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関連審決 不服2000-4346
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審判番号(事件番号) データベース 権利
平成17行ケ10459審決取消請求参加事件 判例 特許
平成17行ケ10458特許取消決定取消請求参加事件 判例 特許
平成16ワ14321特許権譲渡代金請求事件 判例 特許
平成17行ケ10312審決取消請求事件 判例 特許
平成16ワ8682損害賠償請求事件 判例 特許
関連ワード 進歩性(29条2項) /  容易に発明 /  技術常識 /  化学構造 /  優先権 /  優先日 /  製造承認 /  容易に想到(容易想到性) /  拒絶査定 /  請求の範囲 /  拡張 / 
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事件 平成 15年 (行ケ) 62号 審決取消請求事件
原告 アベンテイス・フアルマ・ソシエテ・アノニム
訴訟代理人弁理士 小田島平吉
同 深浦秀夫
同 江角洋治
同 藤井幸喜
被告 特許庁長官今井康夫
指定代理人 竹林則幸
同 渕野留香
同 一色由美子
同 伊藤三男
裁判所 東京高等裁判所
判決言渡日 2004/06/09
権利種別 特許権
訴訟類型 行政訴訟
主文 原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
請求
特許庁が不服2000-4346号事件について平成14年9月30日にし た審決を取り消す。
当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯 原告は,名称を「光学的に活性な5H-ピロロ[3,4-b]ピラジン誘導体,それの製造およびそれを含有している薬学的組成物」とする発明につき,平成4年1月16日に特許出願(優先権主張平成3年1月17日〔以下「本件優先日」という。〕・フランス共和国)をしたが,平成12年1月11日,拒絶査定を受けたので,同年3月29日,これに対する不服の審判の請求をした。特許庁は,同請求を不服2000-4346号事件として審理し,平成14年9月30日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は,同年10月23日,原告に送達された。
2 本件特許出願の願書に添付した明細書(平成12年3月29日付け手続補正書により補正されたもの。以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の【請求項1】に記載された発明(以下「本願発明」という。)の要旨 6-(5-クロロ-2-ピリジル)-5-[(4-メチル-1-ピペラジニル)カルボニルオキシ]-7-オキソ-6,7-ジヒドロ-5H-ピロロ[3,4-b]ピラジンの右旋性異性体,またはそれの薬学的に許容可能な塩類を1種以上の薬学的に許容可能な希釈剤または佐薬と組み合わせて含有していることを特徴とする睡眠性質または時間を改善するための薬学的組成物。
(以下,上記「6-(5-クロロ-2-ピリジル)-5-〔(4-メチル-1-ピペラジニル)カルボニルオキシ〕-7-オキソ-6,7-ジヒドロ-5H-ピロロ[3,4-b]ピラジン」を「ゾピクロン」という。) 3 審決の理由 審決は,別添審決謄本写し記載のとおり,本願発明は,「THE MERCK INDEX (eleventh edition)」(1989)のモノグラフ番号10095(甲4,以下「引用例1」という。)に記載された発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものであるから,特許法29条2項の規定により特許を受けることができないとした。
原告主張の審決取消事由
審決は,本願発明の顕著な作用効果を看過して本願発明の進歩性について誤った判断をしたものであり(取消事由),その誤りは審決の結論に影響を及ぼすものであるから,違法として取り消されるべきである。
