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審判番号(事件番号) データベース 権利
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事件 平成 6年 (ワ) 23360号
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裁判所 東京地方裁判所
判決言渡日 1996/04/19
権利種別 特許権
訴訟類型 民事訴訟
主文 一 本訴原告(反訴被告)は別紙目録記載のロキソプロフェンナトリウムを含有する製剤(商品名「リンゲリーズ錠」)を製造し、販売してはならない。
二 本訴原告(反訴被告)は、本訴被告(反訴原告)に対し、金四七五七万四〇〇〇円及びこれに対する平成七年五月一七日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
三 本訴原告(反訴被告)の請求を棄却する。
四 本訴被告(反訴原告)のその余の請求を棄却する。
五 訴訟費用は、本訴反訴を通じて四分し、その三を本訴原告(反訴被告)の負担とし、その余を本訴被告(反訴原告)の負担とする。
六 この判決は、第一、二項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
当事者の求めた裁判
一 本訴請求の趣旨1 本訴原告(反訴被告、以下「原告」という。)が別紙目録記載のロキソプロフェンナトリウムを含有する製剤(商品名「リンゲリーズ錠」)を製造し、販売する行為に対して、本訴被告(反訴原告、以下「被告」という。)は登録第一一七三三六二号特許権に基づく差止請求権を有しないことを確認する。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 本訴請求の趣旨に対する被告の答弁1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
三 反訴請求の趣旨1 原告は別紙目録記載のロキソプロフェンナトリウムを含有する製剤(商品名「リンゲリーズ錠」)を製造し、販売してはならない。
2 原告は、被告に対し、金七九三二万円及びこれに対する平成七年五月一七日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は原告の負担とする。
4 仮執行宣言四 反訴請求の趣旨に対する原告の答弁1 被告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
当事者の主張
一 本訴請求原因1 原告及び被告は、いずれも医薬品の製造、販売を業とする株式会社である。
2 原告は、別紙目録記載の一般名をロキソプロフェンナトリウムと称する化合物(以下「イ号物件」という。なお、以下の記載においては、イ号物件であるロキソプロフェンナトリウムをその無水物との対比において表現するため「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」といい、その無水物を「ロキソプロフェンナトリウム無水物」といい、それぞれを括弧書きで表記し、両者を包括して表現するときは「ロキソプロフェンナトリウム」という。)を含有する、商品名を「リンゲリーズ錠」と称する製剤(以下「原告製剤」という。)を製造し、販売している。
3 被告は、原告が原告製剤を製造、販売する行為は、後記本訴抗弁1記載の登録番号第一一七三三六二号の特許権(以下「本件特許権」という。)を侵害するものであるとして、その行為の停止を求めている。
4 よって、原告は、被告に対し、本訴請求の趣旨第1項記載のとおり、被告が本件特許権に基づく差止請求権を有しないことの確認を求める。
二 本訴請求原因に対する認否 本訴請求原因1ないし3はいずれも認め、同4は争う。
三 本訴抗弁1 本件特許権 被告は、左記の特許権(本件特許権)を有している。
発明の名称 置換フェニル酢酸誘導体及びその製法 出願日 昭和五二年四月五日 出願番号 昭和五二年第三八九〇六号 出願公告日 昭和五八年一月二七日 出願公告番号 昭和五八年第四六九九号 登録日 昭和五八年一〇月二八日 登録番号 第一一七三三六二号2 特許請求の範囲 本件特許権の明細書(以下「本件特許明細書」という。)の特許請求の範囲第1項の記載(以下「本件特許請求の範囲」といい、同項記載の発明を「本件特許発明」という。)は、本判決添付の特許出願公告公報(以下「本件公報」という。)写しの該当欄記載のとおりである。
3 イ号物件の本件特許発明技術的範囲への帰属(一)(1) 本件特許請求の範囲記載の化合物は、同欄記載の一般式を有する置換フェニル酢酸誘導体及びその塩であるが、本件特許請求の範囲の記載によれば、
右の一般式中、R1としてメチル基を選択し、nとして1を選択すると、化学名を2―〔4―(2―オキソシクロペンタン―1―イルメチル)フェニル〕プロピオン酸という次のT式で示される、一般名をロキソプロフェンという化合物が得られ、
そのナトリウム塩は次のU式で示される化合物である。
<31368-001><31368-002>(2) 原告製剤に含有されるイ号物件は、別紙目録のとおり、2―〔4―(2―オキソシクロペンタン―1―イルメチル)フェニル〕プロピオン酸ナトリウム二水和物(一般名ロキソプロフェンナトリウム)であり、その有する化学式を示せば次のとおりであり、右(1)記載のナトリウム塩の二水和物である。
<31368-003>(3) イ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」は、二水和物であっても、先に示した本件特許請求の範囲に記載された置換フェニル酢酸誘導体の一般式に含まれることが明らかなロキソプロフェンのナトリウム塩であることには変わりないのであるから、イ号物件は、本件特許発明技術的範囲に含まれている。
(4) すなわち、塩の水和物を含水塩と表現することからも分かるように、水和物は塩の一存在形態である。そして医薬品として使用される化合物の塩が、しばしば水和物の形をとることは当業者の常識であるから、特許請求に範囲にいう「・・・及びその塩」との「塩」が塩の無水物である無水塩、塩の水和物である含水塩をともに包含することは明らかである。
また、本件特許明細書には、「塩」が無水塩であるか含水塩であるかについて、
特に言及している記載はない。ただ、塩一般について、「必要に応じて薬理上許容される塩の形にすることができる」(本件公報4欄12〜13行)と記載しているだけである。その記載に続く実施例の記載中にあるナトリウム塩についても、無水塩と述べているわけではない。つまり、本件特許明細書においては、無水塩についても含水塩についても、記載の程度は同じなのであり、含水塩が薬理上許容される塩の形に含まれることは疑いがないのであるから、本件特許請求の範囲にいう「塩」をもって、無水塩に限定して解すべき理由はない。
さらにいえば、一般式によって対象を定義する化学物質発明の場合、構造式の異なる化学物質ですら必ずしも実施例あるいは具体的な開示を必要とはしないのであるから、ましてや、化合物の構造を特定したうえで、その塩を権利範囲に含める場合において、塩の個々の存在状態まで個別に記載する必要があるとは考えられない。
(5) そしてイ号物件は、本件特許明細書の実施例1に製造された事実が記載されているのであるから、この点においても、イ号物件が本件特許発明技術的範囲に属することは明らかである。
