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関連審決 不服2004-2550
この判例には、下記の判例・審決が関連していると思われます。
審判番号(事件番号) データベース 権利
平成21行ケ10134審決取消請求事件 判例 特許
平成19行ケ10105審決取消請求事件 判例 特許
平成18ネ10038損害賠償請求控訴事件 判例 特許
平成17行ケ10312審決取消請求事件 判例 特許
平成14行ケ366特許取消決定取消請求事件 判例 特許
関連ワード 特許を受ける権利 /  発明者 /  有用性 /  頒布された刊行物 /  進歩性(29条2項) /  容易に発明 /  相違点の認定 /  技術常識 /  発明の詳細な説明 /  化学構造 /  優先権 /  優先日 /  参酌 /  容易に想到(容易想到性) /  実施 /  混同 /  拒絶査定 /  請求の範囲 /  拡張 / 
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事件 平成 18年 (行ケ) 10498号 審決取消請求事件
原告セプラコール・インコーポレイテッド
訴訟代理人弁護士阿部隆徳
訴訟代理人弁理士青山葆,岩崎光隆,伊藤晃,橋本諭志
被告特許庁長官肥塚雅博
指定代理人横尾俊一,森田ひとみ,徳永英男,森山啓
裁判所 知的財産高等裁判所
判決言渡日 2007/08/21
権利種別 特許権
訴訟類型 行政訴訟
主文 原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
全容
第1原告の求めた裁判「特許庁が不服2004-2550号事件について平成18年6月26日にした審決を取り消す。」との判決第2事案の概要本件は,原告が,下記1(1)の特許出願(以下「本件特許出願」という。)に係る特許についての拒絶査定に対する不服審判請求を成り立たないとした審決の取消しを求める事案である。
1特許庁における手続の経緯(1)本件出願手続(甲12,19,20)出願人:サンド・アクチエンゲゼルシヤフト出願日:平成4年4月3日発明の名称:「ベータ-2-気管支拡張薬の改善使用」優先権主張:1991年(平成3年)4月5日(イギリス)出願番号:特願平4-81971号原告は,出願人サンド・アクチエンゲゼルシャフトから,本件特許出願に係る発明につき,特許を受ける権利の譲渡を受け,平成7年10月19日に特許庁長官に対する届出をした。
(2)本件手続拒絶査定日:平成15年10月31日(甲14)審判請求日:平成16年2月9日(不服2004-2550号)手続補正日:平成16年3月9日(甲13)審決日:平成18年6月26日審決の結論:「本件審判の請求は,成り立たない。」審決謄本送達日:平成18年7月11日2本願発明の要旨(甲13)審決が対象とした発明は,平成16年3月9日付け手続補正書による補正後の特許請求の範囲の請求項1に記載された発明(以下「本願発明」という。)であり,その要旨は以下のとおりである。
「【請求項1】R-エナンチオマーを95%以上含有するテルブタリン又はR,R-エナンチオマーを95%以上含有するフォルモテロールを有効成分とする,副作用の抑制された,ヒトにおける炎症性または閉塞性気道疾患処置用医薬組成物。」3審決の理由の要点審決は,本願発明が,1973年(昭和48年)発行の「Br.J.Pharmac., Vol.48」144〜147頁(甲1,以下「引用例1」という。),1974年(昭和49年)発行の「The Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics,Vol.189, No.3」616〜625頁(甲2,以下「引用例2」という。),1987年(昭和62年)発行の「Clinical Chemistry, Vol.33, No.6」1026(712)頁(甲3,以下「引用例3」という。)及び1990年(平成2年)発行の「Br.J.Clin.Pharmac., Vol.30」127〜133頁(甲4,以下「引用例4」という。)にそれぞれ記載された発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものであり,特許法29条2項により特許を受けることができないとした。
審決の理由中,各引用例の記載事項の認定,本願発明と引用例4記載の発明との対比及び相違点についての判断の部分は,以下のとおりである(略称及び審決が引用する引用例の記載に係る符号を本判決で用いたものに改めてある。)。