1 審決は,本願発明と引用例1記載の発明とは「『ゾピクロンを含有する睡眠性質または時間を改善するための医薬』である点で一致し,本願発明では,ゾピクロンが右旋性異性体であるのに対して,引用例1に記載された発明ではラセミ体である点で相違している」(審決謄本3頁第3段落)とした上,相違点について,「催眠剤として良く知られるラセミ体のゾピクロンについて,より薬理作用が強いいずれか一方の光学異性体を含有したものとすることは,当業者が容易に想到することに過ぎず,その結果,右旋性の光学異性体(D-ゾピクロン)がより薬理作用に優れたものであることを見出し,それを含有する医薬とすることは,上記技術常識を有する当業者にとって格別困難であるとは認められない。審判請求人(注,原告)は,審判請求書において,『本願発明はD-ゾピクロンがそのラセミ体やL-ゾピクロンと比べて従来全く知られていなかった特異な性質が見出されたことに基づく優れた効果を有する』旨を主張するが,その見出された性質とは『D-ゾピクロンはラセミ体より低い毒性を有していながらラセミ体の約2倍程度活性であるのみならず,L-ゾピクロンはほとんど不活性であり且つラセミ体より毒性が大きいということ』であり,上記した光学異性体の薬理作用についての一般的な知識ないし技術常識を有する当業者にとって,予想できない程の顕著な効果であるとはいえない。」(同4頁第3,第4段落)として,本願発明の進歩性を否定したが,以下に述べるとおり,本願発明が当業者の予測しない顕著な作用効果を奏することを看過したものであり,誤りである。
2 本願発明は,ゾピクロンの右旋性異性体(以下「d-ゾピクロン」ともいう。)が人間において催眠剤として特に有用であるとの知見に基づき,ゾピクロンの右旋性異性体を睡眠性質又は時間を改善するために薬学的組成物として選定したものである。本件優先日前には,ゾピクロンの右旋性異性体や左旋性異性体の毒性及び催眠活性については全く知られていなかった。また,ゾピクロンは,毒性についても,「一般的な知識ないし技術常識」に沿うものではない。本願発明の薬学的組成物が奏する作用効果は,到底「一般的な知識ないし技術常識」から予測できるものでない。
(1) 本願発明は,ゾピクロンの右旋性異性体を有効成分として使用することに特徴を有する発明である。
本願発明に使用するゾピクロンの右旋性異性体は,本件明細書(甲2)に,「ゾピクロンの場合には,右旋性異性体はラセミ体のものより低い毒性を有していながらラセミ体の約2倍ほど活性であるだけでなく,左旋性異性体はほとんど不活性であり且つラセミ体より毒性が大きいということが,驚くべきことにしかも予期せぬことに見いだされた」(2頁左下欄第1段落),「ゾピクロンの右旋性異性体は例えば催眠鎮静剤,精神安定剤,筋肉弛緩剤および抗痙攣剤として有用である。しかしながら,ゾピクロンの右旋性異性体は人間において催眠剤として特に有用である」(同頁右下欄下から第3,第2段落)と記載されているように,特異の薬効を有している。また,本件明細書に,「例えば,ハツカネズミに経口的に投与する時には,ゾピクロンは850mg/kgの領域の毒性(LD50 )を有しているが,右旋性異性体は1.5g/kgの領域の毒性を有しておりそして左旋性異性体は300-900mg/kgの間のLD50 を有している」(2頁左下欄第2段落)と記載されているとおり,本願発明の薬学的組成物において有効成分として使用するゾピクロンの右旋性異性体は,ラセミ体のほぼ半分の毒性を示すにすぎない。
本願発明の属する技術分野では,「ラセミ体性生成物では,しばしば2種のエナンチオマー類のうちの一方が活性でありそして毒性の促進がこの活性と関連している可能性もあり,他方のエナンチオマーはそれよりあまりに活性ではないかまたは不活性であり且つ毒性が少ないということが知られている」(本件明細書〔甲2〕2頁右上欄最終段落)から,本願発明の有効成分であるゾピクロンの右旋性異性体のように,催眠活性が大で,しかも毒性が極めて低いものは,この分野の通常の予測をはるかに超えたものといえる。
(2) これに対し,引用例1に記載されたゾピクロンは,互いに光学的対掌体(エナンチオマー)の関係にある左旋性と右旋性の光学異性体の等モル混合物であるラセミ体であり,光学異性体に関する記載はない(審決謄本3頁第2段落)。したがって,ゾピクロンのラセミ体とその光学異性体が,それぞれ上記(1)の特有の毒性作用を有することは,引用例1には記載も示唆もされていない。