すなわち、本件特許明細書の実施例の記載(本件公報13欄2〜19行)によれば、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」は、ロキソプロフェンのエタノール溶液に、水酸化ナトリウムの水溶液を添加することにより製造されている。「ロキソプロフェンナトリウム無水物」に再結晶する以前の結晶は、水の共存する状態で製造し結晶化されており、このようにして得られる結晶は当然水和物である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」である。右事実は、被告のした追試実験においても確認されている。したがって、本件特許明細書には、イ号物件が具体的に記載されているということができる。
なお、同実施例においては、得られた「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を再結晶し、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」として、その融点が測定されているが、これは物質の融点は無水物を基準とするのが原則であるからである。元素分析値についても、無水物の値が示されているのは同様の理由による。
(6) また、イ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」と「ロキソプロフェンナトリウム無水物」は、本質的に同じ物質であるから、これを異なるものと解すべき理由はない。
すなわち、一般にある化合物につき無水物と水和物が存在するときは、両者の間には温度と湿度に従う可逆的な変化が生ずることは技術常識である。ロキソプロフェンナトリウムにおいても、温度と湿度の状況により、放置しておいてもその無水物は二水和物に変わり、その二水和物は無水物に変わる可逆的な変化が生じる関係にあり、両物質は本質的に異なるものではない。ロキソプロフェンナトリウムは、
通常の温度、湿度の状態下では、自然に水を吸って二水和物となって安定し、無水物は特に二水和物から水分子を除く処理して得られるのであるから、二水和物である塩が本件特許発明技術的範囲から除外されるという主張は、特許の解釈として非常識である。
また、ロキソプロフェンナトリウムの無水物と二水和物を、医薬品として使用した場合、服用した人体内において胃液に溶解して、最初が無水物であっても水和物であっても同じ効果を奏するのであるから、新規な構造の医薬品を提供する発明である本件特許発明の目的、効果に照らし、人が服用して差のない無水物と水和物を区別する理由は全くない。
(7) ちなみに、特許庁は、特許権の存続期間の延長登録の審査において、特許発明技術的範囲が問題となる場合には、水和物の記載が明示的にない特許についても、水和物があるものと認識して取り扱っている。
すなわち、特許第一〇五一九九四号、第一一一七八六七号、第一三九五六六六号の特許については、現に製造、販売されている医薬品の有効成分である化学物質がいずれも水和物であるところ、これらの化合物に対応する特許が無水物についてのものであり、当該明細書中には一切水和物についての記載がなく、水和物に関する特許がそれぞれ別に成立しているにもかかわらず、右医薬品を当該特許発明実施品としてして無水物の特許権の存続期間の延長登録が認められている。このことは、明細書に記載の無い水和物が、特許発明実施品として認定されていることを意味する。このことから明らかなように、特許庁は、無水物の特許発明技術的範囲にその水和物を含むものとして取り扱っているのである。
(二)(1) 原告は、特許庁の「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」中の、「化学物質の発明とその単なる塩の発明とは、原則として同一とする。」との記載に基づき、本件特許請求の範囲にいう「塩」とは「単なる塩」のことを指すのであり、「単なる塩」とは無水塩を指すのが化学常識である以上、本件特許請求の範囲にいう「塩」に、塩の水和物を含むとの被告の主張は、右運用基準に矛盾し許されない旨主張する。
しかしながら、右運用基準は、どういう出願が特許として認められるかということ、すなわち特許の成立性に関する基準である。このような特許の成立性に関する資料に基づいて侵害の成否を論ずることは、本質的に適切でない。また、運用基準における発明の同一性の判定はあくまで別の特許の成立を認めるか否かの観点に立つものであるのに対し、本件の問題は、ロキソプロフェンナトリウムの水和物につき本件特許発明とは別に特許が成立し得るか否かではなく、ロキソプロフェンとその塩につき特許が成立しているときに、含水塩を使用することが特許権侵害にならないかということである。ある特許発明に対し、付加、利用あるいは改良技術につき特許が成立する例は多いが、このような技術につき特許が成立しているからといって、元の特許を侵害しないなどといえないことは確立した法理である。しかも運用基準のどこにも、塩の水和物をどう取り扱うかについての記載はないのだから、
特許発明の問題として、塩が含水塩を包含するという解釈が運用基準と矛盾するはずはない。
そのうえ、そもそも「単なる塩」などという物質はない。なるほど、運用基準には、その言葉があるが、それは別に出願してきた発明を拒絶する場合の基準である。本件特許請求の範囲にいう「塩」が原告のいう「単なる塩」であるという根拠はなにもない。
(2) 原告は、イ号物件が実施例として得られていた点を否認するとともに、実施例1のロキソプロフェンナトリウムの生成が、出願途中の補正により加えられ、
その際に水和物に関する示唆がなかったことも、本件で問題となるロキソプロフェンナトリウムが無水物に限定されることの根拠になるか如き主張をするが、イ号物件が実施例において得られていたことは前述のとおりであるし、また実施例がいつ追加されたということは、本件において意味がない主張である。
(3) 原告は、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が本質的に同一である旨の主張を争い、両物質が可逆関係にあることを否認するとともに、被告の後願にかかる発明(甲第七号証)を引用して、
「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を原末として製剤化することが困難であり、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を、医薬品の利用の観点からみて同一視することはできない旨主張する。
両物質が可逆関係にあることは前述のとおりであるし、右後願の発明の内容は、
「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の製剤技術に関するものであるから、これをもって「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を、医薬品の利用の観点からみて同一視できないとする原告の主張は失当であるばかりか、原告が右後願特許に基づいてしたという「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の製剤化試験(甲第九号証)も、その製剤可能、不可能の判断の基準が不明であって、その試験結果は信用できない。
また、右発明で問題にされているロキソプロフェンナトリウムが無水物であることを前提に、本件特許発明技術的範囲に含まれる塩が無水物に限定されるかの主張も、やはり失当である。