(1)各引用例の記載事項の認定ア引用例1『サルブタモールの光学異性体について薬学的活性が研究された。β-アドレナリン受 (ア)「容体に対して(-)サルブタモールは(+)サルブタモールよりもはるかに効能があった。』(144」 頁Summaryの1)『この薬剤は不斉中心を有するため,アドレナリン受容体に作用する他の交感神経様(イ)「アミンの例と同様に,活性が主に左旋性(-)異性体(R配置)に存するかどうか,また,ラセミ体と同様の選択性を有するかどうかを確かめることに関心が持たれた。』(144頁Introdu」 ctionの10〜14行)イ引用例2『組織選択的作動薬,すなわち,ソテレノール,トリメトキノール及びサルブタモールのそ 「れぞれのエナンチオマーについて,モルモットの心房及び気管のβアドレナリン受容体について研究した。……,有効性の数値からの組織選択性についての解析結果は,ソテレノール,トリメトキノール及びサルブタモールの(-)異性体はそれぞれ,3.3,9,24倍心房よりも気管に対して有効であっ」 たことを示した。』(616頁要約)ウ引用例3『サルブタモール(アルブテロール)は,R(-)及びS(+)サルブタモールの二つの立体異性体 「の混合物として,喘息の治療に用いられている。しかし,β作動性は主にR(-)エナンチオマー」 に存在する。』(1026頁左欄下14〜下11行)エ引用例4『5これらの発見は,キラルなフェノール性交感神経様アミン薬剤の硫酸抱合にお (ア)「けるエナンチオ選択性が,これらの薬剤の臨床で使用する際に考慮されるべきエナンチオ選択」 的な薬物動態に関連することを示唆する。』(127頁)『数多くのβ-アドレナリン受容体作動薬が閉塞性肺疾患の治療や早産の予防に用いら(イ)「れている。これらの薬剤は全てキラル炭素原子に結合したヒドロキシ基をもつフェノール性2-ヒドロキシエチルアミンである。これらのほとんどの薬剤はラセミ体,すなわち薬学的に活性な(-)エナンチオマーと不活性な(+)エナンチオマーの50:50混合物,として使用される。最近の2つの臨床研究によって,これらの医薬の一つ,すなわちテルブタリンのそれぞれのエナン」 チオマーの薬学的動態が異なることが示された(……)。』(127頁左欄1〜12行)(2)本願発明と引用例4記載の発明との対比引用例4の記載事項から,テルブタリンは閉塞性肺疾患の治療薬として用いられており,薬 「学的に活性な(-)エナンチオマーと不活性な(+)エナンチオマーの50:50混合物,すなわちラセミ体で用いられていることは明らかである(上記(1)のエの(イ))。
本願発明と引用例4に記載の発明とを比較すると,両者はテルブタリンを有効成分とするヒトにおける炎症性または閉塞性気道疾患処置用医薬組成物である点で一致する一方,本願発明はR-エナンチオマーを95%以上含有するテルブタリンを有効成分とする副作用の抑制されたものであるのに対し,引用例のものはテルブタリンのラセミ体を有効成分とするものであ」 り,副作用について特段の記載がない点で相違する。
(3)相違点についての判断本願出願(優先日)当時,合成キラル医薬品の生体内動態,特に代謝については異性体間で 「著しい差があることが明らかとなり,医薬品としてラセミ体の開発,使用に問題が投げかけられていた。そして,異性体間で薬効に著しい差がある場合,他方が全く作用を示さない物質であっても生体に対する負担を考慮すると有効な異性体のみを投与することが好ましいとされ,このような医薬品開発の重要性が当業者の間で既に認識されていた。(『月刊薬事』Vol.29,No.10,p2039〜2042,(1987),平成元年10月10日学会出版センター発行,日本化学会編『季刊化学総説No.6,1989光学異性体の分離』の2頁,16頁,212〜214頁,『ファルマシア』Vol.25,No.4,p333〜336(1989)等参照。)上記の異性体間における代謝速度の差は薬物の作用持続時間や副作用に影響を与えるものであって(上記「ファルマシア」の333頁左欄参照),この種の薬物を臨床で使用する際にはエナンチオマーによる薬物動態の差を考慮すべきことも引用例4に記載されている(上記(1)のエの(ア))。
そうすると,テルブタリンについても有効成分として活性のある(-)エナンチオマーのみの使用が望ましいことは当業者が容易に想到するところである。
そして,テルブタリンはサルブタモール等の他のβ-アドレナリン受容体作動薬と同様にフェノール性-2-ヒドロキシエチルアミン構造を有する化合物であるから,活性のある(-)エナンチオマーの立体配置がRであることは当業者が容易に理解できることである(上記(1)のア〜ウ,エの(イ)参照)。