(3) 審決は,一般のラセミ体における各光学異性体の活性ないし作用について,「光学異性体の一方が有益な薬理活性を示し,他方が好ましくない作用を示す場合があることも,よく知られていることである」(審決謄本3頁第5段落)と説示する。しかし,審決が上記説示に関して引用した東京高裁平成12年(行ケ)第295号事件,平成14年7月18日判決(甲5,以下「別件判決」という。)には,α-リポ酸について,「ラセミ体のLD50 が160〜275mg/kgであるのに対し,本願発明(注,消炎剤又は細胞保護剤並びにその製法)のそれは100mg/kgより上というものであり,本願発明のR体の急性毒性がラセミ体のそれよりも低いなどとは到底いえず,むしろ,逆にラセミ体に比べて急性毒性が高いことが明らかである」(9頁第3段落)と説示されているように,活性の高いR体のα-リポ酸がラセミ体よりも急性毒性が高いことが明らかにされている。このような事例は,本件明細書(甲2)に,「ラセミ体性生成物では,しばしば2種のエナンチオマー類のうちの一方が活性でありそして毒性の促進がこの活性と関連している」(2頁右上欄第5段落)と記載されるような,活性の高いエナンチオマーは毒性も大であるという知見に該当する。しかも,このような事例は多数知られており(たとえば,Nico P. E.Vermeulen らの「Stereoselective Biotransformation」,Drug Stereochemistry,Marcel Dekken,Inc.,New York,1993,245〜249頁〔甲6〕,Williams,K.らの「Drug Enantiomers in Clinical Pharmacology」,Drugs,Vol.30,NO.4,1985,349〜354〔甲7〕,A.Buttinoniら「Journal of Pharmacy and Pharmacology」1983,35:603-604〔甲8〕,以下それぞれ「甲6文献」,「甲7文献」,「甲8文献」という。),本願発明に使用されるゾピクロンの右旋性異性体が,「ラセミ体のものより低い毒性を有しながらラセミ体の約2倍ほど活性である」こととは全く対照的である。
(4) ゾピクロンの薬理活性について,本件明細書には,上記(1)のとおり,右旋性異性体は,ラセミ体のものより低い毒性を有しながらラセミ体の約2倍ほど活性であり,しかも人間において催眠剤として特に有用であることが明示されている。
このことについては,原告が,審判請求書(甲10)において,表1として示した動物実験の試験結果(以下「表1試験」という。)に基づき説明したとおりであるが,表1試験について説明したA博士の1996年(平成8年)4月16日付け宣誓供述書(甲11,以下「甲11宣誓供述書」という。)によれば,以下のことが明らかである。
まず,甲11宣誓供述書の表T(注,表1試験の「中枢ベンゾジアゼピン受容体位置に関する親和力」の試験結果に対応)について,「d-異性体(注,d-ゾピクロン)は,ラセミ化合物について使用された濃度の1/2よりわずかに多い(「少ない」とあるのは誤記)濃度で,特異的な固定を阻害する。当該技術分野においては,ベンゾジアゼピン受容体に対する親和性が大きくなればなるほど,該化合物の麻酔薬又は抗痙攣薬としての効能が大きくなることは公知である」(訳文3〜4頁9.の項)と述べられており,このことから,ゾピクロンの右旋性異性体がラセミ体に比べ,見掛け上,約1.7倍の麻酔薬又は抗痙攣薬としての活性を示すことが分かる。
また,甲11宣誓供述書の表U(注,表1試験の「ペンテトラゾール誘発性痙攣(マウス)」の試験結果に対応)によると,ペンテトラゾール誘発痙攣に対してもd-ゾピクロンがラセミ体ゾピクロンに比べ,見掛け上,ほぼ2倍の活性を示すことが分かる。
さらに,甲11宣誓供述書の表X(注,表1試験の「立直り反射(マウス)」の試験結果に対応)に示されるAD50 値(ラセミ体ゾピクロンは900で不活性であるのに対し,d-ゾピクロンは100と300の間であることを示すもの)について,「この性質は,試験化合物の催眠活性を反映するものであるから重要である。実際,催眠応答は,当該技術分野において,マウスの『立ち直り反射』の喪失と定義されている」(訳文10頁4.の項)と述べられており,このことから,ゾピクロンの右旋性異性体がラセミ体に比べ,見掛け上,約3倍を超える催眠活性を示すことが分かる。