なお、原告は、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の物性の相違を主張しているが、無水物と二水和物を結晶状態で比較すれば、水分子を含むか否かの相違を反映して、若干の物性の相違があることは当然である。
しかしながら、前述してきたとおり、いずれも本件特許発明実施態様内での相違に過ぎないのであるから、それが本件特許発明技術的範囲から除かれる根拠とはならない。すなわち、本件特許発明は、医薬品としての物の発明であり、ある化学物質を創製し、その化学物質に薬効があることを見出したことにより成立したものであるから、本件特許発明が提供した新規な化学物質が与えられることにより当業者が技術常識に従い容易に実施できるものである限り、化合物をそのまま使用する態様も、その他通常の塩基との塩を使用する態様も、また塩につき水和物が存在する場合は水和物を使用する態様も、すべて本件特許発明技術的範囲内での相違に外ならないというべきであるからである。
ただ、物性の相違に関し融点についての原告の主張は誤っている。すなわち、原告の主張する「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の融点は、物質から水が外れ、資料が溶け出したような現象が生じたことをもって融点として測定しており、
固体の結晶が液相になったという意味での融点を測定したものではない。なお、原告においても、イ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の医薬品製造承認申請書においては、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の融点を一九八℃と、原告自らが主張する「ロキソプロフェンナトリウム無水物」の融点をもって記載している。
(4) 原告は、特許庁の取扱いに関し、水和物の記載のない特許とその五水和物の特許の、両特許についての存続期間の延長登録が申請された事例において、五水和物の特許について存続期間の延長登録が認められたが、無水物についての基本特許については存続期間の延長登録が認められなかった例を挙げて、特許庁においては水和物の記載が明示的にない無水物の特許についても、水和物があるものと認識して取り扱っているという被告主張を争うが、この例は、本質的には、薬事行政行為である存続期間の延長登録を二つの特許について認める必要がないとの考慮にでたものであると考えられ、前述の特許庁の無水物の特許についての取扱いの問題とは関係がない。
(三) なお「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が、本件特許請求の範囲にいう「塩」に含まれることを論じるまでもなく、原告による原告製剤の製造、販売は、以下に述べる理由より、本件特許権を侵害することになる。
すなわち、イ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」はロキソプロフェンのナトリウム塩の一存在形態であるが、二水和物であろうと無水物であろうと、ロキソプロフェンのナトリウム塩を製造するためには、必ずロキソプロフェンを製造しなければならない。ロキソプロフェンの製造が、本件特許権を侵害することは言うまでもないから、原告は、イ号物件を含有する原告製剤の製造、販売を、本件特許権を侵害することなしに行えない。
したがって、原告製剤の製造、販売行為が、本件特許権を侵害することは明らかである。
四 本訴抗弁に対する認否及び反論1 本訴抗弁1、2の事実は認める。
2 同3中(一)(1)、(2)は認め、(一)(3)ないし(7)及び(二)、
(三)の主張は争う。
3 本件特許請求の範囲にいう「塩」とは、無水塩のみを指し、塩の水和物を含まないから、イ号物件は、本件特許発明技術的範囲に属しない。
(一) 特許庁が定めた「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」には、物質特許について、明細書において、新規な化学物質が化合物名または化学構造式により特定して記載されること、右化学物質が同定できる程度の同定資料が記載されること、右化学物質の製造方法が少なくとも一つ記載されることなどが必要であるものとされている。
物質特許である本件特許発明は、右運用基準を参照して検討すべきであるところ、本件特許発明の対象として特定された化学物質は本件特許請求の範囲に記載された同欄記載の一般式に含まれる置換フェニル酢酸誘導体及びその塩である。したがって、本件特許発明技術的範囲は、右にいう置換フェニル酢酸誘導体及びその塩のみに及び、それ以外に及ばないということになる。
そして、「塩」についての本件特許明細書の定義をみると、本件特許明細書の発明の詳細な説明の欄に「また、前記一般式Tを有する置換フェニル酢酸誘導体は必要に応じ薬理上許容される塩の形にすることができる。薬理上許容される塩の形としては、ナトリウム、カルシウムのようなアルカリ金属あるいはアルカリ土類金属の塩、アルミニウム塩、アンモニウム塩、トリエチルアミン、ジシクロヘキシルアミン、ジベンジルアミン、モルホリン、ピペジリン若しくはN―エチルピペリジンのような有機塩基またはリジン、アルギニンのような塩基性アミノ酸の塩をあげることができる。」(本件公報4欄11〜20行)との記載がある。
この記載からすると、本件特許発明技術的範囲の及ぶ「塩」とは、置換フェニル酢酸誘導体という酸と塩基性物質とを反応させて生成せしめた塩に過ぎないことが明らかである。
ところで、塩とは、酸と塩基との反応により生ずる化合物のことで、例えば塩酸と水酸化ナトリウムとの反応で生成する塩化ナトリウムがすなわち塩である。これに対し、塩の水和物とは、水の存在下での酸と塩基による塩の生成に際し、水分子が塩とさらに結合することにより生成する化合物である。ただ、塩の生成に際し水が存在すれば必ず水和物が生成するというものではなく、水分子と結合して安定な別の化合物を形成するか否かは、生成する塩の無水物の構造形態如何による。しかも水和物の生成自体は分析により初めて確認されることであって、塩の水和物の生成は、予測することが不可能であるから、酸と塩基の反応で生成する塩は無水物が主体であり、塩の水和物が生成することはむしろ例外的であるというのが当業者の技術常識である。
このような技術常識からすると、置換フェニル酢酸誘導体という酸と塩基性物質とを反応させて生成せしめた塩とは、無水物のことをいうものと解するのが相当である。
また、前記した物質特許の運用基準中の、発明の同一性に関する「化学物質の発明とその単なる塩の発明とは、原則として同一とする。」との基準によっても、特許請求の範囲にいう「塩」とは「単なる塩」、すなわち無水物のことを指すものと解するのが相当であり、塩の水和物を含まないものというべきである。
(二) 被告は、本件特許明細書の実施例1には、イ号物件の「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が製造されたことが記載されている旨主張する。
しかしながら、実施例1には、得られた化合物として「ロキソプロフェンナトリウム無水物」が、その融点の一九四〜一九八℃の記載及びその元素分析値により示されているに過ぎない。
しかも、実施例1のナトリウム塩の生成は、出願途中の補正により加えられたものであるが、その補正の際にも、水和物については一切ふれられておらず、もとより水和物結晶の生成を示唆する記載さえも全くない。
