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関連審決 異議1998-70613
関連ワード 有用性 /  物の発明 /  製造方法 /  29条の2(拡大された先願の地位) /  出願公開 /  試行錯誤 /  技術常識 /  化学構造 /  優先権 /  分割出願 /  優先日 /  参酌 /  置換 /  容易に想到(容易想到性) /  実施 /  設定登録 /  請求の範囲 /  取消決定 / 
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事件 平成 11年 (行ケ) 207号 特許取消決定取消請求事件
原告 杏林製薬株式会社代表者代表取締役 【A】
訴訟代理人弁理士 【B】
被告 特許庁長官【C】
指定代理人 【D】
同 【E】
同 【F】
裁判所 東京高等裁判所
判決言渡日 2000/09/05
権利種別 特許権
訴訟類型 行政訴訟
主文 原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
当事者の求めた裁判
1 原告 特許庁が平成10年異議第70613号事件について平成11年5月21日にした取消決定を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告 主文と同旨
当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯 原告は、発明の名称を「選択毒性に優れた8-メトキシキノロンカルボン酸の製造中間体」とする特許第2640441号の発明(昭和61年1月21日にした特許出願である特願昭61-10880号(以下「基礎出願」という。)に基づく優先権を主張して昭和61年9月18日に出願した特願昭61-220149号(以下「原出願」という。)の分割出願である特願平4-178932号の一部を、平成7年5月9日に分割出願し、平成9年5月2日に設定登録されたものである。以下「本件発明」という。)の特許権者である。
本件発明に係る特許について、【G】等から特許異議の申立てがあり、特許庁は、この申立てを平成10年異議第70613号事件として審理した結果、平成11年5月21日、「特許第2640441号の特許を取り消す。」との決定をし、同年6月14日、その謄本を原告に送達した。
2 特許請求の範囲 一般式[T] [式中、Rは水素又は低級アルキル基を示す。]で表わされる8-メトキシキノロンカルボン酸の製造中間体。
3 決定の理由 別紙決定書の理由の写しのとおりである。要するに、@本件発明は、基礎出願の願書に最初に添付された明細書(以下「基礎明細書」という。)に記載された発明とは認められない、と認定し、これを前提として、A本件発明の出願日を原出願の出願日である昭和61年9月18日とみなし、B本件発明は、その出願日の前の出願であって、その出願後に特許法42条の2第3項の規定により出願公開されたものとみなされた特願昭61-74064号の願書に最初に添付した明細書記載の発明と同一であるから、特許法29条の2に該当し、特許を受けることができないと認定判断した。
原告主張の決定取消事由の要点
決定の理由1ないし3(手続の経緯、本件発明、取消理由通知の概要)及び5(対比・判断)は認める。同4(本件特許の出願日及び優先日)及び6(むすび)は争う。
決定は、基礎明細書に本件発明が記載されていることを看過した結果、本件発明の出願日を誤認したものであって、この誤りが結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、違法として取り消されるべきである。
1 4,5-ジフルオロ-2-ハロゲノ-3-メトキシ安息香酸(別紙合成経路図1の(イ)記載の化合物。以下「化合物U」という。)について (1) 確かに、化合物Uは、基礎出願の出願日(以下「本件優先日」という。)の時点では、文献未記載の新規化合物である。しかし、ある化合物が文献未記載であることと、その化合物の合成の難易とは必ずしも相関するものではない。化学物Uのように簡単な化合物は、その化学構造式をみれば当業者が容易に合成できるものであって、必要性がなかったことから、たまたま合成されてこなかっただけのことである。