以上のように,特に,催眠作用について,ゾピクロンの右旋性異性体(d-ゾピクロン)がラセミ体ゾピクロンに比べ約3倍を超える活性を示すのに対し,麻酔薬又は抗痙攣薬としての効能はほぼ2倍までである。このことは,麻酔薬又は抗痙攣薬としての効能については,活性がラセミ体中の右旋性異性体のみに起因し,左旋性異性体が何らの活性も示さないとした場合の結果にほぼ相当する。すなわち,ラセミ体中の1/2を右旋性異性体が占めるから,すべてが右旋性異性体からなる場合は,ラセミ体の活性の2倍となる。
(5) ゾピクロンの右旋性異性体の催眠効果は,人間による臨床試験でも確認されている。すなわち,B博士の2003年(平成15年)9月22日付け宣誓供述書(甲12,以下「甲12宣誓供述書」という。)によれば,日本では,不眠症の治療のために,睡眠の前に1用量につき7.5〜10mgのゾピクロンを投与することが許されているが,エスゾピクロン(d-ゾピクロンの別名)について米国内で行われた第3相臨床試験では,エスゾピクロンは,1回2mg及び3mgの用量で不眠症の治療に有効であったとされている(甲12の訳文1頁最終段落〜2頁第2段落)。用量2mgを基準にすると,7.5mgが不眠症の治療のために投与されるゾピクロン(ラセミ体)に比べて,d-ゾピクロンは,催眠薬として3.75倍高い効能を有することになる。したがって,d-ゾピクロンは人間に対して使用する場合でも,通常予測される最大限を超えた効能を示すのである。
また,甲12宣誓供述書によれば,例えば,慢性不眠症の患者に対して6か月間毎夜,偽薬又は3mgのエスゾピクロンを投与すると,エスゾピクロンについては,睡眠の維持尺度,睡眠潜時,総睡眠時間及び睡眠の質において有意な改善が達成される(甲12の訳文2頁第3段落)とされている。
このように,ゾピクロンの右旋性異性体は,催眠作用について,ラセミ体の活性の2倍をはるかに超える活性を示すのであるから,審決がいうように,「一般に,ある化合物のラセミ体が薬理作用を示す場合,それを構成する光学異性体間で薬理作用が異なること,更には薬理作用が主として光学異性体の一方に起因している場合があることは広く知られ」(審決謄本3頁第5段落)という知見を本願発明に対して適用する余地は全くない。
3 以上のとおり,本願発明は引用例1記載の発明からは到底予測し得ない作用効果を奏するものである。
被告の反論
審決の認定判断に誤りはなく,原告主張の取消事由は理由がない。
1 原告は,「本願発明の有効成分であるゾピクロンの右旋性異性体のように催眠活性が大で,しかも毒性が極めて低いものは,この分野の当業者の通常の予測をはるかに超えたもの」と主張するが,審決が審決謄本3頁第5段落で指摘するとおり,光学異性体の一方が有益な薬理活性を示し,他方が好ましくない作用(副作用等)を示す場合があることは,本件優先日前から,よく知られていたことである。
したがって,光学異性体を有することが当業者に自明であるゾピクロンにおいて,一方の光学異性体の薬理活性が大で,しかも毒性も低いものであったとしても,そのことがこの分野の当業者の通常の予測をはるかに超えた効果であるということはできない。
2 しかも,本件優先日当時には,生体が光学異性体を識別する能力を有しており,光学異性体間で薬理活性が異なることから,医薬品として用いるときはラセミ体としてではなく,目的に合ったエナンチオマーのみを用いることが好ましいとの考えが一般的となっており,また,光学異性体のもう一方が副作用を示す場合があるとの技術常識から,医薬において薬理活性が弱い(又はない)他方の光学異性体を不純物とみなすという考えが提唱され,光学異性体を有する医薬の承認において,光学異性体の双方の薬理活性・副作用についての知見の提出が求められ,医薬品としてより優れた方の光学異性体に純品化した医薬の割合が増加しつつある状況であった。すなわち,本件優先日当時には,光学異性体間で薬理活性が異なるとの技術常識があり,医薬品として用いるときはラセミ体としてではなく,目的に合ったエナンチオマーのみを用いることが好ましいとの考えが一般的であったのである。本願発明は,薬理効果がより優れた方の光学異性体に純品化した医薬の割合が増加しつつあり,さらには,従来ラセミ体として使われていた医薬品を光学活性体として上市する,いわゆるラセミスイッチが行われるようになってきていたという状況で出願された。