さらに,光学異性体の一方のみを使用する利点として副作用の発生が抑えられることもよく知られていること(サリドマイドの例等)であるから,薬理作用のあるR-エナンチオマーが95%以上のテルブタリンにおいて副作用が抑制されるという効果が奏されること自体も当業者が十分に予測し,容易に確認しうる範囲のものである。
したがって,本願発明はその優先日前に頒布された刊行物である引用例1〜4に記載された発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものであるというべきである。
なお,請求人は・・・引用文献のいずれにも光学対掌体の副作用について着目した記事は存在しないからそのような引用文献の記載から本願発明の構成及び効果を想到することは不可能である旨主張しているが,上記のとおり光学対掌体の存在する化合物について異性体を分割し,薬理作用や副作用の有無について検討すべきであることは当業者に広く認識されていたこ」 とと認められるから,かかる主張を採用することはできない。
第3当事者の主張の要点審決の本願発明と引用例4記載の発明(以下「引用発明」という。)との一致点及び相違点の認定については,当事者間に争いがない。
1原告主張の審決取消事由(1)取消事由1(本願発明と引用発明との相違点についての判断の誤り)審決は,1989年(平成元年)発行の「ファルマシア」Vol.25, No.4, 333〜336頁(甲7。以下「甲7文献」という。)の336頁右欄8〜12行の記載を引用して,「本願出願(優先日)当時,合成キラル医薬品の生体内動態,特に代謝については異性体間で著しい差があることが明らかとなり,医薬品としてラセミ体の開発,使用に問題が投げかけられていた。そして,異性体間で薬効に著しい差がある場合,他方が全く作用を示さない物質であっても生体に対する負担を考慮すると有効な異性体のみを投与することが望ましいとされ,このような医薬品開発の重要性が当業者の間で既に認識されていた。」と認定している。
しかしながら,甲7文献の上記記載の直後には,「(有効な異性体のみを医薬品として開発することは)技術的にも経済的にも現時点では容易ではない」,「合成医薬品の開発・研究の段階において各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を正確に把握しておくことは必要なことと考えられる」と記載されている。また,審決が引用する1987年(昭和62年)発行の「月刊薬事」Vol.29, No.10, 2039〜2042頁(甲5。以下「甲5文献」という。)にも「一番の問題点は,不斉合成の難易度と分離・精製の生産コストであり,これらを含めて開発方針を決定せねばならないであろう」(2042頁右欄13〜15行)と記載されている。
これらの記載から導かれる本件出願当時の技術常識は,「開発・研究しようとする化合物がラセミ体の場合は,各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を正確に把握して,光学分割して活性異性体のみを医薬品として開発するメリットと,光学分割の技術的困難性及び光学分割をすることにより高い費用が発生するというデメリットを比較考量することにより開発方針を決定する」というものである。このことは,日経サイエンス1994年3月号(甲8)31頁右下の図からも窺えるところである。
したがって,本件出願当時の技術常識についての審決の認定は,「光学分割して活性異性体のみを医薬品として開発するメリット」にのみ着目し,「各異性体の薬理作用等を把握して,光学分割のメリット,デメリットを比較考量して開発方針を決定する」という点を看過した誤りがある。
そして,引用例4は,「不活性なS(+)テルブタリンが,活性なR(-)テルブタリンよりヒトにおいて2倍早く代謝される」ことを実験により証明している(127頁6行〜8行(要約の項目3))のであるから,当業者は,「不活性体が活性体より早く代謝され,早く体内より消失するのであるから,わざわざ高い費用が発生する光学分割をする必要がない」と判断するものである。つまり,「ラセミ体テルブタリンを光学分割して,活性のあるR(-)エナンチオマーのみを使用する」動機付けが存在しない。
したがって,テルブタリンのR(-)エナンチオマーのみを使用することが容易想到であるとした審決の判断は誤りである。
さらに,1984年(昭和59年)発行の「Acta Pharmacol.et toxicol」285〜291頁(甲9。以下「甲9文献」という。)の図1及び表1には,S(+)テルブタリンが,本願発明に係る「副作用」である「気道抵抗(過反応)性の増加」と実質的に正反対の作用である気道平滑筋弛緩作用を発揮することが示されていることを考慮すれば,当業者は,光学分割によりラセミ体からS-テルブタリンを排除しても,本願発明に係る「副作用」を回避することができず,むしろ「気道抵抗(過反応)性の増加」をより招来する可能性すらあると予測するものというべきであるから,光学分割によりラセミ体からS-テルブタリンを排除することについては,阻害要因が存在する。
