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関連審決 審判1995-14416
関連ワード 反復(反復可能性) /  容易に実施 /  寄せ集め /  周知技術 /  公知技術 /  試行錯誤 /  技術常識 /  発明の詳細な説明 /  優先権 /  置き換え /  実施 /  拒絶査定 /  請求の範囲 / 
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事件 平成 10年 (行ケ) 28号 審決取消請求事件
原告 パイオニアハイブレッド インターナ ショナル インコーポレイテッド
訴訟代理人弁理士 山本秀策
被告 特許庁長官及川耕造
指定代理人 佐伯裕子
同 田中倫子
同 森田 ひとみ
同 大橋良三
裁判所 東京高等裁判所
判決言渡日 2001/05/17
権利種別 特許権
訴訟類型 行政訴訟
主文 1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
当事者の求めた裁判
1 原告 特許庁が平成7年審判第14416号事件について平成9年8月29日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告 主文1,2項と同旨
当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯 原告は,1990年6月12日にアメリカ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張して,発明の名称を「外部から誘導し得るプロモーター配列を用いた小胞子形成の制御」とする発明(以下「本願発明」という。)について平成3年6月12日に特許出願(平成3年特許願第140379号)をしたところ,平成7年4月3日を送達日とする拒絶査定を受けたので,拒絶査定不服の審判を請求した。特許庁は,この請求を平成7年審判第14416号事件として審理した結果,平成9年8月29日に「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,同年10月2日,その謄本を原告に送達した。なお,出訴期間として90日が付加された。
2 特許請求の範囲 (1) 請求項1(以下,この発明を「本願第1発明」といい,各工程を,その符号により「工程a)」のようにいう。) 植物に,外部から制御し得る遺伝性の雄性不稔を提供する方法であって,以下のa,b,c,d,およびeの工程を包含する方法: a)該植物の小胞子形成が依存する遺伝子産物をコードする遺伝子を選択する工程; b)該選択された遺伝子をクローニングする工程; c)外部の制御に応答する誘導可能なプロモーターを有する発現配列に該クローン化した遺伝子をつなぐ工程; d)該クローン化した遺伝子の遺伝子産物をコードする遺伝子を,該植物の本来の核ゲノムから取り除く工程; および e)該植物の核ゲノムに発現配列を挿入する工程。
(2) 請求項2 外部から制御し得る遺伝性の雄性不稔を有する植物を再生産する方法であって, 該雄性不稔が,小胞子形成が依存する遺伝子産物をコードする遺伝子を,同じ遺伝子産物をコードするが,外部の制御に応答する誘導可能なプロモーターを有する発現配列に連結された遺伝子に置き換えた結果生じ, 該方法が以下のa,b,c,およびdの工程を包含する,方法: a)成長する雄性不稔植物を提供するために該植物の種子を植える工程; b)該ブロモーターを誘導する条件下で該植物を育てることによって,小胞子形成が依存している遺伝子産物を生産する遺伝子を発現させ,該成長する植物が雄性稔性へ変換するのを誘導する工程; c)種子を生産するために,隔離したところで該成長する植物を自然受粉させる工程; および d)種子を収穫する工程。
(3) 請求項3 雑種種子を製造する方法であって,以下のa,b,c,およびdの工程を包含する方法: a)選択した雄性稔性の雄の親の系からの第1種子と,選択した雄性不稔の雌の親の系からの第2種子とを他家受粉できるように並列に植える工程,ここで該雄性不稔は,小胞子形成が依存している遺伝子産物をコードする遺伝子を,同じ遺伝子産物をコードし,外部の制御に応答する誘導可能なプロモーターを有する発現配列に連結された遺伝子に置き換えた結果生じる: b)該遺伝子の発現を誘導しない条件下で,該種子を成熟植物に成長させる工程; c)雄性不稔の植物体を雄性稔性の植物体からの花粉で他家受粉させる工程;および d)該雄性不稔の雌の植物体から雑種の種子を収穫する工程。
3 審決の理由 別紙審決書の理由の写しのとおり,本願明細書には,本願第1発明について,当業者が容易に実施することができる程度に記載されておらず,本願第1発明自体が,本願明細書に実質的に記載されていたとすることもできないから,特許法36条4項,又は5項及び6項(平成6年法律第116号による改正前のもの)に規定する要件を満たしておらず,特許を受けることができない,と認定判断した。
原告主張の審決取消事由の要点
審決の理由T,Uは認める。同V(1)及び(2)(工程a)について)(イ)は認める。同V(2)(ロ)(トランスポゾン標識法)は,「トランスポゾン標識法は未知有用遺伝子の分離同定のためには最も有望視される方法の一つであるとはいえ,目的遺伝子の配座がトランスポゾンの標的となる頻度は一般的には10-5から10-6までの範囲である」(6頁17行〜7頁3行)こと及び「トウモロコシでは変異遺伝子のコレクションとして雄性不稔(ms)遺伝子が知られていることが明細書中に記載されている」(7頁9行〜11行)ことを認め,その余は争う。同V(2)(ハ)(その他の選択するための手法)は,「明細書中の【0030】には,トランスポゾン標識法以外の雄性稔性遺伝子選択法として,花粉の発達の時にのみ存在するmRNAを分離してそのcDNAを構築してプローブとして用い,ゲノムライブラリーから花粉の発達に必要な遺伝子を同定することができる旨が記載されている」(8頁19行〜9頁5行)こと,「本出願前にこの手法を用いて得られる具体的な雄性稔性遺伝子に関する記載はな(い)」(9頁7行〜8行)ことを認め,その余は争う。同V(2)(ニ)は争う。