このような点を踏まえると,従来から「睡眠の性質又は時間を改善する」作用を有する医薬として使用され,右旋性及び左旋性の2種の光学異性体の存在が明らかであるゾピクロンについて,それぞれの光学異性体を得て,その医薬としての有効性(薬理作用及び副作用)を確認すること,さらに,2種の光学異性体の中からより薬理作用が優れ,重大な副作用のない方の光学異性体を選択して医薬とすることは,当業者が極めて自然に想到することにすぎない。
ゾピクロンについては,光学異性体は,常法に従い容易に得ることができるのであり,得られた光学異性体の有効性(催眠活性)及び副作用について確認することに技術的な困難性も認められないから,より優れた光学異性体を医薬品として選択することは,技術的にも当業者が容易にし得たことである。 3 以上のとおり,催眠活性についての作用効果について詳細に検討するまでもなく,本件優先日当時の技術常識を踏まえれば,本願発明は,引用例1(甲4)記載の発明に基づいて,当業者が容易に発明することができたものであることが明らかである。
念のため,本願発明のゾピクロンの催眠活性の作用効果に関する原告の主張について反論しておくと,光学異性体の薬理活性がラセミ体の2倍を超える場合があることも本件優先日前からよく知られていることであるから,原告主張の効果が当業者の予期し得ない顕著な作用効果ということはできない。
当裁判所の判断
1 引用例1(甲4)に,「ゾピクロン.・・・;6-(5-クロロピリド-2-イル)-5-(4-メチルピペラジン-1-イル)カルボニルオキシ-7-オキソ-6,7-ジヒドロ-5H-ピロロ[3,4-b]ピラジン;・・・睡眠不調の臨床的研究:・・・.実験及び臨床薬理学,睡眠の実験室レベルの研究及び依存性誘起能調査を含む臨床試験:・・・不眠症における薬物動態力学,薬理学及び有効性についての一連の論文・・・・. 化学構造式(省略) ・・・・・ 治療カテゴリー:鎮痛剤;催眠剤」(訳文1〜2頁)として,ゾピクロンについて,睡眠不調,不眠症の治療剤又は睡眠剤としての医薬用途に関する記載があり,その医薬としての用途が本願発明の「睡眠性質又は時間を改善する薬学的組成物」と同じものであること,また,引用例1に記載されたものがラセミ体のゾピクロンであり,本願発明と引用例1に記載された発明とが,「『ゾピクロンを含有する睡眠性質または時間を改善するための医薬』である点で一致し,本願発明では,ゾピクロンが右旋性異性体であるのに対して,引用例1に記載された発明ではラセミ体である点で相違している」(審決謄本3頁第3段落)ことは,当事者間に争いがない。
2 進んで,原告主張の取消事由(本願発明の進歩性の判断の誤り)について検討すると,原告は,上記相違点について,審決が「一般に,ある化合物のラセミ体が薬理作用を示す場合,それを構成する光学異性体間で薬理作用が異なること,更には薬理作用が主として光学異性体の一方に起因している場合があることは広く知られており,・・・ラセミ体であることが明らかな医薬有効成分について,・・・より薬理作用の強い方の光学異性体を医薬として採用しようとすることは,本件優先権主張日当時,技術常識であったということができる」(同3頁第5段落)とした上,「催眠剤として良く知られるラセミ体のゾピクロンについて,より薬理作用が強いいずれか一方の光学異性体を含有したものとすることは,当業者が容易に想到することに過ぎず,その結果,右旋性の光学異性体(D-ゾピクロン)がより薬理作用に優れたものであることを見出し,それを含有する医薬とすることは,上記技術常識を有する当業者にとって格別困難であるとは認められない」(審決謄本4頁第3段落)と判断して,本願発明の進歩性を否定したことに対し,ゾピクロンの右旋性異性体(d-ゾピクロン)は,本件優先日前に,その毒性や催眠活性については知られておらず,毒性についても,一般的な知識ないし技術常識に沿うものではないから,審決が「広く知られており」とする上記知見を本願発明に対して適用する余地はないと主張し,また,本願発明の顕著な作用効果は,当業者の予測を超えたものであるとも主張する。