(2)取消事由2(本願発明の作用効果についての判断の誤り)審決は,本願発明の効果に関して,「光学異性体の一方のみを使用する利点として副作用の発生が抑えられることもよく知られていること(サリドマイドの例等)」との技術常識のみから,「(本願発明の)薬理作用のあるR-エナンチオマーが95%以上のテルブタリンにおいて副作用が抑制されるという効果が奏されること自体も当業者が十分に予測し,容易に確認しうる範囲のものである」と判断し,本願発明の進歩性を否定している。
進歩性については,本願明細書(甲12)に記載されている発明の有利な作用効果を参酌して判断すべきであるところ,本願明細書には,本願発明の「副作用」が「気道抵抗(過反応)性の増加」を含む概念であり,この「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制される」という,従来技術に報告のない有利でかつ異質な作用効果が明確に記載されている(段落【0026】参照)のであるから,この作用効果が「十分に予測し,容易に確認しうる」ものであるか否かを本件出願当時の技術水準から判断するべきである。
本件出願当時,S-テルブタリンが,気道平滑筋弛緩作用を有することが,甲9文献によって報告されていたことは上記のとおりであるから,当業者は,当然,気道平滑筋弛緩作用を有する化合物であるS-テルブタリンが,ヒスタミンが惹起する気管支平滑筋収縮(気道抵抗増加)を抑制すると予測するが,本願明細書の実施例1及び2に記載されているように,S-テルブタリンは,予想外にも逆に気道抵抗(過反応)性を増加させるものである。
したがって,このような効果を有するS-テルブタリンを排除して得られた本願発明の「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制される」という作用効果は,本件出願当時,当業者に予測不可能であったものというべきである。
また,フェノール性-2-ヒドロキシエチルアミン構造を有するS-テルブタリン等のβ2アゴニストのこのような予測不可能な気道抵抗増加作用は,簡単には確認することができない。実際,S-サルブタモールは,ヒスタミン投与の5分前に単回静脈内投与されれば気道抵抗を低減し(引用例1の144頁最終行および145頁下から9〜8行目),S-アルブテロールは,ヒスタミン投与前に1時間静脈内注入されれば気道抵抗を増加させる(明細書段落【0025】)。このような微妙な実験方法の相違で正反対の作用を検出する事実は,フェノール性-2-ヒドロキシエチルアミン構造を有するS-テルブタリン等のβ2アゴニストの気道抵抗増加作用が,発明者の創意工夫により確認されるものであり,単なるルーチンワークではその確認が容易でないことを示している。
以上のとおり,「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制される」という本願発明における作用効果は,当業者が十分予測し,容易に確認することができないものであったというべきである。したがって,本願明細書に記載された,予測に反し,容易に確認できない作用効果を参酌せずに,「副作用が抑制されるという効果が十分に予測され,容易に確認される」とした,審決の判断は誤りである。
2被告の反論(1)取消事由1(本願発明と引用発明との相違点についての判断の誤り)に対し原告は,甲7文献の「光学異性体を医薬として開発することは,技術的にも経済的にも容易ではない」との記載や,甲5文献の「一番の問題点は,不斉合成の難易度と分離・精製の生産コストであり,これらを含めて開発方針を決定せねばならないのであろう」との記載を挙げて,本件出願当時の技術常識が,「開発・研究しようとする化合物がラセミ体の場合は,各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を正確に把握して,光学分割して活性異性体のみを医薬品として開発するメリットと,光学分割の技術的困難性及び光学分割をすることにより高い費用が発生するというデメリットを比較考量することにより開発方針を決定する」というものであると主張する。
しかしながら,甲7,甲5文献の上記記載に係る「開発」との文言は,「実用化すること」(広辞苑第5版)という意味で使用されているのであって,原告のいう「各異性体の薬理作用を把握して,光学分割のメリット,デメリットを比較考量して開発方針を決定する」とは,活性のある異性体のみを有効成分とする医薬品を実用化する際に考慮する事項であるにすぎず,活性のある異性体のみを有効成分とする医薬品の発明の進歩性を評価する際に参酌すべき技術常識とは異なるものである。