被告は、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」に再結晶する以前の結晶は、事実として「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」であり、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」に再結晶して融点を測定し、同物質の元素分析値を示しているのは、このような場合、無水物を基準とするのが原則であるからと主張する。しかし、本件特許明細書には、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の生成あるいは存在を示す記載は全くないし、被告がその主張の根拠とする実施例1の再結晶の前段階までの追試実験は、溶媒の留去方法に、本件特許明細書に記載されていないような方法を用いており、実施例1の追試実験とはいえない。
このように「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の化合物名ないしは化学構造式を示す記載はもとより、同物質を同定できる同定資料あるいはその製造方法を示すものがないという事実は、特許出願人である被告が、本件特許の出願時はもとよりその後においてもロキソプロフェンナトリウム塩が安定した二水和物を形成することについて全くその認識も意識もなかったことを示している。実施例1の記載を根拠に「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が、本件特許発明技術的範囲に属するものということはできない。
(三) またイ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」と「ロキソプロフェンナトリウム無水物」は、いずれも結晶性有機化合物であるが、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」は、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を構成する分子に二分子の水分子が結合することにより無水物の結晶とは違った結晶格子を形成して安定した結晶を構成しているものであって、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」とは、構造式(あるいは示性式)、分子式及び分子量、さらには化合物名においても異なる別の物質である。
このことは、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」の融点が一九四〜一九八℃であるのに対し、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の融点が七七・八〜七九・二℃であること、赤外線吸収スペクトルの測定結果が、それぞれの分子構造が異なることを示していること、両物質の各種溶媒に対する溶解度に相違があることなどからも明らかである。
原告が原告製剤の医薬品製造承認申請書において、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の融点として、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」の融点である「約一九八℃(乾燥後分解)」としたのは、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を乾燥した後に測定したものであり、乾燥後の物が「ロキソプロフェンナトリウム無水物」であることはいうまでもない。
被告は、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の関係につき、温度と湿度の状況により、相互に可逆的に変化する関係にあり、また、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」であっても、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」であっても、医薬品として使用するうえで本質的に差異はないのであるから、両物質は実質的に同一である旨主張する。
しかしながら「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を吸湿させたとき、同物質は「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」となって安定することなく、多くの水分を吸収保持するし、逆に、十分吸湿させた物質を温度をあげ水分を除去する乾燥状態におくと水分が失われるが、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」となって安定することなく、さらに水分を放出する。結局、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」は、特別な乾燥条件下で付着水を除去するという製造により得られ、
このようにして得られた二水和物は安定した化合物であるといえるが、一度この二水和物から水分子を除去させると、これを再び吸湿させても元の安定な二水和物に戻しえないものである。したがって、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が可逆関係にあるとはいえない。
また、そもそも化学物質を医薬品として服用に供するためには、医薬原末を製剤化しなければならないし、また薬効成分を体内に吸収させるために製剤医薬品の水あるいは酸性液(胃液)に対する溶解度が問題になることは薬剤の製造、使用に際し、極めて重要なことであるから、物性の相違を無視した実質的に同一であるとの主張は失当である。
そして、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を原末として製剤化することが困難であることは、被告が、本件特許の出願の後に「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を製剤化する方法を提供することを目的とする発明を出願したことからも明らかである。このことは、原告が右後願の公開特許公報に基づいて、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を用いてした製剤化試験(甲第九号証)において、両物質の製剤化の困難性の点で相違が認められたことからも明らかである。
なお、右の被告の後願の発明において、ロキソプロフェンナトリウムが「ロキソプロフェンナトリウム無水物」の意味に用いられていることは明らかである。
したがって、医薬品としての利用の観点から、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を同一視する主張も失当であり、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が実質的に同一であるとの被告の主張は理由がない。
(四) 被告は、特許庁が、無水物を開示しただけの物質特許であっても当該特許発明技術的範囲に水和物が含まれているものと取り扱っている旨主張する。
しかしながら、特許庁においては、かねてより無水物と水和物とは別物質であって水和物が無水物特許の範疇に属しないことが取扱いとして確立しており、ピペミド酸の三水和物の製造方法が特許されたのはその一例である。