3 そこで,まず,医薬用途に用いられる化学物質の光学異性体及びその生理活性等に関して,本件優先日当時にどのような技術的知見が存在したかを検討する。
(1) 平成元年10月10日学会出版センター発行,日本化学会編「季刊化学総説No.6,1989 光学異性体の分離」(乙1,以下「乙1文献」という。)には,「対掌体の一方が有効な生物活性を示す場合,もう一方の異性体が単にまったく活性を示さないだけでなく,有効な対掌体に対して競合阻害(competitive inhibition)をもたらす結果,ラセミ体の生物活性が有効な対掌体に比べ1/2以下に激減してしまう場合があることは,医薬品の開発研究でしばしば体験するところである。・・・したがって,光学的に純粋な対掌体をいかにして入手(合成または分割)するかは,医薬品のみならず生物活性物質を対象とする研究において,不斉中心をもつ化合物を扱う場合,避けて通ることのできない重要課題である」(2頁),「動物は,L-アミノ酸より成るタンパク質から構成されており,生体内の代謝に関与する酵素もタンパク質である。酵素の基質特異性に基質の光学特異性が大きく寄与するのは,酵素側に存在する不斉性を考えれば容易に『当然のこと』と受けとめることができる。生体内で起る複雑でありながら選択性の高い反応は,酵素による『不斉を含む三次元の分子認識』によるものと考えられる。生理(薬理)活性をもつ物質が生体に摂取され吸収されると,その物質に特異的な親和性をもつ受容体(receptor)との結合により生理活性が発現することになるので,基質が不斉中心をもっていれば,その(S)体と(R)体とでは生理活性に相違が生ずるのはこれまた自然であろう。医薬品の多くは生体にとって異物(xenobiotics)であり,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである。したがって,医薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった。換言すれば,このようなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである」(16頁),「医薬品はヒトや動物の病気の治療に用いられる化学物質であるが,その作用は薬物が生体内の特定の受容体(レセプター)に結合して活性を発現するものと考えられている。したがって,薬理活性の発現には医薬品と受容体の双方の立体構造が重要な役割を演じ,不斉をもつ薬物ではその鏡像体によって受容体との結合のしやすさに差があり,これにより薬理活性の強さに差を生じることになる。場合によっては,まったく異なった薬理作用を示すこともある。さらに薬物が受容体に到達するまでに各種の酵素によって分解されて活性を失ったり,逆により活性の強い形に変換される場合もあり,その分解あるいは変換の速さが鏡像体によって大きく異なることがしばしば認められていて,これも薬理活性の差となって現れる。また,分解物が毒性をもつ場合には,鏡像体によって異なった副作用を示すこととなる。このように,医薬品の立体化学は薬効だけでなく,吸収,分布,代謝,排泄,さらに副作用まで,その薬理作用にきわめて大きな役割を果している。治療の目的に適した特定の薬理作用のみをもつ医薬品が強く求められる傾向にあり,今後ますます,目標とする受容体のみに作用する特定の化学構造と立体構造をもつ医薬品開発の重要性が増加するものと考えられる。・・・光学異性体間の薬効の差が小さいもの,活性体で投与しても体内でラセミ化されるもの,逆にラセミ体で投与しても体内で活性型の鏡像体に変換されるものなど,薬物代謝にはさまざまな経路があり,不斉をもつ医薬品はすべて光学活性体として使用すべきだとはいえない。現状では上述のような薬物代謝を充分に検討したうえで,ラセミ体で使用するか,光学活性体とするかが決定されている。最近では製造承認を得るために,ラセミ体の薬物については,それぞれの光学異性体の吸収,分布,代謝,排泄など薬物動態を検討した資料の提出が求められている」(212〜213頁),「イブプロフェン(12),ケトプロフェン(13)など,芳香族プロピオン酸系の化合物は抗炎症薬として広く使われている。