(2) 化合物Uを含めた芳香族カルボン酸が、芳香族ハロゲン化物から容易に合成できることは、この合成が本件優先日より前から周知慣用の事項であった事実から自明である。例えば、「有機化学U」(丸善株式会社昭和57年2月20日発行)の110〜111頁、251〜252頁(以下「甲第6号証刊行物」という。)には、別紙合成経路図2記載の合成経路(以下「合成経路2」という。)が開示されている。
これを化合物Uの合成に適用すると、直ちに別紙合成経路図3記載の合成経路(以下「合成経路3」という。)になることが容易に理解されるのである。
(3) 当業者であれば、例えば、その当時公知となっていた特開昭60-72885号(以下「甲第9号証刊行物」という。)には1-ブロモ-2、4、5-トリフルオロベンゼンから2、4、5-トリフルオロ安息香酸を製造する方法が開示されているので、この方法に準じて3位にメトキシ基が配置されている化合物を用いることにより、化合物Uを合成することを予測するのは容易である。
(4) 決定は、公知文献で明らかにされている反応でも、一部構造が異なれば反応の進行にも変化を来たす可能性がある旨指摘し、結果を予測できないとしているが、誤りである。
なぜなら、当業者が新規化合物の合成実験を行うに当たっては、そのとき使用する化合物にもっとも類似する化合物が使用されている文献を参考にするのが一般的であり、まずは、その文献と同様の方法で実験を進め、文献に記載されている結果と異なる事実が判明したときは、新たな合成方法を検討するものである。ところが、本件では、当業者が、化合物Uについての合成方法を公知の方法より予測し、その方法に準じて反応を行えば、予測通りの結果が得られるのであるから、本件は、当業者が通常に有する知識以上の工夫を必要とせずに目的が達成できる場合に当たる。したがって、化合物Uについては、あえて具体的な合成方法を開示する必要もない場合に該当するのである。
2 化合物Uから化合物Tを合成することについて (1) 基礎明細書には、別紙合成経路図1の合成経路(以下「合成経路1」という。)が記載(ただし、(イ)〜(リ)の符号は記載されていない。)されており、当業者であれば、これによって化合物T(合成経路1の化合物(ト)、(チ)をいう。)の合成は容易であった。
(2) また、この合成方法に準ずる方法が、例えば、甲第9号証刊行物の2頁に反応経路図として既に開示されていたから、仮に、別紙合成経路図1を見なかったとしても、当業者にとって、化合物Tの合成は可能であった。すなわち、甲第9号証刊行物には、化合物Tの8位にメトキシ基がないものの合成方法が開示されており、化合物Tもこの方法に準じて合成できるであろうことは、容易に想到し得るところであり、かつ、その反応結果を予測することも容易であったといえるのである。
(3) したがって、基礎明細書の合成経路1を示されただけで、当業者は、収率や純度等を別にすれば、化合物Tを、多少の紆余曲折を伴うとしても基本的には容易に製造することができたはずである。
3 基礎明細書には、化合物Tの物性の記載はない。しかし、物性値を記載する理由が、発明の完成の確認、つまり化合物Tが得られたか否かの確認について用いるためであれば、化合物Tの構造式から予測できる物性値を用いることにより、物性値の記載に代用することが可能である。すなわち、予測した物性値と、実際に反応によって得られた化合物を測定した物性値とを対比することによって、目的物の確認をすることが可能である。また、発明の追試者に対する開示義務の観点からは、基礎明細書が公開された時点においては、その公開公報には具体的な合成方法や物性が記載されていたのであるから、発明の追試者が実質的に不利益を被るということはない。
本件発明の要旨は、その特許請求の範囲に記載された技術的事項、すなわち、製造中間体としての化合物Tの有用性にある。一方、基礎明細書には、化合物Tの化学構造式、及びそれが選択毒性に優れた8-アルコキシ(メトキシ)キノロンカルボンの製造中間体であることが、化学式及び反応経路図で明確に記載されている。本件発明の要旨事項は基礎明細書にそっくり記載されている。物性データの開示がないとの理由だけをもって、本件発明に関してされている基礎明細書の記載のすべてを、ないものとすることはできない。
被告の反論の要点
1 化合物Uについて (1) 甲第6号証刊行物には、臭化ベンゼンからシアン化ベンゼンを得る方法(110〜111頁)と、o-シアン化トリルからo-トルイル酸を得る方法(251〜252頁)が記載されているだけであって、原告の主張するような、置換基を一般化した合成経路2は記載されていない。いかなる置換基の場合についても同様の反応が生じるというものではないのである。