また、無水物の記載のない基本特許と、その五水和物の特許を有する特許権者が、五水和物を医薬品として製造、販売している事例において、両特許について存続期間の延長登録の出願がされたのに対し、特許庁は、五水和物の特許についてのみ、存続期間の延長登録を認めたという、被告主張に反するような取扱いをした事例も存する。
本件において被告の引用する水和物の具体的記載のない三例の特許につきその存続期間の延長登録が認められたのは、特許庁において無水物の特許に水和物が含まれていると認識されていたことを示すものではなく、三例の特許においては水和物特許がいまだ期間延長の要件を満たす状態になかったからにほかならない。
右の無水物と五水和物の特許に関する特許庁の判断は、本件で問題となっている「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」とが明らかに別物質であり、後者は前者の特許請求の範囲に含まれないことを示すものである。
五 反訴請求原因1 前記三の本訴抗弁1ないし3記載のとおり。
2 原告の行為 原告は、平成六年一〇月一日から平成七年二月一三日までの間、原告製剤を、少なくとも、毎月平均五九二万九一〇〇錠の四・四六か月分の合計二六四四万三〇〇〇錠、一錠あたり少なくとも一五円で販売したのであり、その総販売額は三億九六六四万五〇〇〇円を下らない。
右の毎月の平均販売数量は、被告が、原告を債務者として富山地方裁判所に申し立て認められた本件反訴請求中の差止請求部分を本案とする特許権侵害禁止仮処分申立事件(富山地方裁判所平成六年(ヨ)第九六号)における仮処分決定を、平成七年二月一三日執行した際に、原告から交付された同日付けの原告製剤に関する在庫受払表(乙第一五号証)に記載されている原告製剤の販売数量(一二〇〇錠単位のリンゲリース錠が合計二二九四箱販売されたことが記載されている。)を、平成七年二月一日から同月一三日までの期間の販売数量であるとして一月あたりの販売数量を積算して得た数値である。
3 損害(一) 原告は、原告製剤の販売により販売額の二〇パーセントを利益として得たものであるから、前記総販売額三億九六六四万五〇〇〇円に右利益率二〇パーセントを乗じることにより得られる七九三二万円を下らない利益を得たものである。
(二) 被告は、ロキソプロフェンナトリウム製剤につき昭和六一年に製造承認を取得し、商品名「ロキソニン」として製造、販売している。
(三) 特許法102条1項に基づき、原告が、原告製剤を販売することにより受けた利益の額は、被告が受けた損害の額と推定される。
4 結語 よって、被告は、本件特許権に基づき、原告に対し、原告製剤の製造、販売の差止を求めるとともに、本件特許権侵害に対する損害賠償として、七九三二万円及びこれに対する不法行為の後であり、本件反訴請求の趣旨変更書送達の翌日である平成七年五月一七日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
六 反訴請求原因に対する認否1 反訴請求原因1に対する認否は、前記四の「本訴抗弁に対する認否及び反論」欄記載のとおりである。
2 同2のうち、被告主張期間の原告製剤の販売価格が一錠あたり一五円であること、被告が、原告を債務者として富山地方裁判所に申し立て、認められた本件反訴請求中の差止請求部分を本案とする特許権侵害禁止仮処分申立事件(富山地方裁判所平成六年(ヨ)第九六号)における仮処分決定を、平成七年二月一三日執行した際に、原告が被告に交付した同日付けの原告製剤に関する在庫受払表(乙第一五号証)に一二〇〇錠単位の原告製剤、リンゲリース錠が合計二二九四箱販売されたことが記載されていたことは認め、被告主張の期間のその販売数量を一五八五万八〇〇〇錠の限度で認め、その余の事実は否認する。
被告は、原告の在庫受払表(乙第一五号証)を基にして毎月の販売数量の平均値を求めて総販売数量を主張しているところ、原告においては、毎月二一日から翌月二〇日までを一か月の単位として売上を管理しており、したがって原告が平成七年二月一日から一三日までの販売数量として計算の基としたものは、平成七年一月二一日から同年二月一三日までの販売数量であるから、原告の主張はその前提を誤っている。
3 同3(一)のうち、利益率が二〇パーセントであることは認め、販売により得た利益については四七五七万円の限度で認め、その余の事実は否認する。
同3(二)の事実は認める。
同3(三)は争う。
4 同4は争う。
証拠(省略)
理 由一 本訴請求原因1ないし3及び本訴抗弁1(本件特許権)、2(特許請求の範囲)は当事者間に争いがない。
二 本訴抗弁3(イ号物件の本件特許発明技術的範囲への帰属)について1 本訴抗弁3(一)(1)、(2)は当事者間に争いがない。
したがって、ロキソプロフェンは本件特許請求の範囲に記載された置換フェニル酢酸誘導体の一般式に含まれ、また、ロキソプロフェンのナトリウム塩は、本件特許請求の範囲に記載された置換フェニル酢酸誘導体の塩に該当する。そして、成立に争いのない甲第一号証によれば、本件特許明細書の発明の詳細な説明の欄には、
本件特許発明についての一般的説明として、特許請求の範囲に記載された置換フェニル酢酸誘導体に該当する化合物として2―〔4―(2―オキソシクロペンタン―1―イルメチル)フェニル〕プロピオン酸(ロキソプロフェン〕が明示されており(本件公報4欄42〜43行)、薬理上許容される塩の型として、ナトリウム塩が明示されている(本件公報4欄11〜20行)外、実施例として2―〔4―(2―オキソシクロペンタン―1―イルメチル)フェニル〕プロピオン酸ナトリウム塩(ロキソプロフェンナトリウム)が挙げられていることが認められる。したがって、ロキソプロフェンのナトリウム塩は本件特許発明技術的範囲に属することは明らかである。
2 本件特許発明の特許請求の範囲中の「塩」という語の意味を検討する。
(一) 技術用語、学術用語としての「塩」は、酸と塩基の中和反応によって生ずる化合物を意味することは、基礎的技術常識として当裁判所に顕著である。
また、成立に争いのない甲第五号証、乙第三号証及び乙第四号証によれば、水和物とは水が他の化合物と結合して生成した化合物を指し、このうち特に塩の水和物を含水塩といい、その結合する水分子の数に従って一水塩、二水塩と呼ばれていること、水分子の結合がない塩は含水塩に対して無水塩と呼ばれていることが認められ、成立に争いのない乙第五号証によれば、化学大辞典(化学大辞典編集委員会編、共立出版株式会社昭和四四年八月五日発行)においては、塩である酢酸ナトリウムの解説として、その三水塩と無水塩が、並列的に記載されていることが認められる。
そして、塩であるからといって必ずその水和物(含水塩)が存在するものではないが、無水塩の外に含水塩を生成することは決して珍しいことではないことは当裁判所に顕著である。
したがって、塩を、水分子との結合の有無という基準によって、さらに分類したものが、無水塩、含水塩であり、技術用語、学術用語としての「塩」という語は、
特段の限定のない限り、無水塩、含水塩を含む上位概念として用いられているものと認められ(なお、化学分野の一般的な用語辞典である前記乙第三号証、乙第五号証を含む化学大辞典及び化学大辞典(大木道則他編、株式会社東京化学同人一九八九年一〇月二〇日発行)の「塩」の項目にもそれぞれ同様の趣旨の説明があることは当裁判所に顕著である。)、「塩」という語が当然に無水塩に限定された意味であるとは認められない。
(二) 次に本件特許明細書の記載をみると、特許請求の範囲にいう「塩」が含水塩を包含するものと明示ないしは示唆した記載はないが、他方「塩」が当該化合物の無水塩のみを指すものと定義した記載も存しない。