同V(3)(工程b)について)は,「『選択された遺伝子をクローニングする』とは,次の工程c)で誘導可能なプロモーターを有する発現配列に直接繋ぐことができるような,雄性稔性遺伝子自体を取得することを表現するものであり,本件発明の目的からみて,雄性稔性遺伝子本来のプロモーターが働いては困るので,雄性稔性遺伝子の本来のプロモーターの活性を有する部分は除去されている必要がある」(10頁9行〜16行)こと及び「本出願前には,植物遺伝子のプロモーターについて,その位置もプロモーター活性を呈するための必須の配列も明らかであったとはいえず,また,雄性稔性遺伝子の発現産物が得られていない」(10頁17行〜11頁3行)ことを認め,その余は争う。同V(4)(工程c)について)は,「工程c)を実施するためには,『外部の制御に応答する誘導可能なプロモーター(以下,誘導プロモーターという。)』を取得することが必要であるが,当該誘導プロモーターとしては,本件発明の目的からみて,誘導物質を添加することなどにより,雄性稔性遺伝子を発現させ,植物体に雄性稔性を取戻すことができるものでなくてはならないことは明らかである」(12頁9行〜16行)こと,本願明細書に「トウモロコシのグルタチオン-S-トランスフェラーゼ(GST)システムを利用することができ,GST反応性遺伝子からプロモーターを取出すことができること,及びN,N-ジアリル-2-2-ジクロロアセトアミドなどGST-誘導性化合物を用いればGSTプロモーターを誘導できることは記載されている」(13頁1行〜7行)こと,「しかしながら,そもそもGSTは発芽前除草剤に対する解毒作用が知られている除草剤耐性に直接関連した酵素であることからみて,GST反応性遺伝子のプロモーターに雄蘂細胞特異性があるとは考えられないから,たとえGST反応性遺伝子からプロモーターを取出すことができ,雄性稔性遺伝子に結合できたとしても,該プロモーターが雄蘂細胞中で選択的に働くことはない」(13頁8行〜15行)こと,及び,「GSTプロモーター以外の誘導プロモーターについては,どのような遺伝子のプロモーター領域が誘導プロモーターとなる可能性があるか,また,どのように取得できるかに関する一般的な記載すらない」(14頁10行〜14行)ことを認め,その余は争う。同V(5)(工程d)について)は,「この工程に関し,明細書中には,目的とする遺伝子を植物核ゲノムからいかなる手法で取除くことができるのかについての一般的な記載もない」(15頁2行〜3行)こと,及び,原告が「平成7年8月2日付意見書において,工程d)として「相同的組換え」法を用いることができる旨主張している」(15頁8行〜10行)こと(ただし,原告が上記主張をしたのは,平成6年12月13日付け意見書(甲第4号証の1)においてである。)を認め,その余は争う。同V(6)(工程e)について)は,「本件明細書中には,植物のゲノム中に発現配列を挿入する手法としてエレクトロポーレーション,ポリエチレングリコール処理,微小発射体による注入法(パーティクルガン法)について記載されている」(17頁2行〜6行)こと,及び,「これらDNA導入法を適用できる植物として,トウモロコシについては,明細書の【0026】にこれら各技術を用いてトウモロコシ中に外来DNAを導入する方法が文献を挙げて記載されており,双子葉植物についても多数の成功例が知られていたとはいえる」(17頁15行〜18頁1行)ことを認め,その余は争う。同V(7)は争う。同Wは争う。
工程a)ないしe)に用いられる各技術は,いずれも,当業者にとって,周知の事項であり,したがって,あえてその具体的な実施態様を本願明細書に記載するまでもなく,容易に実施可能である。また,本願第1発明は,発明の詳細な説明に記載されている。審決は,これらのことを看過するという誤りを犯し,これらの誤りがあいまって審決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,違法として取り消されるべきである。
1 工程a)について 審決は,本願明細書には,「トランスポゾン標識法を用いた植物の雄性稔性遺伝子を選択する工程が当業者にとって容易に実施できる程度に記載されているとはいえない」(8頁14行〜17行)と認定したが,誤りである。
(1) トランスポゾン標識法について ア トウモロコシの雄性稔性遺伝子は,トランスポゾン標識法を用いて単離できた。これに用いられたトランスポゾン因子は,本願優先権主張日当時において既に公知であったAc(アクチベーター)又はMutater(ミューテーター)である。
また,1989(平成元)年当時には,トランスポゾン標識法を用いて遺伝子を単離する技術が確立されていた。
トウモロコシに用いられるトランスポゾン因子は,所望の遺伝子に対して特異性を有しておらず,これによる変異頻度は,10-4〜10-3である。
これらのことは,Aの宣誓書(以下「甲第7号証宣誓書」という。)に示されている。
イ 雄性稔性遺伝子の単離方法において用いられるトランスポゾン標識法は,本願優先権主張日当時,当業者に周知であった。
Maydica34(1989):73-88(以下「甲第8号証刊行物」という。)には,12個のトウモロコシ遺伝子が,トウモロコシ単独におけるトランスポゾン標識法によりクローン化されたこと,これらのうちのいくつかは,一つより多いトランスポゾンによってクローニングされていること,これらの因子のどれも,特定の遺伝子のクラスへの挿入のために用いられるわけではなく,ある因子システムが,目的の遺伝子への挿入のために別の因子システムよりもより良好に用いられるというわけではないことが記載されている。同号証刊行物に示されるようなトランスポゾンの標的となる前記頻度は,過度の実験を必要とするような値ではなく,目的を達するに十分な10万個体のトウモロコシ植物は,5エーカー(2ヘクタール)未満の土地で容易に生育させることができる。この程度の規模でトランスポゾン因子により標識された植物をスクリーニングすることは,本願発明に係る技術分野では慣用的な過程の一部である。
また,米国特許第4732856号明細書(以下「甲第9号証刊行物」という。)には,トウモロコシにおいて,トランスポゾン標識を用いて,植物由来の遺伝子を単離できたことが記載されている。
ウ トウモロコシ以外の植物からの雄性稔性遺伝子の単離は,トランスポゾン標識法で取得できたトウモロコシ遺伝子とのハイブリダイゼーションで実施可能である。