審決が,本件出願当時の技術常識として認定したのは,「異性体間で薬効に著しい差がある場合,他方が全く作用を示さない物質であっても生体に対する負担を考慮すると有効な異性体のみを投与することが好ましい」ということである。そして,この技術常識に照らせば,ラセミ体を有効成分として用いていた医薬について,それぞれの異性体を分離し,各異性体の作用を調べ,有効とされる異性体のみを有効成分とする医薬品とすることについての動機付けが,当業界には既に存在したということができる。
原告の上記主張は,発明の進歩性を評価する際に参酌すべき技術常識と,発明を実用化する際に考慮すべき事項とを混同したものというほかはない。
サルブタモールやテルブタリン等のβ -作動薬の気管支拡張剤は,そのほとん2どの化合物について光学分割が行われ,気管支拡張作用はR-異性体にあり,S-異性体にはないかほとんどないことが知られており(審決の認定に係る引用例1〜4の記載事項参照),また,テルブタリンについては引用例4においてそれぞれの光学異性体を用いた動物実験で代謝の研究が行われており(甲9文献においても(+)及び(-)異性体について比較試験がされている。),本件出願に係る優先権主張日である平成3年当時には,既に光学分割が行われていたことが明らかである。
そうすると,テルブタリンの光学異性体について,合成の困難性は技術的に解決済みの問題であるから,上記の動機付けがあれば当業者が本願発明に到達することはたやすいというべきである。
また,不活性なS(+)テルブタリンが,活性なR(-)テルブタリンより早く代謝されるとしても,活性な異性体であるR-テルブタリンを医薬品として使用することには,十分な動機付けがある。
すなわち,甲5文献には「ラセミ体中の他の半分の化学物質が,それ自体明らかな薬理活性が欠ける場合でも,まったく無関係なものではなく,ラセミ体というものは50%の不純物(impurity)を含んでいる化合物であるという考え方も提出されてきた。この50%のimpurityのものが,まったく無関係なものではなく,生体内における薬物動態に著しい影響を及ぼすとともに副作用発現の原因ともなっていることもまま見られる。有名な催奇性薬であるthalidomideは,l-体及びd-体はともに同程度の催眠作用を持つが,l-体とそのグルタミン酸代謝物のみが催奇形作用を持つので,もしd-体のみを市販していたら,あのような惨事は起きなかったと考えられている。」(2039頁右欄)との,1989年(平成元年)10月10日発行の「光学異性体の分離(季刊化学総説No.6)」(甲6。以下「甲6文献」という。)には「医薬品の多くは生体にとって異物(xenobiotics)であり,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである.したがって,医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった.換言すれば,このようなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである.」(16頁8行〜15行),「近年の有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光学分割を容易にしつつある.また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学活性薬物の分離分析を可能なものとした.薬物の体内動態が的確に解明される結果,光学活性体の形での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされることになった.」(同頁下から4行〜末行)との,甲7文献には「ここでは医薬品に見られる光学活性の薬理作用について異性体間で顕著な差を示す例を紹介し,現在論議されている"50% inpurity"の問題についても一部ふれてみたい.」(333頁左欄下から4行〜末行)との各記載があり,これらの記載によれば,本件出願に係る優先権主張日当時,医薬品は生体にとって異物であり,薬効を期待できない異物は,たとえ早く代謝されるものであろうと,医薬品としては不純物であると認識され,一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,これを光学分割して,目的に適合した異性体(エナンチオマー)のみを提供すべきであることが提唱されていたことは周知であるから,審決が,活性のあるR-エナンチオマーのテルブタリンのみを有効成分として使用することが容易想到であると判断したことに誤りはない。