また、上記2つの方法の物質の置換基からみれば、化合物Uを得るための出発物質が、甲第6号証刊行物に、記載されているとすることもできない。
さらに、この2つの方法は、それぞれ別個に記載されているものであり、
しかも、シアン化ベンゼンとo-シアン化トリルは全く異なった化合物であって、
一連の化合物の合成方法として記載されているものではない。
のみならず、甲第6号証刊行物には、上記臭化ベンゼンからシアン化ベンゼンを得る方法の反応温度として200℃が記載されている(甲第6号証刊行物110頁)のに対し、本件発明の化合物Uを得る過程で臭素基をシアン基に置換する場合には、それより低い140〜150℃で行っており(本件特許公報7欄10〜12行)、反応条件を異にしている。
甲第6号証刊行物には、ベンゼン環にシアン基を置換する場合において、
ベンゼン環にニトロ基が置換している臭化ベンゼンでは、シアン化合物で処理しても、ニトロ基がシアン基に置換するだけで、臭素基は無変化であることも記載されている(111頁)。このように、ベンゼン環の臭素基がシアン基に置換しない場合があり、臭素基が置換したベンゼン環を用いても、臭素基がシアン基にすべて置換できるものではない。
これらの点から見ると、化合物Uが、甲第6号証刊行物に記載された製法から直ちに得られるとすることは誤りである。
(2) 甲第9号証刊行物には、化合物Uは記載されていない。化合物Uは、甲第9号証刊行物記載の化合物と対比した場合、ベンゼン環にメトキシ基が置換している点で異なり、新規なものである。そして、このようなメトキシ基を有する構造の化合物が、本件優先日前に周知であることを示す技術文献はないから、甲第9号証刊行物に記載された内容から、化合物Uの物性を類推することは不可能である。そして、これらの化合物の物性が記載されていない以上、実験を進めることはできないから、甲第9号証刊行物の記載から化合物Uを合成することを、当業者が容易にできることとすることはできない。
(3) 原告は、化合物Uは簡単な化合物であるから、当業者が容易に合成できると主張する。しかし、化合物Uの物性については、置換基の種類、数及び置換位置から何ら予測できるものではない。そして、通常、反応終了後の反応液中には、種々の化合物が生成しており、目的とする化合物の融点等の確認手段が示されていなければ、目的とする化合物の生成を確認することは困難である。まして、そのような確認のできない化合物を、原料として次の合成に用いることは不可能である。
(4) 原告の主張は、文献における合成法を適用した場合において、その結果が予測にすぎない場合であって、合成できるか否かが不確かな場合であっても、結果としてその文献の方法に準じて目的物質が得られれば、化合物の合成法の開示は必要ないというに等しいものであり、また、試行錯誤を伴うことを許容するものである。しかし、特許を受けることの代償としての明細書における開示は、当業者がその当時の技術水準からみて、明細書の記載に基づき試行錯誤を伴うことなく、その発明を確かに実施し得ると認識し得ることが必要であることは当然のことであり、
化合物について合成できるか否かが不確かな場合においては、その化合物が記載されているとすることはできないのである。
2 化合物Uから化合物Tを合成することについて (1) 化合物Tは新規化合物である。それにもかかわらず、基礎明細書には、単に、合成経路1という合成経路の概略図上にその構造式が記載されているにすぎず、その生成を確認しうる物性データはおろか、これを製造するための各工程の反応条件についても記載はない。このような基礎明細書の記載からみれば、本件発明の化合物は、なんら実体を伴うものではなく、基礎明細書に記載されているとはいえない。
明細書に化合物の発明が記載されているというためには、明細書の記載に基づき、目的とする化合物が得られることが必要である。その際、技術常識参酌等は許されるものの、これを超えて、当業者に試行錯誤等を強いなければ目的化合物が得られないような場合には、明細書に化合物の発明が記載されているとはいえない。