すなわち,本願優先権主張日当時,当業者は,種々の植物の遺伝子間において,その遺伝子が類似の機能を有していれば,高い相同性があることを予期することができた。実際にも,Bの1997年2月18日付け宣誓書(以下「甲第10号証宣誓書」という。)に記載されているとおり,高い相同性が確認されている。
(2) 審決は「本件の明細書中には,植物の雄性稔性遺伝子を選択するためのトランスポゾン標識法以外の手法に関しても,当業者にとって容易に実施できる程度に記載されているとはいえない」(10頁1行〜10頁4行)と認定したが,誤りである。
本願明細書【0030】には,花粉の発達に必要な遺伝子を同定するために,花粉の発達のときにのみ存在するmRNAを分離することが記載されている。
雄性稔性遺伝子のmRNAは,花粉形成の特定の時期に顕著に発現する。
Aが1995年に作成したグラフ(以下「甲第11号証グラフ」という。)により,花粉の発達の間に独特に存在するmRNAを入手することが,雄性稔性遺伝子の単離に関する別の方法であると結論付けられる。このような技術は,本願発明に係る技術分野では一般的である。
2 工程b)について (1) 審決は,「たとえ工程a)で雄性稔性遺伝子を含むフラグメントを選択できたとしても,本願明細書の記載からでは当業者が容易に雄性稔性遺伝子をクローンニングすることも,本来のプロモーターを除去することもできないから,本件明細書は,当業者が工程b)を容易に実施できるように記載されていない」(12頁1行〜7行)と認定したが,誤りである。
工程a)で雄性稔性遺伝子が選択できれば,その遺伝子を選択するために用いられたトランスポゾン因子を,転移因子が存在する遺伝子のクローニングに用い得ることが,本願明細書【0025】に記載されている。このようなトランスポゾン因子をプローブとして用いて,目的遺伝子をクローニングすることは,本願優先権主張日当時における分子生物学的手法を用いることにより実施可能であった。
(2) 審決の認定した「『選択された遺伝子をクローニングする』とは,次の工程c)で誘導可能なプロモーターを有する発現配列に直接繋ぐことができるような,雄性稔性遺伝子自体を取得することを表現するものであり,本件発明の目的からみて,雄性稔性遺伝子本来のプロモーターが働いては困るので,雄性稔性遺伝子の本来のプロモーターの活性を有する部分は除去されている必要がある」(10頁9行〜16行)ことは,そのとおりである。しかし,審決の「本件発明の目的を達成するために,・・・少なくとも雄性稔性遺伝子本来のプロモーター部分は確実に除去され,かつ雄性稔性遺伝子は無傷で残っていなくてはならない」(11頁12行〜17行)という認定は,誤りである。
工程b)において,雄性稔性遺伝子は,プロモーターを完全に除去する必要はなく,もとのプロモーターの活性を有する部分が除去できればよい。そして,このようなプロモーターの活性を有する部分を除去することは,本願優先権主張日当時,当業者に慣用的に実施されたことである。
本願優先権主張日当時,与えられた任意の遺伝子についてどこから転写が開始するかを正確に知ることは可能であった。TATAボックスの後のATGコドンが非常に明確な指標となるからである。プロモーター領域の決定は,「プロモーターバッシング(promoter bashing)」と通常呼ばれる実験に従う方法により,適切な遺伝子発現にとって重要な制御領域を正確に決定することができる。
このようにして,遺伝子発現を生じさせないために,プロモーターのどのセグメントを除去すべきかを決定できるのである。
3 工程c)について 本願明細書には,本願第1発明の実施に用い得るプロモーターシステムの一例として,グルタチオン-S-トランスフェラーゼ(GST)の適用により誘導されるGSTプロモーターが記載されている。GSTプロモーターは,審決が認定するとおり,雄蘂細胞に特異的ではない。しかし,化学薬品などの適用により誘導される雄性稔性遺伝子の発現は,雄蕊細胞に特異的である必要はない。毒性遺伝子の発現ではないため,植物全体におけるその発現は植物に悪影響を及ぼさないからである。
この誘導可能なプロモーターに,プロモーター活性を欠失させた雄性稔性遺伝子を連結することで,工程c)は達成され,このような遺伝子操作は,本願優先権主張日当時周知となっていた技術により行われ得るのである。
4 工程d)について 植物ゲノムから目的の遺伝子を取り出す一つの方法は,いったんクローニングされ再操作された雄性稔性遺伝子の劣性変異を発見することである。
工程d)において用いられ得る一般的な手法として「相同組換え」法がある。「The EMBO Journal vol.7 no.13:4021-4026」 (1988年発行)(以下「甲第15号証刊行物」という。)には,相同組換えによる外来DNAの組み込みが,宿主染色体において活性な遺伝子の形成を生じさせたことが記載されており,このことから,1990年当時に,植物において相同組換えの技術が確立していたことが証明される。
5 工程e)について 審決は,エレクトロポーレーション,ポリエチレングリコール処理,微小発射体による注入法について,「いずれの手法を用いてもその染色体の位置を特定することはできない」(17頁6行〜7行)として,「できるだけ多くの個体を取扱ってその中から選抜するという過度な実験的負担を強いるものである。」(17頁12行〜14行)と認定判断したが,誤りである。
染色体上の発現配列の挿入位置を決定することは,全く必要でない。なぜなら,クローニングした雄性稔性遺伝子を改変して(すなわち,誘導可能なプロモーターを本来のプロモーターを欠失させた雄性稔性遺伝子に連結させて),雄性不稔植物に戻し導入することにより,目的とする雄性不稔変異体が完成されるからである。
本願出願人により改変された雄性稔性遺伝子がゲノムのどの部位に組み込まれたかは分からないが,非常に高い割合で雄性稔性が得られているのである。
被告の反論の要点
1 本件優先権主張日(1990年6月12日)当時は,遺伝子組換え技術を利用して有用物質を生産する技術がようやく実用化してきた時期である。すなわち,インシュリンなどのように従来から広く医薬品として用いられていた有用なタンパク質をコードする遺伝子を,ヒトの染色体DNAや,ヒト細胞が産生するmRNAを用いたライブラリー等からクローニングし,大腸菌,哺乳動物細胞などの宿主細胞を形質転換して大量に産生させるという有用物質の大量生産技術は,本件優先権主張日前でもかなり成熟してきていた技術であるとはいうことができる。しかしながら,遺伝子組換え技術のうちで最も進んだ上記技術においてすら,机上の理論が裏切られることが多いというのが現実であって,遺伝子組換え技術は,典型的な「やってみなければわからない」分野といわざるを得ない技術なのである。