この系統の化合物の大部分はラセミ体で使用されているが,薬理活性は(S)-(+)体にあることが知られている。たとえば,(S)-12はin vitroにおいて(R)-12の160倍のプロスタグランジン阻害作用をもつが,in vivoでの効力比は約1.4倍にすぎない。これは(R)体が生体内で活性な(S)体に変換されるためである。ナプロキセン(14)はその活性がすべて(S)-(+)体にあり,(R)-(-)体には副作用があるため,最初から光学活性体として開発された」(213〜214頁),との記載がある。
(2) 「月刊薬事」Vol.29, No.10,1987(乙2,以下「乙2文献」という。)には,「生体(酵素や受容体)はこれらの光学異性体を識別する能力を持っており,異性体にはまったく生理活性を持たないもの,弱い同類の生理活性を持つもの,拮抗的な生理活性を持つもの(アンタゴニスト)や別な生理活性を持つものがある。それゆえ,医薬品として用いるときにはラセミ体としてではなく,目的にあったエナンチオマーのみを用いることが好ましいと考えられるが,現状はほとんどがラセミ体として用いられている。・・・しかし,最近,医薬品としてラセミ体の開発・使用に関して問題が投げかけられてきた。その背景として,最近の薬物分析技術の進歩,とくに高速液体クロマトグラフィーにおけるキラルカラムの開発などにより,光学異性体の分離・定量の技術が進歩し,その結果,合成キラル医薬品の生体内動態,特に代謝に関して異性体間に著しい差があることが明らかになったことがあげられよう」(23頁左欄〜右欄),「1.光学異性体間で薬理作用を異にするもの Thalidomideの催奇形作用で見られたような,異性体間で薬効・毒性を異にするものの代表的なものにつき述べる。たとえば,DOPAではl-体はlevodopaとして抗パーキンソン病薬として用いられているが,d-体は薬理作用がなく,顆粒球減少作用を起こす。Barbituratesは(-)-体は鎮静作用を示すが,(+)-体はむしろ興奮作用を示す。Ketamineの(+)-体は強い麻酔作用を持つが,(-)-体は弱い麻酔作用と不安・興奮作用,心拍増加作用を持つ。Pentazocinは(-)-体はより強い鎮痛作用を持つが,(+)-体はむしろ強い不安誘起作用を持つ。Verapamilは(-)-体も(+)-体とほぼ同じ程度の冠血管拡張作用を持つが,その心筋収縮力抑制作用および心筋伝導抑制作用は(+)-体の方が少ないので,(+)-体の方が安全性の高い,より好ましい抗狭心薬と考えられている」(23頁右欄〜24頁左欄)との記載がある。
(3) 「ファルマシア」Vol.25,NO.4,1989(乙3,以下「乙3文献」という。)には,「1.異性体間で異なる薬理作用を示すもの 1)バルビタール系薬物 多くのバルビタール誘導体について(-)-体は睡眠作用を示すが,(+)-体は反対に興奮作用を持っている。ペントバルビタール(1)は(-)-体が(+)-体よりも強い睡眠作用を示し,(+)-体は中枢興奮作用(しゃっくりや不随意筋攣縮)を持っている。同様の作用が1-メチル-5-フェニル-5-プロピルバルビタール(2)でも報告されており,これら両異性体はγ-GABA様レセプターの抗ケイレンおよび興奮作用発現部位にそれぞれ親和性を持つため相反する作用が発現すると説明されている」(333頁右欄)との記載がある。
(4) 乙1文献ないし乙3文献の上記各記載を総合すると,本件優先日当時,化学物質の生物活性(薬理活性,副作用)とその立体構造には,様々な相関関係があることが知られており,光学異性体の存在する化学物質(化学物質の化学構造が知られている場合,その化学物質に光学異性体があるかどうかは当業者に自明である。)については,ラセミ体だけではなく,各異性体についても,目的とする薬理効果や副作用等について検討を行うことが普通に行われるようになっていたこと,また,光学異性体の存在する化学物質を医薬品として使用しようとする場合には,その検討結果に応じて,光ラセミ体を使用するか一方の光学異性体を使用するかを決定するようになっていたことが認められる。