(2) 甲第9号証刊行物には、化合物Tは記載されていない。それどころか、化合物Tは、甲第9号証刊行物記載の化合物と対比した場合、ベンゼン環にメトキシ基が置換している点で異なり、新規なものである。したがって、前述した化合物Uの場合と同様、甲第9号証刊行物に記載された内容から、化合物Tの物性を類推することは不可能であり、甲第9号証刊行物の記載から化合物Tを合成することは、
当業者が容易にできることとはいえない。
3 基礎明細書の記載では、出発物質である化合物Uを得るための原料化合物の選定、その原料化合物から化合物Uに至る各工程の反応条件について、当業者は自ら案出して設定しなければならず、さらに、各工程において得られるものがその工程における目的化合物か否かを確認しなければならない。しかし、物性データは存在しないのであるから、それぞれの工程において目的化合物が得られたか否かは、
反応液から、目的化合物を分離し、逐一質量分析、NMR、赤外スペクトル等の分析手段を介して構造解析を行い、先の工程に進まなければならない。しかも、前記反応条件の設定は、新規化合物を原料とする場合においては、好適であろうとの単なる予想によるものであるから、必ずしも各工程における目的化合物が得られるとは限らず、その都度反応条件を設定し直す必要が生じることは当然予想されることである。そして、当業者は、この作業を各工程において繰り返さなければならないのである。基礎明細書の記載では、このような試行錯誤を伴う困難な作業を当業者に強いることになることは明らかである。このような紆余曲折を伴うものを、明細書に記載されているとすることはできないことは、化合物Tに関して既に述べたとおりである(基礎明細書の記載では、化合物Tすなわち本件発明の化合物(ト)及び(チ)を得るために紆余曲折を伴うことは、原告も認めるところである。)。
当裁判所の判断
1 化学物質につき特許が認められるためには、それが現実に提供されることが必要であり、単に化学構造式や製造方法を示して理論上の製造可能性を明らかにしただけでは足りず、化学物質が実際に確認できるものであることが必要であると解すべきである。なぜなら、化学構造式や製造方法を机上で作出することは容易であるが、そのことと、その化学物質を現実に製造できることとは、全く別の問題であって、机上で作出できても現実に製造できていないものは、未だ実施できない架空の物質にすぎないからである。そして、ある化学物質に係る特許出願の優先権主張の基礎となる出願に係る明細書に、その化学物質が記載されているか否かについても、同様の基準で判断されるべきことは明らかである。
2 甲第3号証によれば、基礎明細書には、「本発明化合物(判決注・化合物Tを指す。)はまた、以下の合成経路によっても合成することができる。」(10頁10行〜12頁1行)として、合成経路1(ただし、(イ)〜(リ)の符号は、判決において付したものである。)が記載されているものの、この合成経路1については、他に何らの説明もないことが認められる。また、合成経路1の出発物質である化合物Uが、本件優先日において文献未記載の新規化合物であることは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、化合物Tを含め、合成経路1の(ロ)ないし(リ)の化合物は、いずれも文献未記載の新規化合物であることが認められる。
3 化合物Uについて (1) 化合物Uは、本件優先日において文献未記載の新規化合物であるにもかかわらず、基礎明細書には、その製造方法はもとより、その物性等、これが現実に製造されたことを示す根拠も記載されていないから、実際に確認できるものではない。したがって、化合物Uが基礎明細書に記載されているということはできない。
(2) 原告は、甲第6号証刊行物には合成経路2が開示されており、これを化合物Uの合成に適用すると、直ちに合成経路3になることが容易に理解されると主張するので、検討する。
ア 甲第6号証によっても、同号証刊行物に反応経路2が記載されているとは認められない。
イ もっとも、甲第6号証刊行物には、「305.ベンゼン核置換ハロゲン化合物の一般性質と反応・・・B)無水シアン化第一銅とピリジン(またはキノリン)中200℃で熱すると、臭化アリールの臭素原子がシアン基に置換される。