そのうえ,本願第1発明は,上記有用物質の生産という単純な遺伝子操作ではなく,生命体としての植物自身の生殖行為に関わる生命活動そのものの操作を目的とする技術であるから,人為的に管理することは更に困難であり,細胞レベルでの有用物質の大量生産技術よりも「やってみなければわからない」度合いが一層大きい技術であるということができる。
そうであるから,植物育種分野の雄性稔性関連技術においては,たとい,理論上は公知技術寄せ集めれば容易にできると推測され,各々の工程を一般的方法として記載することができる場合であっても,各々の一般的方法についてすら,実際の実験例がなければ,果たしてそれが適用できるものか否かは,「やってみなければわからない」ものとならざるを得ないのである。したがって,本願第1発明において発明の詳細な説明の欄に「当業者が容易に実施できるように記載されている」といえるためには,少なくとも一つの実施例が必要であることは明白である。
ところが,本願明細書の発明の詳細な説明の欄には,工程a)ないしe)の全工程により「外部から制御し得る遺伝性の雄性不稔を有する植物」を作成する実施例がないにとどまらず,その個々の工程についての実施例すら全くないから,本願第1発明を当業者が容易に実施できる程度に記載されているといえないことは,その点だけからでも明らかである。
2 工程a)について (1) トランスポゾン標識法について ア 本願優先権主張日前には,「トランスポゾン標識法」を用いて分子クローニングをする手法自身は周知となっていたとはいえても,「トランスポゾン標識法」を用いて植物ゲノムの雄性稔性遺伝子を選択した例は全く知られていない。したがって,植物ゲノムの雄性稔性遺伝子を「トランスポゾン標識法」を用いて選択することが技術常識であったというわけではない。
「現代化学増刊20 植物バイオテクノロジーU」(株式会社東京化学同人1991年9月20日発行,以下「乙第1号証刊行物」という。)の238頁の図25・2の説明文に「高等植物のゲノムは大きくかつ反復配列も多いので,図のように,遺伝形質が容易に現れうる遺伝子から遺伝子へとトランスポゾンが転移することは,実際にはきわめて低頻度でしか起こらない。」と記載されているとおり,「トランスポゾン標識法」は,本願優先権主張日前において,当業者がその技術を適用しさえすればほぼ確実に雄性稔性遺伝子が取得できるといえるほどに確立していた技術ではない。
なお,本願明細書には,トウモロコシで変異遺伝子のコレクションとして雄性不稔(ms)遺伝子が知られていると記載されているが,これは,単に染色体上の遺伝子座での変異と,雄性不稔となる雄蕊細胞などの細胞レベルでの変異との間の関連性が知られていただけのことである。したがって,このことをもって,次のb)工程以下に続く各工程で用いることができるトウモロコシの「雄性稔性遺伝子」が開示されているとしてよいことになるものではない。
イ 原告は,トウモロコシ以外の植物からの雄性稔性遺伝子の単離は,トランスポゾン標識法で取得できたトウモロコシ遺伝子とのハイブリダイゼーションで実施可能であると主張する。
しかし,前述のとおり,本願優先権主張日前には,トウモロコシ自体,ms遺伝子すら単離されていたわけではなく,まして,それについての塩基配列の情報は全くない状態にあったから,トウモロコシに関して知られていたことは,トウモロコシ以外の植物の雄性稔性遺伝子を当業者が容易に選択するための助けにはならない。
前述の乙第1号証刊行物では,異種植物に対するトランスポゾン標識法については,希望的予測が感想として述べられているのみである。
(2) トランスポゾン標識法以外の雄性稔性遺伝子選択法について 甲第11号証のグラフは,本願優先権主張日後のものであって,雄性稔性遺伝子が単離された後の1995年7月に,これらの単離された遺伝子を用い,それぞれの遺伝子につき花粉形成のどの時期にmRNA量が増えているかを絵画的に示しているにすぎないものである。したがって,この結果をもって,本願優先権主張日前に,当業者が,雄蕊細胞中のmRNA量を調べさえすれば花粉の発達の特定の時期のみで蓄積するmRNAを容易に見出し得たということはできない。
3 工程b)について (1) 原告は,本願優先権主張日当時,与えられた任意の遺伝子についてどこから転写が開始するかを正確に知ることは可能であったと主張する。しかし,既に単離されて塩基配列が知られている遺伝子であれば,その転写開始位置及びその周辺配列を推定することは可能であるといえるとしても,本願優先権主張日当時,雄性稔性遺伝子は,単離もされておらず,塩基配列情報も知られていなかったのであるから,当業者が本願明細書の記載から雄性稔性遺伝子の転写開始位置を知ることができたとすることはできない。
(2) 原告は,工程b)に適用できる周知技術として,「プロモーターバッシング法」と名付けた技術があたかも本願優先権主張日前に確立していたかのように主張し,甲第12ないし第14号証を提出する。しかし,これらのうちで本願優先権主張日前の文献は甲第12号証の「DEVELOPMENTAL GENETICS 10:112-122」だけである。そして,同証は,任意の遺伝子のプロモーターに適用できる「プロモーターバッシング」法についての総説ではないばかりか,むしろ,既に単離されて全配列どころか転写開始部位も,TATAボックス位置も知られている大豆由来の特定プロモーター領域であった場合についてさえ,その配列中の活性部分を特定するためには試行錯誤的に様々な位置の配列部分を欠失させた変異体を作成し,それぞれの変異体の活性を調べる必要があったことを間接的に示している。
したがって,単離もされておらず,塩基配列の情報もない雄性稔性遺伝子のプロモーター活性部分は,その位置すら容易に確定できず,到底簡単に除去できるものではなかったのである。
4 工程c)について 原告は,工程c)はGSTプロモーターにより達成される旨が本願明細書に記載されているという。確かに,本願明細書には,工程c)の達成のためにGSTシステムを利用することができる可能性は記載されている。ところが,本願優先権主張日当時,GST遺伝子は単離されていたとしても,「GSTプロモーター」自身が単離されていたわけではなく,ましてGSTプロモーターが他の構造遺伝子に結合されて植物に導入され,誘導物質に反応して物質を生産することが確認できたわけではないから,それが実際に有効な「誘導プロモーター」として用いることができるものであるか否かすら不明であった。
