のしたような実験を行うことは,容易に想到できるものではない,と主張する。
しかし,本願化合物1と3TCとの構造の間で,ペントース環の酸素原子と硫黄原子の位置が入れ代わったという差しかないとしても,それが,交差耐性の発生の蓋然性にどの程度影響するのかについて,原告は具体的な主張をせず,これを認定できる証拠もない。
また,糖部分の構造が類似していると,交差耐性が生じやすいと認識されていたとの点について,例えば甲第9号証(ANTIMICROBIAL AGENTS AND CHEMOTHERAPY (1993) Vol.37 p130-133)の表3において,その11番目の「HIV-111B」は,ddIに対してはEC50 (uM)の値が,「236.4±19.0」と,他のHIVウィルスと比較して非常に高い耐性を有する(一桁ないし二桁異なる。)のに対し,ddIと糖部分の構造が類似するddCに対しては,「0.78±0.05」と,他のHIVウイルスと比較して同程度の低い耐性しか示さないことが開示されている。また,同表12番目の「HIV-111B」も,ddIに対して「134.9±12.8」,ddCに対して「0.55±0.03」と,同様の傾向をもつことが開示されている(別紙参照)。
したがって,構造が非常に類似した化合物が多くの場合に交差耐性を示すと一般に考えられていることを踏まえたとしても,本件において,原告が主張するように,酸素原子と硫黄原子の位置が入れ代わっただけであるとか,糖部分の構造が類似している,との事実をもって,二種の薬剤間で交差耐性が生じると当業者が当然に考え,実験して確認することに思い至らない,ということはできない。
4 本件優先日当時,本願化合物1において交差耐性が生じる可能性がどの程度高いものと考えられていたかは,本件証拠上明らかではない。しかし,交差耐性が発生する蓋然性がある程度高いと考えられていたにせよ,なお,本願発明の進歩性は否定されるものというべきである。その理由は,次のとおりである。
(1) 前記乙第2号証の記載にも現れているように,昭和58年にエイズウイルスが発見されてから,その治療薬の研究開発は喫緊の課題であった。このことは,引用刊行物2の 「後天性免疫不全症候群(AIDS)は現代における惨事となった。AIDSの数と,HIV陽性の症例は急速に増えており,ほとんど10年間にわたって研究努力が行われたにも関わらずあまり抑制されていない。現在AIDSの治療のために承認された薬剤は3つあるが,これらの薬剤は全て,迅速な耐性形成のみならず,骨髄毒性(AZT),末梢神経障害と急性膵炎(ddIとddC)などの重大な,障害に苦しめられている。」(甲第4号証1723頁) の記載にも現れている。
このような状況の下では,交差耐性が生じる蓋然性があっても,薬剤の候補となるべき新規な化学物質を製造したとき,その薬剤が効果を発揮するかどうか実験して確かめるきわめて強力な動機付けが当業者にあることは,明らかである。
(2) 2及び3で引用した文献のほか,HIVウイルスの交差耐性については,甲第7号証(ANTIMICROBIAL AGENTS AND CHEMOTHERAPY(1991)Vol.35 No.7 p988-991),第10号証(同(1994)Vol.38 No.2 p275-281)においても述べられている。
これらの文献から明らかなように,HIVウイルスの薬剤に対する(交差)耐性を確認する実験方法は,本件優先日当時,周知かつ確立しており,これを実施することに特段技術的困難はなかった,と認めることができる。
(3) 以上のとおり,本件においては,薬剤の有効性を確認するための実験を行うことに強力な動機付けがあり,実験をすることを選択することは何ら困難なことでもなく,その実験方法も周知なものであって実施に何ら困難はなく,実験を行いさえすれば,交差耐性を示すか否か容易に分かる,すなわち,本願化合物1が効用を有するか否か分かるものである以上,当業者が本願発明を推考するのが容易であることは当然である。審決の相違点についての判断に誤りはない。
(4) 原告の主張は,要するに,実験をしても,望んだ結果が得られることが合理的に予測されるものではない場合,実験をして確認した事実に基づいてした発明には進歩性が認められるべきである,というものである。
しかし,前述のとおり,本件においては,薬剤の有効性を確認するための実験を行うことは,当業者にとって容易に想到し得ることであり,また,実験をすることに格別の困難もないのであるから,その実験が成功することが予測できないということだけから,進歩性を認めることができないことはいうまでもないのであって,原告の主張は採用できない。
5 結論 以上のとおりであるから,原告主張の取消事由は理由がなく,その他,審決には,取消しの事由となるべき誤りは認められない。
よって,原告の本訴請求を棄却することとし,訴訟費用の負担,上告及び上告受理の申立てのための付加期間について,行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条,96条2項を適用して,主文のとおり判決する。
裁判長裁判官 佐藤久夫
裁判官 設樂隆一
裁判官 高瀬順久