シアン化第一銅のかわりにシアン化ナトリウムに少量のシアン化第一銅を加えたものを使用してもよい。ピリジン(またはキノリン)は必ずしも必要でない。塩素に対しo-またはp-位にニトロ基が存在すると(前者が後者の存在により活性化をうける)、塩素原子も同様にしてシアン基に置換される。」(110〜111頁)、「第1節 ベンゼン核にカルボキシル基を直結するカルボン酸・・・B)シアン化物を加水分解する。たとえば、o-シアン化トリル o-tolyl cyanide からo-トルイル酸 o-toluic acid が得られる。」(251〜252頁)との記載があることが認められる。しかし、上記は、臭化ベンゼンからシアン化ベンゼンを得る方法(110〜111頁)及びo-シアン化トリルからo-トルイル酸を得る方法(251〜252頁)の記載にすぎない。そして、化学反応においては、他の置換基の性質、反応性等により、反応が異なり得ることは自明であるから、上記記載を、一般的に他の置換基が何であっても、同号証記載の方法によりベンゼン核に結合した臭素基がシアン基に、シアン基がカルボキシル基に置換ないし変化する、などという趣旨と理解することはできない。
ウ 甲第6号証刊行物に反応経路2が記載されていると認めることができない以上、原告の主張は、前提を欠くものである。
エ 原告は、当業者が新規化合物の合成実験を行うに当たっては、そのとき使用する化合物にもっとも類似する化合物が使用されている文献を参考にするのが一般的であり、まずは、その文献と同様の方法で実験を進め、文献に記載されている結果と異なる事実が判明した時は、新たな合成方法を検討するものであり、本件では、化合物Uについての合成方法を公知の方法より予測し、その方法に準じて反応を行えば、予測通りの結果が得られるのであるから、具体的な合成方法を開示する必要もない場合に該当すると主張する。
しかし、ある化学物質が、優先権主張の基礎となる出願に係る明細書に記載されているというためには、化学物質が実際に確認できるものであることが必要であると解すべきであることは前示のとおりである。原告の主張は、採用することができない。
のみならず、甲第6号証刊行物が、「最も類似する化合物が記載されている文献」であることを認めるに足りる証拠はない。原告の主張は、合成できるか否かが不確かな場合であっても、文献も示さずに当て推量を述べておけば、結果として、他の文献の方法に準じた方法で目的物質が得られた場合には、「予測通りの結果」であるから「特許が得られる」と主張しているに等しい。
なお、化合物Uが、甲第6号証刊行物に記載された方法で得られたと認めるに足りる証拠もない。例えば、臭素基をシアン基に置換する際、甲第6号証刊行物においては、200℃で熱しているのに対して、本件発明においては、140〜150℃で熱しており(甲第2号証7欄10〜12行)、また、シアン基をカルボキシル基に変換する際、本件発明においては、甲第6号証刊行物には該当する記載のない3-メトキシ-2,4,5-トリフルオロベンツアミドを経由しているのである(同欄23行)。
(3) 原告は、当業者であれば、甲第9号証刊行物の1-ブロモ-2,4,5-トリフルオロベンゼンから2,4,5-トリフルオロ安息香酸を製造する方法に準じて3位にメトキシ基が配置されている化合物を用いることにより、化合物Uを合成することを予測するのは容易であると主張するので、検討する。
ア 甲第9号証刊行物は、本件優先日の9か月足らず前である昭和60年4月24日に公開されたものである。9か月足らず前に公開特許公報に記載されたことを根拠に、それが技術常識であるということはできない。そして、公知文献であっても、技術常識ではないものを根拠として、化合物Uが基礎明細書に記載されているに等しいということはできない。原告の主張は、前提において失当である。
イ また、甲第9号証によれば、甲第9号証刊行物には、ベンゼン環の3位が水素である化学物質に係る反応経路が記載されているものの、化合物Uのように同3位にメトキシ基が置換している化学物質は記載されていないことが認められる。そして、水素とメトキシ基が、それ自身の反応性、他の置換基の反応性に対する影響等において同じであると認めるに足りる証拠はないから、当業者が、3位が水素であろうがメトキシ基であろうが反応は同じであり、したがって甲第9号証刊行物に記載されているものは、事実上化合物Uの製造方法でもある、などと認識するものとは認められない。のみならず、水素とメトキシ基が置換した物質において、物性値が変化しないとか、変化する数値が予測できるとかということを認めるに足りる証拠もないから、当業者は、甲第9号証刊行物から、そこに記載された方法で、化合物Uに至る物質が作成でき、物性値も確認ないし予測することができると認識したとも認めることができない。したがって、甲第9号証刊行物を根拠として、化合物Uが、基礎明細書に記載されているに等しいということはできない。