しかも,雄性稔性を誘導する場合は,少なくとも雄蕊細胞において花粉を形成できる程度の有効量が発現してくれなくてはならないから,より有効なプロモーターであることが要求され,実験的な確認は必須である。選択したプロモーターの発現力の強弱が,非常に重要であることは当業界において広く知られるところである。そして,GST遺伝子は,原理的には優れているが,植物に導入してもうまく発現せずに良い除草剤無毒化効果が得られていないことが,乙第1号証刊行物に記載されている。このことからみても,実際には,むしろGSTプロモーターが優れた誘導プロモーターである可能性は低いものということができる。
そして,GSTプロモーターが単離されていないのと並んで,もとのプロモーター活性を欠失させた雄性稔性遺伝子も単離されていないから,当業者は追試をすることもできない。
このようなとき,本願明細書の記載を,工程c)を当業者が容易に実施できる程度になされたものとすることは,できないというしかないのである。
5 工程d)について 本願優先権主張日当時,甲第15号証刊行物により,相同組換え法の一つの成功例が知られていたからといって,これを根拠に,相同組換え法を,植物核ゲノム中への遺伝子挿入法としてそのころ既に十分確立した技術であったとすることは,およそ許されることではない。本願出願後の刊行物である乙1号証刊行物において,甲第15号証刊行物をも引用しつつ,なおかつ「植物では,・・・相同組換えを利用したターゲッティングの技法の開発はなかなか難しそうである。」(248頁右欄下から10行〜6行)」,「相同組換え機構を積極的に活用した形質転換系は近い将来に開発されるかも知れない。」(249頁左欄下から12行〜10行)」と結論されていることからも分かるとおり,相同組換え法は,単に将来用いられる可能性のある技術として認識されていたにすぎない。
本願明細書には,相同組換え法を用いること自体,開示がない。
しかも,「相同組換え」法は,染色体上のターゲットとなる遺伝子の両端部分を相同性領域として使用するために,それらと共通な配列を作成する必要があるから,少なくとも上記両端部分の配列を含む遺伝子が取得されているか,もしくは配列が決定されているかして,初めて適用できる技術である。したがって,雄性稔性遺伝子もその本来のプロモーターも取得されておらず,かつそれらについての塩基配列に関する情報が何もないのに,「相同組換え」法を適用しようとすること自体に,そもそも無理があるのである。
6 工程e)について 特に単子葉植物については,本願優先権主張日前に,形質転換植物の成功例が「多数」存在したわけではなく,わずかな成功例が知られている程度であった。
このような形質転換技術を,単子葉植物までも含めた全植物における慣用の技術ということはできない。
しかも,本願第1発明では,植物が本来有しているプロモーターが活性を保持した雄性稔性遺伝子が雄蕊細胞中に存在していてはいけないから,誘導プロモーターに連結した雄性稔性遺伝子を導入するためにどのような導入手段を選ぶとしても,本来のプロモーターを有した雄性稔性遺伝子自身若しくは本来のプロモーター活性を除去する工程は,プロトプラストなどで操作すると考えられる。そうすると,このプロトプラストを植物体として再生する工程が必要であるのに,本願優先権主張日前には,プロトプラストの植物体への再生は限られた植物でしか成功していない。まして,そのように操作したプロトプラスト中にさらに新たな形質を導入する場合,若しくは再分化した植物に他の形質転換法を適用する場合に,果たして所望の組織中で適切に発現させることができるか否かは,やってみなくては到底分からないものであるから,当業者が追試することができるというためには,実際に成功した手順が具体的に記載された実施例が少なくとも一つ必要であることは明白である。ところが,本願明細書には,実施例が全く記載されていないから,工程e)は,当業者が容易に実施できる程度に記載されていないという以外にないのである。
当裁判所の判断
1 甲第2号証(本願明細書)によれば,本願明細書の発明の詳細な説明の欄には,本願第1発明についての実施例が全く記載されていないことが認められる。そうである以上,発明の詳細な説明の欄に,当業者が容易に本願第1発明の実施をすることができる程度に同発明の構成が記載されているというためには,本願優先権主張日当時,その各工程のいずれについても,それが周知技術であって,あえて実施例の一段階となるべき具体的な実施態様を記載するまでもなく,当業者が容易に実施することが可能である状態が生まれていたことを要するものというべきである。
ところが,まず,本願優先権主張日当時,本願発明に係る技術分野である遺伝子組換え技術において,特定の生物の特定の遺伝子について成功した技術が,そのまま当然にその生物の他のあらゆる遺伝子,あるいは,あらゆる他の生物の遺伝子に当然に適用できるという技術常識が存在したとは,本件全証拠によっても認めることができない。かえって,乙第1号証によれば,同号証刊行物(株式会社東京化学同人1991年9月20日発行の「現代化学増刊20 植物バイオテクノロジーU」)には,例えば,以下の各記載のように,同定や形質転換に成功した例は,どの手法についてどの生物のどの遺伝子ないし形質についての例であるのかを特定して記載されていることが認められる。