(2)取消事由2(本願発明の効果についての判断の誤り)に対しR-エナンチオマー95%以上のテルブタリンを有効成分とすることにより,従来のラセミ体に比べて,S-エナンチオマーを含まない分だけ投与量は半減するので,投与された医薬を代謝する生体の負担が減少するという効果が得られ,また,サリドマイドの例が知られているように,異性体の一方に予期し得ない副作用が潜んでいる危険性も減少するという効果が得られると期待できることは明らかである。
さらに,原告は,本願発明に「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制される」と主張するところ,本願明細書には,S-異性体を用いたモルモットによる実験の結果からS-異性体に気道抵抗(過反応)性の増加という副作用があることは記載されているが,R-異性体に気道抵抗(過反応)性の増加という副作用がないことについては,「本発明の有用性は,例えば以下のように行われる臨床試験ででも示すことができる」(段落【0039】)との記載の下に,臨床試験の想定例が記載されているにすぎず,実際に試験して確認した結果は,本願明細書には何ら記載されていない。
原告が主張する本願発明の効果とは,本願発明の組成物はS-異性体を含まないから,S-異性体による副作用はないであろうと推測したものにすぎない。
そうすると,S-異性体を含まないことによって期待される副作用の軽減が,当業者の予測を超えた格別顕著なものであるということはできないから,審決が,本願発明の効果の判断を誤ったものということはできない。
第4当裁判所の判断1取消事由1(本願発明と引用発明との相違点についての判断の誤り)について原告は,審決が技術常識の認定を誤っており,引用発明から本願発明を想到する動機付けがなく,阻害要因が存在すると主張するので,以下において検討する。
(1)技術常識についてア一般に,製造工程の簡素化,生産性の向上,費用の低減などは,発明を製品化して事業化する際に,当然に考慮されるべき技術的・経済的要請であるということができるところ,甲7文献(333頁左欄20〜25行)によれば,合成医薬品の分野においても,かかる技術的・経済的要請の下で,薬物の光学異性体の一方にのみ高い薬理効果があることが分かっていても,その分割が難しく,費用が嵩むことや,体内動態研究のレベルで生体組織中の異性体を分離定量することが難しかったことなどの理由で,他方の異性体は不活性な添加物として扱うとの認識が,当業者において一般的であった時期が存在していたことが窺われる。
そこで,仮に,このような認識が,発明の進歩性を評価する際に参酌すべき技術常識に当たるものであったとして,本件出願に係る優先権主張日当時においても,上記のような認識が一般的であり,なお技術常識であったということができるか否かについて検討する。
イまず,上記甲7文献には,異性体間における代謝速度や代謝経路の違いが,薬物の作用持続時間や副作用に影響を与えること(同欄14〜18行),異性体間で,その薬理作用及び動態における差が著しいことが「最近」数多く報告されるようになってきていること(同欄25〜28行)が記載された上,光学活性体の薬理作用について,異性体間で顕著な差を示す実例が,サリドマイドを含み10例余り紹介されており,「まとめ」として,「異性体間で薬効に明らかな差のある場合,他方が全く作用のない物質であったとしても,生体への負担を考えると多くの例では有効な異性体のみを投与することが当然好ましいと考えられるが,技術的にも経済的にも現時点では容易ではない。しかしながら合成医薬品の開発・研究の段階において各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を正確に把握しておくことは必要なことと考えられる。」(336頁右欄8〜15行)と記載されている。