(4) 以上のとおり、化合物Uが、基礎明細書に記載されているということはできない。そうである以上、基礎明細書には、化合物Uを出発物質とする化合物Tは、その製造方法が記載されていないというべきである。しかも、基礎明細書には、化合物Tの物性等、これが現実に製造されたことを示す根拠も記載されていないのであるから、化合物Tは実際に確認できるものではない。したがって、化合物Tが基礎明細書に記載されていると認めることはできないのである。
4 念のため、化合物Uから化合物Tを合成することについても検討する。
(1) 原告は、基礎明細書には、合成経路1が記載されており、当業者であれば、これによって化合物Tの合成は容易であったと主張する。
しかし、基礎明細書には、合成経路1について、各工程の反応溶媒、反応温度、化合物の使用量等の反応条件も、合成経路1の(ロ)ないし(チ)の化合物の物性値も記載されていないのであるから、これら(ロ)ないし(チ)の化合物が実際に確認できるものであるということはできない。当業者は、合成経路1によって化合物Tを得ようとすると、反応溶媒、反応温度、化合物の使用量等の反応条件も不明、
各化合物の物性値が不明であるために、その合成が成功したか否か慎重な確認を要する反応工程を、6ないし7段階続けなければならないことになる。そのような合成経路1をもって、基礎明細書に、合成経路1の第6ないし第7段階の位置にある、化合物(ト)及び(チ)(化合物T)が記載されているということができないことは明らかである。
(2) また、原告は、この合成方法に準ずる方法が、例えば甲第9号証刊行物の2頁に反応経路図として既に開示されていたから、仮に、合成経路1を見なかったとしても、当業者は、化合物Tの構成が合成が可能であったと主張する。
しかし、甲第9号証によれば、甲第9号証刊行物には、ベンゼン環の3位ないしキノロン環の8位が水素である化学物質に係る反応経路が記載されているものの、合成経路1の各化合物のように同3位ないし8位にメトキシ基が置換している化学物質は記載されていないことが認められる。そうである以上、甲第9号証刊行物を根拠として、化合物Tが、基礎明細書に記載されているに等しいということはできないことは、3(3)イと同様である。
(3) 以上のとおりであるから、この点においても、基礎明細書には、化合物Tが記載されていないものというべきである。
5 原告は、基礎明細書に、化合物Tの物性の記載がないことを認めながら、@化合物Tの構造式から予測できる物性値と得られた化合物を測定した物性値とを対比することによって、目的物の確認をすることが可能である、A基礎明細書が公開された時点においては、その公開公報には具体的な合成方法や物性が記載されていたのであるから、発明の追試者が実質的に不利益を被るということはないと主張する。
しかし、@については、原告は、原告が構造式から予測していた物性値がどのようなものであったか自体を明らかにしないうえ、何故にその「予測される物性値」が現実の物性値と必ず一致するというのかが全く不明であり(一致しない場合があり得るというのなら、得られた化合物の物性値との対比による確認ができないことになり、結局、確認はできないことになる。)、Aは、本件優先日から出願の公開までに原告が知った合成方法や物性によって、原告が机上の化学構造を作出した時点である本件優先日を出願日とする特許が得られると主張するに等しいものであって、いずれも失当であることは明らかである。
また、原告は、原告が本件発明の要旨事項と称する、化合物Tの製造中間体としての有用性が、基礎明細書に、化学式及び反応経路図で記載されていると主張する。
しかし、単に化学構造式や製造方法を示しただけでは、明細書に化合物が記載されているとすることができないことは、前示のとおりである。原告の主張は、
採用することができない。
6 以上のとおりであるから、原告主張の決定取消事由は理由がなく、その他決定にはこれを取り消すべき瑕疵は見当たらない。
結論
よって、原告の本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する。
裁判長裁判官 山下和明
裁判官 山田知司
裁判官 阿部正幸