本件特許明細書には、本件特許発明における「塩」についての説明としては、発明の詳細な説明の欄に「また、前記一般式Iを有する置換フェニル酢酸誘導体は必要に応じ薬理上許容される塩の形にすることができる。薬理上許容される塩の形としては、ナトリウム、カルシウムのようなアルカリ金属あるいはアルカリ土類金属の塩、アルミニウム塩、アンモニウム塩、トリエチルアミン、ジシクロヘキシルアミン、ジベンジルアミン、モルホリン、ピペリジン若しくはN―エチルピペリジンのような有機塩基またはリジン、アルギニンのような塩基性アミノ酸の塩をあげることができる。」(本件公報4欄11〜20行)との記載があるのみである。右記載においては、本件特許請求の範囲にいう「塩」に包含されるか否かは、その塩が、薬理上許容されるか否かによることが示されているに過ぎず、無水塩、含水塩という基準により、塩を区別して取り扱うことが示唆されているものと解することはできない。
(三) そして、本件特許明細書の発明の詳細な説明の欄には、「抗炎症剤の開発を目的としてフェニル酢酸誘導体の合成並びに薬理活性の研究を重ねた結果、前記一般式Iで表わされる新規な置換フェニル酢酸誘導体が抗炎症、鎮痛及び解熱作用を有する医薬として有用な化合物であることを見い出して本発明を完成した。」(本件公報4欄33〜38行)との記載があり、本件特許発明が提供しようとした化学物質の有用性は、抗炎症、鎮痛及び解熱作用を有する医薬としての有用性であることが明らかにされているとともに、さらに「本発明の前記一般式Tを有する置換フェニル酢酸誘導体は薬理試験により、すぐれた抗炎症、鎮痛および解熱作用を示すが、次にそれらの薬理試験の結果を例示する。」(本件公報10欄33〜36行)として、右記載に続けて本件特許発明の「抗炎症および鎮痛作用」を薬理試験によって確認した結果を示す表がに記載されている。右表には本件特許発明に対応する薬物として「2―〔4―(2―オキソシクロペンタン―1―イルメチル)フェニル〕プロピオン酸」(ロキソプロフェン)の抗炎症、鎮痛についての薬理効果が記載され、またその余の請求項に記載の発明に対応する薬物もいずれも、置換フェニル酢酸誘導体についての薬理効果が示されている。
このことと、特許請求の範囲記載の置換フェニル酢酸誘導体の「塩」については、前記のとおり薬理上許容される塩という限定しかないことを考え併せると、本件特許発明の対象である化学物質の抗炎症、鎮痛及び解熱作用を有するという医薬としての有用性は、結局、特許請求の範囲に特定された置換フェニル酢酸誘導体の残基に存するものであり、右誘導体の塩は、塩であることによって右残基のもつ薬理効果自体に影響を与えるものではないと出願人である被告に認識されていたことが認められる。すなわち、本件特許請求の範囲にいう「塩」は、置換フェニル酢酸誘導体の薬理効果をもたらす構造を損なうことなく有して同様の有用性が認められることから、置換フェニル酢酸誘導体と同等の物として特許出願され、特許されたものと解される。
(四) 右(一)に認定した「塩」という語の技術用語、学術用語としての一般的意味及び(二)、(三)に認定した発明の詳細な説明中の記載、とりわけ本件特許発明の対象である化学物質の有用性となる属性が、置換フェニル酢酸の残基の部分にあるとして、その「塩」と併せて特許出願されていることを併せ考えると、本件特許発明の特許請求の範囲の「塩」は結晶水を有する含水塩、結晶水を有しない無水塩を含む上位概念の塩を意味するものと解するのが相当である。
3 右1、2に判断したところによれば、イ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」は、ロキソプロフェンナトリウムの含水塩であるから、本件特許発明の特許請求の範囲に記載された一般式を有する置換フェニル酢酸誘導体の塩に該当し、本件特許発明技術的範囲に属する物質であると認められる。
4(一) 原告は、昭和五〇年一〇月、特許庁が定めた「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」(以下「運用基準」という。)を根拠に、本件特許請求の範囲にいう「塩」とは、「単なる塩」を指すことは明らかであって、それは無水塩を指すのであると主張する。
成立の争いのない甲第三号証によれば、右運用基準中の、「第一部 物質特許に関する運用基準 第1 化学物質発明に関する運用」、「X 化学物質発明についての実体的判断」、「2.発明の同一性 1 化学物質発明相互間の発明の同一性」に関する基準として「C.化学物質の発明と、その単なる塩の発明とは、原則として同一とする。」との記載があることが認められ、また成立に争いのない甲第四号証によれば、当時特許庁の審判長兼審査基準室長であった【A】が執筆した「物質特許・多項制―その理論と運用―」(株式会社化学工業日報社昭和五一年二月二七日発行)という右運用基準の解説書中には、前記発明の同一性の基準について「これは、有機塩基 (酸)が酸(塩基)と作用して塩を生成することは塩基(酸)そのもののもつ共通性のある性質で、化学者の常識に属することであるからである。」と解説した記載があることが認められるが、右運用基準の右部分は、その記載箇所及び内容自体から明らかなように、発明の同一性、すなわちある化学物質の発明とその単なる塩の発明とを、審査上同一発明と認定するについての基準であって、本件特許発明のように、化学物質とその塩が発明の対象物質であるときに、その塩が無水物に限定されるか、水和物を含むのかという問題について基準を示すものではない。原告の主張は採用できない。
(二) 原告は、イ号物件を含む水和物が本件特許明細書に開示されていないことなどから、本件特許出願当時、特許出願人である被告は、ロキソプロフェンナトリウムの水和物の認識がなかったのであり、化学物質発明である本件特許発明技術的範囲は、開示も認識もない水和物には及ばない旨の主張をする。
(1) 本件特許発明実施例1には、まずその前段部分(本件公報12欄21行〜13欄1行)で、2―〔4―(2―オキソシクロペンタン―1―イルメチル)フェニル〕プロピオン酸(ロキソプロフェン)の製造が開示され、右記載に続く後段部分(本件公報13欄2〜25行)には、ロキソプロフェン「2・46gを7・6%水酸化ナトリウム水溶液10mlに溶解し、1時間室温で撹拌する。塩酸で酸性とした後、エーテルで抽出、抽出液を水洗、無水硫酸ナトリウムで乾燥した後、溶媒を留去する。得られた残渣をエタノール10mlに溶解し、氷冷下に7・6%水酸化ナトリウム水溶液5mlを滴下し、2時間室温で撹拌して後、溶媒を留去すると結晶が得られる。これをエタノール―エーテル混液から再結晶すると、融点194〜198℃を有する白色結晶として目的のナトリウム塩2・5gが得られる。」との記載がある。
弁論の全趣旨によれば、右記載中にある融点の記載は、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」のものと認められ、元素分析値欄の対象として示された組成が「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を表していることは明らかである。
被告は、この実施例においては、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が得られていたのであり、無水物の融点及び元素分析値が示されているのは、それらの値を示す場合には基準として無水物を使うことが原則であるからである旨、また、
実施例1において、少なくとも再結晶前の結晶は、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」であると主張する。
弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一四号証によれば、被告が、平成七年五月一〇日、本件特許明細書記載の実施例1の後段の記載に基づいて、再結晶工程(本件公報13欄20〜22行)の前段階までの追試実験を行った結果、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の結晶を得たことが認められ、この事実によれば、実施例1に記載された製造工程中、再結晶により「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を得る前段階において、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の結晶が得られていたものと推認することができる。原告は、右追試実験について、溶媒の留去方法が、本件特許明細書の実施例とは異なる旨非難するところ、確かに本件特許明細書の実施例には「溶媒を留去すると結晶が得られる。」としか記載していないのに、前掲乙第一四号証によれば、被告のした追試実験では「室温で、減圧下において、1・5時間更に真空下(0.3Torr)で3時間、
溶媒を留去した」という本件特許明細書に具体的には特定されていない方法が用いられていることが認められる。しかしながら、実施例の記載は、右のとおり、「溶媒を留去する」としか記載しておらず、留去方法を特定していないだけであって、
被告が追試実験で用いた方法が、当業者が通常実施しないような特殊な方法であることをうかがわせるような事実は認められず、かえって弁論の全趣旨によれば、溶媒の留去方法としては、加熱による留去方法とともに右追試実験で被告が用いた減圧による留去方法も一般的であると認められるのであるから、原告のいう被告追試実験についての非難はあたらない。
したがって、客観的には実施例1の製造工程中の粗結晶段階においては「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が得られていたものと認められ、その意味では本件特許明細書に、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の生成とその製造方法に該当する記載があるものということができるが、他方、特許出願人である被告が、本件特許の出願当時、粗結晶段階の結晶を「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」であると特定して認識していたことをうかがせるような記載は、本件特許明細書には存しないのであるから、右認定の事実をもって、本件特許明細書中に、イ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」が実施例として開示されているものとはいえない。
「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」は、その化学構造式が異なることからも明らかなように、異なる物質であることは明らかであり、前記2(一)のとおり、塩であるからといって必ずその水和物が存在するものではないが、無水物の外に含水物を生成することは珍しいことではないから、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を認識した以上、その水和物の存在を一般的に予測することはできるものの、幾つの水分子を有する水和物が得られるかまでを、正確に予測することは困難であると認められ、このことと、前記のとおりの本件特許明細書の記載内容を併せ考えると、特許出願人である被告においては、本件特許出願時において、一般的にロキソプロフェンナトリウムについて水和物が存する蓋然性は認識していたとしても、「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」という特定の二水和物についての明確な認識があったものと認めるに足りる証拠はない。
なお、被告が、現に「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を用いて製剤事業を行っていることは、当事者間に争いないが、それが本件特許出願当時からである証明はない。
(2)しかしながら、本件特許発明実施例として無水塩しか明確に記載されておらず、特許出願人である被告が、本件特許を出願した当時、イ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を具体的に認識していたことを認めるに足りることができないからといって、そのことを理由に、本件特許発明の特許請求の範囲にいう「塩」が無水物に限定され、あるいはイ号物件は本件特許発明技術的範囲に属しないとする根拠とすることはできない。
すなわち、前記2(三)に認定判断したとおり、本件特許明細書の記載から、出願人である被告は、本件特許発明の対象である化学物質の抗炎症、鎮痛及び解熱作用を有するという医薬としての有用性は、特許請求の範囲に特定された置換フェニル酢酸誘導体の部分に存し、右誘導体の塩は塩であることによって誘導体のもつ薬理効果自体に影響を与えるものではないと認識していたものであり、実施例として「ロキソプロフェンナトリウム無水物」を具体的に認識していたものと認められる以上、存在する蓋然性のある含水塩をも包括的に認識していたものということができ、また、右のような本件特許明細書の記載と前記2(一)に認定した技術用語、
学術用語としての「塩」の意味によれば、本件特許明細書に接する当業者は、本件特許明細書にはロキソプロフェンナトリウムの含水塩も開示されているものと認識することができるからである。
(三) 原告は、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」は「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」と物性が違い、薬剤としての製造、使用を考慮すると両者は実質的に同一とはいえない旨主張する。
しかし、原本の存在及び成立に争いのない甲第二一号証及び成立に争いのない乙第一号証によれば、イ号物件を有効成分として含有する被告の製剤は、人体内においては、ロキソプロフェンとなって消化管から吸収され、その後活性代謝物〔trans―OH体(SRS配位)〕に変化して、抗炎症、鎮痛及び解熱作用を示す(解熱に係る適応は未承認)ものであり、本件特許発明の対象物質の医薬としての有用性を全て具備しており、そのカタログ及び医薬品インタビューフォームにおいては、医薬品としての用量を、無水物としての質量に換算して表示されていることが認められ、したがってロキソプロフェンナトリウムが無水物であるか二水和物であるかは、その本件特許発明の医薬としての効能に影響しないものと認められる。
そして右の点は、同じくイ号物件を有効成分として含有する原告製剤でも同じことと認められるから、結局、イ号物件において、二水和物であることは、無水物に比較して、本件特許発明の対象である化学物質の有用性である抗炎症、鎮痛及び解熱作用という薬効それ自体については何ら付加するものではない。したがって、医薬としての観点からみるとき、「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を、異なる化学物質として取り扱う理由はないというべきである。