次に,甲6文献には,「医薬品の多くは生体にとって異物(xenobiotics)であり,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである。したがって,医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった。換言すれば,このようなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである。」(16頁8〜15行),「近年の有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光学分割を容易にしつつある.また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学活性薬物の分離分析を可能なものとした.薬物の体内動態が的確に解明される結果,光学活性体の形での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされ(同頁下 〜末行)との記載がある。 ることになった.」4かつての一時期においては,薬理効果がなく,不活性な異性ウそうすると,体は添加物として扱うことが技術常識であったとしても,本件特許出願に係る優先権主張日前に,そのような認識を改めるべきであることが指摘されるに至り,上記優先権主張日当時には,既に当業者において,一般に,「異性体間で薬効に明らかな差のある場合,他方が全く作用のない物質であったとしても,生体への負担を考えると多くの例では有効な異性体のみを投与することが当然好ましい」こと,「合成医薬品の開発・研究の段階において各異性体の薬理作用・毒性及び体内動態を正確に把握しておくことは必要なこと」,「医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきである」ことが,技術常識となっていたと認められる。
エしかるところ,審決の「本願出願(優先日)当時,合成キラル医薬品の生体内動態,特に代謝については異性体間で著しい差があることが明らかとなり,医薬品としてラセミ体の開発,使用に問題が投げかけられていた。そして,異性体間で薬効に著しい差がある場合,他方が全く作用を示さない物質であっても生体に対する負担を考慮すると有効な異性体のみを投与することが好ましいとされ,このような医薬品開発の重要性が当業者の間で既に認識されていた」との技術常識についての認定は,上記ウの認定と実質的に変わるところはないから,審決の上記認定に誤りはないというべきである。
(2)動機付けについてア上記(1)で認定した技術常識を前提とすると,当業者は,ラセミ体を有効成分とする公知の医薬組成物について,異性体を光学分割し,各々の異性体につきその薬理作用を確認し,より目的に適った異性体のみを有効成分とする医薬組成物を得ようと動機付けられるというべきである。
このことを引用発明に係るテルブタリンについてみれば,当業者は,その薬理活性が高い(-)エナンチオマーがR-エナンチオマーであると容易に理解することができるから,テルブタリンの光学分割が技術的に不可能でない限り,S-テルブタリンを排除し,より目的に適った異性体として,薬理活性が高いR-テルブタリンのみを有効成分とする医薬組成物を得ようと動機付けられるというべきである。
そして,引用例4及び甲9文献には,テルブタリンにつき,(-)エナンチオマーと不活性な(+)エナンチオマー((-)-テルブタリンと(+)-テルブタリン)の両異性体を用いた実験(試験)を行った結果が記載されているから,本件出願に係る優先権主張日当時,テルブタリンを光学分割すること自体は,技術的に可能となっていたと認められる。
イ原告は,不活性なS-テルブタリンの代謝が活性なR-テルブタリンの2倍早く,体内から消失するのが早いため,当業者は,わざわざ費用をかけて光学分割をする必要がないと判断するから,動機付けが存在しないと主張する。
しかし,上記(1)で認定した技術常識の下で,当業者が,S-テルブタリンを排除し,より目的に適った異性体として,薬理活性が高いR-テルブタリンのみを有効成分とする医薬組成物を得ようと動機付けられることについては,上記アのとおりであり,ラセミ体のうち薬理活性の低いS-テルブタリンは,代謝が早くても,生体にとって異物であることに変わりはないから,S-テルブタリンの代謝が早いことは上記アの判断に影響を与えるものではない。
(3)阻害要因(S-テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用)について原告は,甲9文献に,S(+)テルブタリンが,本願発明に係る「副作用」である「気道抵抗(過反応)性の増加」と実質的に正反対の作用である気道平滑筋弛緩作用を発揮することが示されているとし,当業者は,ラセミ体からS-テルブタリンを排除すると,「気道抵抗(過反応)性の増加」をより招来する可能性すらあると予測するものというべきであるから,光学分割によりラセミ体からS-テルブタリンを排除することについては,阻害要因が存在すると主張する。