「Tiプラスミドの発見以来,少なくとも双子葉植物にあっては,多くの有用なトランスジェニック植物の作製に成功した。そしてエレクトロポレーションなどの新しい技法の開発によって,従来難しいといわれていた単子葉植物への外来遺伝子の導入も可能になりつつある。・・・単子葉植物での研究は,これからがいよいよ展開期という段階であろう。」(233頁右欄下から13行〜5行),「数多くの遺伝子群により支配されている形質を,植物育種の対象とすることは現在でもなお依然として困難」(234頁左欄下から6行〜4行),「高等植物のゲノムは大きくかつ反復配列も多いので,・・・遺伝形質が容易に表われうる遺伝子から遺伝子へとトランスポゾンが転移することは,実際には極めて低頻度でしか起こらない。」(238頁の図25・2の説明文),「今までに分離された有用遺伝子の大部分は,・・・生理・生化学的なアプローチによって単離されている。・・・このような状況は,植物遺伝子ばかりでなく,動物遺伝子でも同様であり,実際はむしろ,動物遺伝子の分離のために開発された手法を植物遺伝子の分離にも応用しているのが実情である。」(239頁左欄12行〜29行),「以上に述べてきた種々の手法を組合わせて,未知有用遺伝子の分離同定が現在最も盛んに試みられているのは,・・・有用植物としてはトマトのようである。・・・いずれにせよ,未知有用遺伝子の同定と分離は,今まで研究者達の創意と工夫と協力にゆだねられてきたし,今後もゆだねられるであろう。」(242頁右欄下から12行〜末行),「Tiプラスミドを利用した遺伝子導入・・・タバコなどの双子葉植物に対する外来遺伝子の導入法としては,すでに日常的な技法として確立されている」(245頁左欄2行〜9行),「Tiプラスミド法が将来単子葉植物へも応用可能かどうかは,非常に重要な問題であり,その線に沿った研究がいくつか報告され始めている。最初に単子葉植物へのアグロバクテリウムの感染が報告されたのはChlorophytum caperse・・・スイセン・・・アスパラガス・・トウモロコシ・・・グラジオラス・・・イネ・・・。しかしこれらの実験は,すべてまだ単発的な結果であり,あとに同様な実験結果が続いて報告されている状態ではないので,将来ベクターとして実際に利用できるかどうか,現段階では不明である。」(247頁右欄下から22行〜8行),「外来遺伝子の植物染色体への導入は,・・・その挿入される染色体上の位置を特定することができない。・・・外来遺伝子の発現パターンとレベルは,一つ一つで異なる結果となり,目的にかなう有用な植物が得られるか否かは運任せとなる。そのため,できるだけ多くの個体を取扱って,その中から有用な物を選抜しなければならないから,時間も労力もかかることになる。」(248頁右欄9行〜18行),「特に,植物における除草剤の無毒化の反応過程が,まだ分子レベルではほとんどわかっていないこともあって,トウモロコシから分離されたグルタチオン-S-トランスフェラーゼ遺伝子(アトラジンを無毒化する)を導入した例などがあるが,良い結果は得られていない。」(254頁左欄18行〜24行) 上記認定の各記載によれば,本願優先権主張日当時において,遺伝子組換え技術においては,特定の範囲の生物については日常的な技法となっている技術であってもそれを他の生物に適用し得るか否かが不明であったり,机上の理論が裏切られたりすることが多く,特定の生物の特定の遺伝子ないし形質について単発的に成功した技術が,そのまま当然にその生物の他の遺伝子ないし形質,あるいは,他の生物の遺伝子ないし形質に当然に適用できるというものではなく,適用できるか否かは時間と労力をかけて試みてみなければ分からないことであって,それが成功するか否かは具体的な手法にもよるものであると認識されていたこと,単子葉植物についての遺伝子組換え技術の応用は,高等真核生物の中でも難しいものとされ,動物よりも双子葉植物よりも遅れていたこと,複雑な機構によって発生する形質を対象とする遺伝子組換え技術の応用は,困難であるとされていたことが認められる。
そうである以上,単子葉植物を含む植物の生命体としての生殖行為に関わる生命活動という複雑な機構を持つ活動の操作を目的とする遺伝子組換え技術である本願第1発明については,本願明細書の発明の詳細な説明の欄に,各工程につき,抽象的な手法が記載されていたとしても,それをもって直ちに当業者が容易にその実施をすることができる程度に発明が記載されているということはできないものというべきである。なぜなら,各工程につき,具体的な手法としてではなく,抽象的な手法として成功の可能性がある方法が存在するとしても,現実の成功例が知られていない以上,当業者は,成功するか否かも分からない工程について,本願明細書に具体的な手法が開示されないままの状態で試行錯誤を繰り返さなければならないことになり,このようなとき,本願明細書に特許権という独占権を与えるに値する開示がなされているとすることは,明らかに不合理であるというべきであるからである。
以下,このことを前提に検討する。
2 工程a)について (1) トランスポゾン標識法について ア 本件全証拠によっても,本願優先権主張日前にトランスポゾン標識法を用いて植物ゲノムの雄性稔性遺伝子を選択することが周知技術であったと認めることはできない。かえって,弁論の全趣旨によれば,本願優先権主張日前には,トランスポゾン標識法を用いて植物ゲノムの雄性稔性遺伝子を選択した例は,知られていなかったことが認められる。
イ 原告は,平成元年当時には,トランスポゾン標識法を用いて遺伝子を単離することが確立されていたと主張する。
甲第7号証によれば,同号証宣誓書には,トランスポゾン標識による分子クローニングが,1987年以来「公知」であり,トウモロコシ由来の12の遺伝子がクローニングされていたことを示す記載があることが認められる。しかし,前記1認定の事実に照らせば,上記記載によっても,雄性稔性遺伝子を含めた遺伝子一般について,トランスポゾン標識法を用いて単離する方法が確立していたということはできない。まして,それが技術常識であったということは,到底,できない。他に,これが技術常識であったと認めるに足りる証拠はない。
ウ 原告は,トウモロコシに用いられるトランスポゾン因子は,所望の遺伝子に対して特異性を有しておらず,それによる変異頻度は,10-4〜10-3であると主張する。しかし,トウモロコシに用いられるいかなるトランスポゾン因子も,所望の遺伝子に対して,機能や特性が同じであるとか,それによる変異頻度は,10-4〜10-3であるとか,ということを認めるに足りる証拠はない。かえって,甲第8号証,乙第1号証及び弁論の全趣旨によれば,高等植物のゲノムは大きく,かつ反復配列も多いので,遺伝形質が容易に現れ得る遺伝子から遺伝子へとトランスポゾンが転移することは,実際には極めて低頻度でしか起こらないこと,及び,本願優先権主張日当時知られていたトランスポゾン因子は,その機能,性質が同じではなく,どのような植物において働くか,どのような機構でどの程度機能するかが異なるため,どのトランスポゾン因子を選択し,どのように用いるのかによって,成功頻度が異なるものであること,が認められる。そうである以上,仮に,特定のトランスポゾン因子を,特定の方法で用いた場合には,これによる変異頻度が10-4〜10-3であったとしても,本願明細書には,どのトランスポゾン因子をどのように用いるのかが全く記載されていないのであるから,そのことをもって,トランスポゾン標識法を用いて植物ゲノムの雄性稔性遺伝子を選択することが技術常識であったということはできない。