「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」と「ロキソプロフェンナトリウム無水物」とは異なる物質であるから、前記のような抗炎症、鎮痛及び解熱作用という薬効それ自体に影響を及ぼさない物性に差があることは当然予測されるところであり、そのような相違に由来して、製剤化の容易性等について両物質に差異があり、
その結果「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」の方が製剤が容易であるとしても、そのことは本件特許発明の対象である化学物質が示す有用性である医薬としての薬効それ自体が異なることを示すものということはできないから、仮に右のような製剤の容易性にかかわる物性に差があったとしても、本件特許発明の対象物質に該当するか否かについて「ロキソプロフェンナトリウム無水物」と「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」を、別異の化学物質として取り扱う理由はない。
(四) 成立に争いのない甲第一〇号証ないし第一二号証及び乙第九号証ないし第一一号証の各一ないし四によれば、特許権の存続期間の延長登録の審査実務において、特許発明の対象として、水和物の記載が明示的にない特許について、その物質の水和物を医薬品として製造、販売するについての薬事法上の手続のため、当該特許権の実施が遅れたものとして、存続期間の延長登録が認められた事例が少なくとも三件存することが認められる。他方、成立に争いのない甲第二三号証、甲第二四号証及び甲第二五号証の一、二によれば、ある化合物の五水和物についての特許とその基本となる化合物についての物質特許を有する特許権者が、五水和物についてのみ医薬品として製造、販売を行うために薬事法上の手続を経た場合に、両特許について存続期間の延長登録の出願をしたところ、右五水和物は、基本となる化合物の特許発明技術的範囲に含まれないとして五水和物の特許のみに存続期間の延長登録が認められ、その基本となる化合物の特許についての存続期間の延長登録が認められなかったという、前記三事例の取扱いとは異なる事例が存することが認められる。
しかしながら、特許発明技術的範囲は、結局、個々の特許発明において、明細書の記載内容、当該技術分野における公知の技術等を斟酌して判断されるべき個々の特許発明に固有の事柄であり、一般化できる問題ではない。この点は被告主張にもあてはまることであって、その主張する三例の特許発明の取扱いから、特許請求の範囲に無水物の記載のみしかない特許において、常にあらゆる水和物がその技術的範囲に含まれると解することができると一般化できるものではない。いずれにせよ、当事者双方が挙げるわずか四つの存続期間の延長登録に関する事例から、特許庁における「塩」の語の解釈についての確定した意義の存在及びその内容を認定し、前記3に認定判断した本件特許発明における「塩」の意味を左右することはできない。
また、原告は、ピペミド酸の三水和物の例をひいて、特許庁においては無水物と水和物とは別物質であって水和物が無水物特許の範疇に属しない取扱いが確立している旨主張する。しかし、成立に争いのない甲第一四号証によれば、原告の指摘する事例は、PPAと略称される物質の三水和物の製法の特許についての特許異議事件において、公知文献中のPPAの製法の記載に基づいて、容易に発明することができたとは認められない旨を判断する過程で一つの考え方が示されたに過ぎないものであり、そのような取扱いが確立しているとは直ちに認められないし、右事実から前記3に認定判断した本件特許発明における「塩」の意味を左右することはできない。
5 以上のとおりであるからイ号物件である「ロキソプロフェンナトリウム二水和物」は、本件特許発明技術的範囲に属するものと認められ、原告がイ号物件を含有する原告製剤を製造、販売する行為は、本件特許権を侵害するもので、被告は原告に対し、イ号物件を含有する原告製剤の製造、販売の差止請求権を有するものであり、本訴抗弁には理由がある。
三 反訴請求原因について1 反訴請求原因1の事実が認められることは、右二に判断したとおりである。
よって、イ号物件は本件特許発明技術的範囲に属するものであり、イ号物件を製造、販売する原告の行為は本件特許権を侵害するものであるから、被告は原告に対しイ号物件の製造、販売の差止請求権を有し、かつ原告は右侵害行為ついて過失があったものと推定される。
2 反訴請求原因2のうち、被告主張期間の原告製剤の販売価格が一錠あたり一五円であること、被告が、原告を債務者として富山地方裁判所に申し立て、認められた本件反訴請求中の差止請求部分を本案とする特許権侵害禁止仮処分申立事件(富山地方裁判所平成六年(ヨ)第九六号)における仮処分決定を、平成七年二月一三日執行した際に、原告が被告に交付した同日付けの原告製剤に関する在庫受払表(乙第一五号証)に一二〇〇錠単位の原告製剤、リンゲリース錠が合計二二九四箱販売されたことが記載されていたことは当事者間に争いがなく、原告が平成六年一〇月一日から平成七年二月一三日までの間に販売した原告製剤の販売数量は一五八五万八〇〇〇錠の限度で当事者間に争いがない。
被告は、右仮処分決定の執行に際に交付された在庫受払表が、平成七年二月一日から一三日までの販売数量を記載したものであるとして、これに基づいて原告製剤の一か月あたりの販売数量を推計し、前記平成六年一〇月一日から平成七年二月一三日までの間の原告製剤総販売数量は、合計二六四四万三〇〇〇錠である旨主張する。
しかしながら、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二六号証によれば、原告は、毎月前月二一日から当月二〇日までの期間を一か月として売上を集計、管理していることが認められるのであるから、平成七年二月一三日付けである右在庫受払表は、原告の主張するとおり平成七年一月二一日から同年二月一三日までの売上を集計した表であると認めるのが相当であり、右認定を左右するに足りる証拠はない。したがって、右在庫受払表を平成七年二月一日から一三日までの期間の売上を集計したものであることを前提とする被告の推計は、その前提において理由がない。
前記当事者間に争いがない数量以上に、原告製剤の販売数量を認定するに足りる証拠はない。
3 原告製剤の販売価格は一錠あたり一五円であること、その利益率が二〇パーセントであることは当事者間に争いがないから、前記原告が、原告製剤を販売することにより得た利益は、販売数量一五八五万八〇〇〇錠に右販売価格及び利益率を掛けた、四七五七万四〇〇〇円であると認められる。右金額を越える原告の総販売額及び利益額に関する被告の主張を認めるに足りる証拠はない。また、被告が、原告製剤と同じイ号物件を含有する製剤を製造、販売していることは当事者間に争いがないから、被告は本件特許権を業として実施しているものと認められる。
したがって原告が原告製剤を販売することにより、被告が被った損害の額は、特許法102条1項を適用して、四七五七万四〇〇〇円と推定される。
四 結論 以上判断したとおり、本訴請求は理由がないからこれを棄却し、反訴請求のうち、原告製剤の製造、販売の差止請求は理由があるからこれを認容し、損害賠償請求については金四七五七万四〇〇〇円及びこれに対する不法行為の後である平成七年五月一七日から支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法89条92条本文を、仮執行宣言につき同法196条1項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
裁判官 西田美昭
裁判官 高部眞規子
裁判官 森崎英二