確かに,甲9文献の図1(286頁)及び表1(287頁)には,(+)-テルブタリン(S-テルブタリン)が,(-)-テルブタリン(R-テルブタリン)とともに,気管支弛緩作用を有することが示されていると認められるが,甲9文献の「Abstract」(要約)には,「(+)-テルブタリンは,気管の弛緩・・・において,(-)-テルブタリンより3000倍以上作用が弱かった。」(抄訳文1頁)との記載があるから,S-テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用は,R-テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用に比べ,3000分の1以下であることも認められる。
しかるところ,上記(2)のとおり,当業者は,引用発明に係るテルブタリンに関し,S-テルブタリンを排除し,より目的に適った異性体として,薬理活性が高いR-テルブタリンのみを有効成分とする医薬組成物を得ようと動機付けられるものであるが,その際,甲9文献により,S-テルブタリンに,R-テルブタリンの3000分の1以下の気道平滑筋弛緩作用があることを認識したとしても,その程度の薬理効果があるために,S-テルブタリンを排除することが阻害されるとは到底認められず,かえって,より効果的な医薬組成物とすることを求めるのであれば,気管支弛緩作用の点でも薬理効果の大きいR-テルブタリンのみを有効成分とする医薬組成物を得ようとする動機付けが更に増大するだけであると認められる。
したがって,原告の上記主張を採用することはできない。
2取消事由2(本願発明の効果についての判断の誤り)について(1)原告は,本願明細書に,本願発明の「副作用」が「気道抵抗(過反応)性の増加」を含む概念であり,この「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制される」という,従来技術に報告のない有利でかつ異質な作用効果が記載されているとした上で,S-テルブタリンを排除して得られた本願発明のかかる作用効果は,甲9文献のS-テルブタリンが気道平滑筋弛緩作用を有するとの報告から,当業者が予測する内容と逆であり,当業者に予測不可能であったとか,容易に確認することはできなかったと主張する。
しかしながら,甲9文献に,S-テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用が,R-テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用に比べ,3000分の1以下であることも記載されていることは,上記1の(3)のとおりであるから,引用発明に係るテルブタリンに関し,S-テルブタリンを排除して,R-テルブタリンのみを有効成分とする医薬組成物を得ようとの動機付けに従って想到し得る医薬組成物が,「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用」を抑制する作用効果を奏することは,当業者において,当然に予測し得るところであり,原告の上記主張を採用することはできない。
(2)それのみならず,そもそも,本願発明のような,医薬についての用途発明においては,一般に,物質名や化学構造からその有用性を予測することは困難であって,明細書の発明の詳細な説明に有効量,投与方法,製剤化のための事項がある程度記載されていたとしても,それだけでは,当業者は当該医薬が実際にその用途において有用性があるか否かを知ることはできず,発明の課題が解決できることを認識することはできないから,更に,発明の詳細な説明に,薬理データ又はこれと同視することのできる程度の事項を記載してその用途の有用性を裏付ける必要があるというべきである。
そして,本願発明の要旨に照らし,本願発明の「ヒトにおける炎症性または閉塞性気道疾患処置用医薬組成物」の有効成分は,R-テルブタリン又はR,R-フォルモテロールであると認められるところ,本願明細書には,テルブタリンについては,「[1・3群薬]の非気管支拡張薬光学対掌体」,すなわち,S-テルブタリンの及ぼす影響に関する記載(段落【0024】〜【0029】),ラセミ体(R,S)-テルブタリンに言及した記載(段落【0028】)及び吸入量に関する記載(段落【0037】)があるものの,これ以外の記載はなく,フォルモテロールについては,一切記載がない。
そうすると,本願発明は,有効成分であるフォルモテロールに関し,本願明細書において,その有用性が裏付けられていないというべきであるから,本願発明の作用効果をいう原告の主張は,いずれもその前提を欠く失当なものであるというべきである。
(3)したがって,取消事由2についての原告の主張は理由がない。
第5結論以上のとおり,原告主張の取消事由はいずれも理由がないから,原告の請求を棄却すべきである。
裁判長裁判官 石原直樹
裁判官 古閑裕二
裁判官 杜下弘記