エ 原告は,@トウモロコシの雄性稔性遺伝子は,トランスポゾン標識法を用いて単離でき,Aこれに用いられたトランスポゾン因子は,本願出願当時既に公知であったと主張し,甲第7号証によれば同号証宣誓書には,これに沿う記載があることが認められる。しかし,本件全証拠によっても,トウモロコシの雄性稔性遺伝子をトランスポゾン標識法を用いて単離することに成功したのが,本願優先権主張日より前であったとも,これが何年にもわたる試行錯誤なしにされたものとも,認めることができない。また,結果的に本願優先権主張日より前に知られていたトランスポゾン因子を用いたとしても,本願明細書にどのトランスポゾン因子をどのように用いるのかが記載されていない以上,当業者は,やはり過重な試行錯誤をしなければならず,これが技術常識であったとすることはできない。
オ また,乙第1号証及び弁論の全趣旨によれば,本願優先権主張日当時,内在性の転移因子が発見されていない植物においては,トランスポゾン標識法を用いて未知有用遺伝子が分離同定された例は1例もなかったこと,トウモロコシのms遺伝子は単離されておらず,塩基配列の情報は知られていなかったこと,異種植物に対するトランスポゾン標識法については,本願優先権主張日後の刊行物においてさえ,「これらの異種植物で,トランスポゾンにより未知有用遺伝子が分離同定された例はまだない。・・・異種植物の有用遺伝子が,これらのトランスポゾンを用いたタッギングにより単離される日も近いと思われる。」(乙第1号証刊行物242頁右欄下から21行〜13行)という希望的予測がされている程度であったことが認められ,上記事実によれば,トウモロコシ以外の,内在性の転移因子が発見されていない植物については,当業者が工程a)を実施することは,一層困難であったことが認められる。
この点に関して,原告は,トウモロコシ以外の植物の雄性稔性遺伝子はトウモロコシのms遺伝子と相同性が高く,トウモロコシ以外の雄性稔性遺伝子をトウモロコシに用いられるトランスポゾン遺伝子を用いて取得することが実施可能であったと主張する。甲第10号証によれば,同号証宣誓書には,トウモロコシ以外の植物の雄性稔性遺伝子はトウモロコシのms遺伝子と相同性が高い旨の記載があることが認められるけれども,同証は1997年に作成されたものであって,同証記載の事実が,本願優先権主張日当時,技術常識であったと認めることはできず,他にも,これを認めるに足りる証拠はない。かえって,本願優先権主張日当時,トウモロコシのms遺伝子は単離されておらず,その塩基配列の情報も知られていなかったという前認定の事実によれば,その時点では,これと他の植物の雄性稔性遺伝子との相同性が高いことは技術常識ではなかったものと認められる。
(2) トランスポゾン標識法以外の手法について ア 本願明細書(甲第2号証)には,トランスポゾン標識法以外の雄性稔性遺伝子選択法として,「花粉の発達に必要な遺伝子を同定することもできる。その際,花粉の発達の時にのみ存在するmRNAを分離し,そして対応する遺伝子のゲノムライブラリーのプローブとして用い得るcDNAを構築する」(【0030】)との記載がある。
しかし,本件全証拠によっても,上記手法が,本願優先権主張日当時,雄性稔性遺伝子を同定するための技術常識であったと認めることはできない。
ところが,本願明細書には,雄性稔性遺伝子につき,花粉の発達時にのみmRNAが存在するとして,その産生量がどの程度であるのか,花粉の発達時にのみ存在するmRNAがすべて雄性稔性遺伝子に対応するものであるのか,どのようにして目的とする雄性稔性遺伝子に対応するmRNAであるかを確認し,分離するのかについての記載も,上記手法を用いて得られた具体的な雄性稔性遺伝子に関する記載もない。そうである以上,本願優先権主張日当時,当業者が,上記手法によって,容易に工程a)を実施できたものと認めることはできない。
イ 甲第11号証によれば,同号証グラフ(A作成)には,雄性稔性遺伝子につき,それぞれの遺伝子において花粉形成のどの時期でmRNA量が増えるかを絵画的に示した記載があるけれども,同証は,原告の主張によっても,1995年7月に作成されたものであって,本願優先権主張日当時,これが技術常識であったと認めることはできない。のみならず,上記記載は,数値的データすら示されていないものでもある。したがって,同証をもって,前記認定に反する証左とすることはできない。
ウ 甲第72号証(C作成の1999年10月25日付け鑑定書)には,「小胞子形成期に含量が上昇しているmRNAを元にした選択」が常法であった旨の記載がある。しかし,同鑑定書において挙げられているのは,特定の種の特定の遺伝子を取得するのに成功したという例にすぎず,このことから,直ちにそれが「小胞子形成期に含量が上昇しているmRNAを元にした選択」一般においても確立した方法であったということはできないから,同証をもって,前記認定に反する証左とすることはできない。
3 工程c)について (1) 本件全証拠によっても,本願優先権主張日当時,工程c)が周知技術であったと認めることはできない。
(2) 本願明細書(甲第2号証)には,トウモロコシのGSTシステムを利用することができ,GST反応性遺伝子からプロモーターを取り出すことができること(【0032】),及びN,N-ジアリル-2-2-ジクロロアセトアミドなどのようなGST-誘導性化合物を用いればGSTプロモーターを誘導できること(【0033】)が記載されている。しかし,本件全証拠によっても,本願優先権主張日当時の技術水準において,「GSTプロモーター」を,外部から制御し得る雄性稔性を誘導可能なプロモーターとすることが容易であったと認めることはできない。
甲第7号証によれば,同号証宣誓書には,「外部制御に応答する誘導可能プロモーターによる植物全体における雄性稔性遺伝子の発現が,植物に悪影響を及ぼさないことを実証しました。私は,化学薬品の適用により誘導可能なプロモーターを雄性稔性遺伝子MS45に連結した実験において,このことを確認しました。」(6項)との記載があることが認められる。しかし,上記記載は,「化学薬品の適用により誘導可能なプロモーター」がGSTプロモーターであることも,そのプロモーターによって植物の雄性稔性が誘導されたことも述べていないから(雄性稔性遺伝子が発現しても,直ちに花粉が形成されるとは限らない。),同号証宣誓書を,「GSTプロモーター」を,外部から制御し得る雄性稔性を誘導可能なプロモーターとすることが容易であったことの証左とすることはできない。