4 ところで,ラセミ体のゾピクロンに催眠活性のあることは,上記1のとおり,本件優先日当時には公知となっており,現にラセミ体のゾピクロンが睡眠剤等に用いられていたものである。そうすると,上記3(4)で述べたような当業者の一般的知見ないし技術常識が存在する状況の下で,光学異性体の存在が自明であるゾピクロンについて,光学異性体のそれぞれにつき,催眠活性を検討すると同時に,毒性等の望ましくない生理活性についても検討し,より薬理作用に優れたものを医薬用途に用いようとすることは,ごく自然な発想であり,当業者が容易に想到することであったというべきである。そして,ゾピクロンの右旋性異性体が慣用のラセミ分割手段等により容易に入手し得ることは,原告も争っていないから,ゾピクロンの一方の光学異性体である右旋性異性体を入手し,その睡眠活性及び副作用を検討確認し,その優れた薬理作用を見いだすことに,格別の技術的困難があったとは認められない。
5 これに対し,原告は,ラセミ体の一方の光学異性体が活性であるとき,毒性もその活性に関連していることがしばしばあり,本願発明のように,一方の光学異性体の有益な活性(薬理活性)がラセミ体よりも強いのに毒性はラセミ体よりも小さいということは,当業者の予測を超えていると主張し,この主張を裏付けるために,審決が言及した別件判決(甲5)のα-リポ酸や,甲6文献〜甲8文献に示された事例を挙げる。しかし,乙1ないし乙3文献に記載されたところによれば,化学物質の望ましい生理活性と望ましくない生理活性とが,常に,一方の光学異性体に相伴って強く現れるというのは,当業者の一般的な認識であったとはいえず,むしろ,光学異性体を有する化学物質における生理活性の発現には,化学物質に応じて,多種多様な態様があるというのが技術常識であったと解される。したがって,原告の指摘する例は,生理活性の現れ方が各種化学物質によって種々多様である中で,一方の光学異性体について強い活性と毒性とが同時に現れる例があるということを示すにとどまり,「ある活性(睡眠活性)がラセミ体よりも強いにもかかわらず毒性がラセミ体より小さい」ことが当業者の予測の範囲外のことであるとの主張を裏付けるものとはいえない。
原告は,また,本願発明のように,光学異性体の一方(右旋性異性体)がラセミ体の2倍を超える活性を持つことは,当業者の予測の範囲を超えることであるとして,本願発明の格別顕著な作用効果を主張する。しかし,2倍という数値は,光学異性体の一方が活性で,他方が不活性(活性0)であると仮定した場合の数値であるところ,光学異性体を有する化学物質の生理活性の発現態様が様々であることは前示のとおりであり,乙2文献には,一方の光学異性体が他方の生理活性に対する拮抗作用をもつ場合があるとの指摘がされ(上記3(2)),また,乙1文献には,「一方の異性体が単にまったく活性を示さないだけでなく,有効な対掌体に対して競合阻害(competitive inhibition)をもたらす結果,ラセミ体の生物活性が有効な対掌体に比べ1/2以下に激減してしまう場合があることは,医薬品の研究開発でしばしば体験するところである」(上記3(1))として,一方の光学異性体の活性がラセミ体の2倍を超える場合があり得ることが示されている。これらの知見に照らすとき,原告が本願発明について主張するゾピクロンの右旋性異性体がラセミ体の2倍を超える程度の睡眠活性を有するという効果は,光学異性体間の薬理活性の違いの一つとして認識される範囲内のものというべきであり,当業者の予測を超える顕著な作用効果ということはできない。 6 したがって,本願発明のゾピクロンの右旋性異性体を有効成分とする「睡眠性質または時間を改善するための薬学的組成物」は,睡眠剤としてのラセミ体のゾピクロンに関する引用例1記載の発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものというべきであり,これと同旨の審決の判断に誤りはない。
以上のとおり,原告主張の取消事由は,理由がなく,他に審決を取り消すべき瑕疵は見当たらない。
よって原告の請求は理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。
裁判長裁判官 篠原勝美
裁判官 古城春実
裁判官 岡本岳