(3) 甲第28号証(D1999年4月15日作成の宣誓書)によれば,同宣誓書には,「別の実験において,誘導可能なプロモーターを作製しました。このプロモーターを,エクジソンレセプターリガンド結合ドメインであるGal4結合ドメインおよびVP16アクチベーターに連結しました。このプロモーターを,決定的な雄性稔性遺伝子であるMS45遺伝子に連結しました。・・・エクジソンアゴニストに曝露したとき,雄性稔性が回復しました。」との記載があることが認められるものの,同号証によれば,これは,1999年ころの実験であること,及び,この実験に用いられたエクジソンアゴニストは特定のものであるにもかかわらず,同宣誓書作成者は,その具体的な名称を明らかにしないこともまた認めることができる。したがって,同号証から,本願優先権主張日当時,同宣誓書に記載された実験を他の当業者が容易になし得たと認めることはできない(具体的なエクジソンアゴニストの名称すら明らかにしない以上,現時点においても,上記実験の追試すらできない。)。そして,本件全証拠によっても,本願優先権主張日当時,「エクジソンレセプターリガンド結合ドメインであるGal4結合ドメインおよびVP16アクチベーター」というものと上記特定の「エクジソンアゴニスト」からなる誘導システムを誘導プロモーターに用いることが技術常識であったと認めることはできない。また,本願明細書に,そのような誘導システムを用いることの開示があるとも認められない。
したがって,同号証宣誓書を,本願優先権主張日当時,当業者が工程c)を容易に実施することができたことの証左とすることはできない。
(4) 他にも,本願優先権主張日当時,当業者が工程c)を容易に実施することができたと認めるに足りる証拠はない。
4 工程d)について (1) 本件全証拠によっても,本願優先権主張日当時,工程d)が周知技術であったと認めることはできない。
(2) 原告は,工程d)において用いられ得る一般的な手法として「相同組換え」法があり,甲第15号証刊行物に,相同組換えによる外来DNAの組み込みが,宿主染色体において活性な遺伝子の形成を生じたことが記載されているから,1990年当時には,植物において相同組換えの技術が確立していたと主張する。
しかし,本件全証拠によっても,本願優先権主張日当時,植物について,相同組換え法によって,特定の「遺伝子を,該植物の本来の核ゲノムから取り除く」ことに成功した例があったことすら認めることができず,まして,それが技術常識であったことを認めることは,到底できない。かえって,乙第1号証によれば,同号証刊行物には,「植物では,非相同組換えによって外来遺伝子が高頻度に染色体に組込まれることが報告されているので,相同組換えを利用したターゲッティングの技法の開発はなかなか難しそうである。しかしまったく希望がないわけではない。」(248頁右欄下から10行〜5行)として,甲第15号証刊行物の相同組換えによる外来DNAの組み込みの例を挙げたうえ,「相同組換え機構を積極的に活用した形質転換系は近い将来に開発されるかも知れない。」(249頁左欄下から12行〜10行)との記載があることが認められ,この記載によれば,本願優先権主張日の後である1991年ころにおいても,植物に対する相同組換え法は,困難であるけれども希望がないわけではないという程度のものであったことが認められる。
(3) また,乙第1号証及び弁論の全趣旨によれば,相同組換え法を利用するには,遺伝子が取得されるか,又は塩基配列情報が知られるかしただけでなく,染色体上におけるその遺伝子の周辺領域の配列情報も知られていることが必要であることが認められる。ところが,本件全証拠によっても,本願優先権主張日当時,これらのいずれもが取得されたり,知られたりしていたことを認めることはできない。
そうである以上,工程d)について,相同組換え法を適用することが技術常識であったといえないことは,この点からも明らかというべきである。
(4) 甲第74号証(Eの1999年11月18日付けの鑑定書)には,工程d)について,遺伝子を破壊して小胞子形成遺伝子の機能を喪失させればいいから,小胞子形成遺伝子を物理的に除去することは必要不可欠ではない旨の記載がある。しかし,工程d)についての特許請求の範囲の記載は,「該クローン化した遺伝子の遺伝子産物をコードする遺伝子を,該植物の本来の核ゲノムから取り除く工程」というものであるから,小胞子形成遺伝子を本来の核ゲノムから「取り除く」ことが必要不可欠であることは明らかである。したがって,甲第74号証をもって,本願優先権主張日当時,当業者が工程d)を容易に実施することができたことの証左とすることはできない。
(5) 他に,本願優先権主張日当時,当業者が工程d)を容易に実施することができたと認めるに足りる証拠はない。
5 以上のとおり,本願明細書の発明の詳細な説明には,少なくとも,工程a),c),d)について,当業者が容易にその実施をすることができる程度に,本願第1発明が記載されているということができない。そして,同発明が特許法36条4項に規定する要件を満たすためには,a)ないしd)の各工程のいずれについても,本願明細書の発明の詳細な説明に,当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されている必要があることは,論ずるまでもないところである。
また,特許法36条4項に規定する要件を満たさない発明は,同条5項,6項の要件を満たすか否かにかかわらず,特許を受けることができないことは,これまた当然である。
そうである以上,原告主張の審決取消事由は,結局のところ理由がないことが,その余について判断するまでもなく明らかである。その他審決にはこれを取り消すべき瑕疵は見当たらない。
よって,本訴請求を棄却することとし,訴訟費用の負担並びに上告及び上告
受理の申立てのための付加期間の付与について行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条,96条2項を適用して,主文のとおり判決する。
裁判長裁判官 山下和明
裁判官 宍戸充
裁判官 山田知司