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事件 |
平成
25年
(行ケ)
10140号
有機LED用燐光性ドーパントとしての式L2MXの錯体
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裁判所のデータが存在しません。 | |
裁判所 | 知的財産高等裁判所 |
判決言渡日 | 2015/03/26 |
権利種別 | 特許権 |
訴訟類型 | 行政訴訟 |
判例全文 | |
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判例全文
平成27年3月26日判決言渡 同日原本受領 裁判所書記官 平成25年(行ケ)第10140号 審決取消請求事件 口頭弁論終結日 平成27年3月5日 判 決 原 告 株式会社半導体エネルギー研究所 訴訟代理人弁護士 高 橋 元 弘 同 渡 邊 肇 訴訟代理人弁理士 加 茂 裕 邦 同 吉 本 智 史 被 告 ザ,トラスティーズ オブ プリンストン ユニバーシティ 被 告 ザ ユニバーシティ オブ サザン カリフォルニア 被告ら訴訟代理人弁護士 片 山 英 二 同 北 原 潤 一 同 岩 間 智 女 同 梶 並 彰 一 郎 被告ら訴訟代理人弁理士 小 林 純 子 1 同 黒 川 恵 主 文 1 原告の請求を棄却する。 2 訴訟費用は原告の負担とする。 事実及び理由 第1 請求 特許庁が無効2010−800084号事件について平成25年3月29日 にした審決を取り消す。 第2 事案の概要 1 特許庁における手続の経緯等 (1) 被告らは,平成12年11月29日,発明の名称を「有機LED用燐光 性ドーパントとしての式L2MXの錯体」とする特許出願(特願2001− 541304。パリ条約による優先権主張日:平成11年12月1日(米 国))をし,平成17年8月23日,その一部につき分割出願をし(特願2 005−241794),平成21年8月14日,設定の登録(特許第43 58168号)を受けた(請求項数7。甲40。以下,この特許を「本件特 許」という。。 ) (2) 原告は,平成22年4月28日,本件特許の全てである請求項1ないし 7に係る発明についての特許無効審判を請求し,特許庁は,これを無効20 10−800084号事件として審理を行い,被告らは,同年9月17日, 本件特許について訂正請求をした(乙5。以下「本件訂正」という。。 ) (3) 特許庁は,平成23年3月23日,「訂正を認める。特許第435816 8号の請求項1ないし7に係る発明についての特許を無効とする。」旨の審 決(以下「第一次審決」という。)をし,その謄本は,同月31日,被告ら に送達された。 (4) 被告らは,平成23年7月26日,知的財産高等裁判所に第一次審決の 2 取消しを求める訴訟を提起したところ(平成23年(行ケ)第10235 号),同裁判所は,平成24年11月7日,第一次審決を取り消す旨の判決 を言い渡し,同判決は同月21日に確定した。 (5) そこで,特許庁は,無効2010−800084号事件について更に審 理を行い,平成25年3月29日,「訂正を認める。本件審判の請求は,成 り立たない。」との審決(以下「本件審決」という。)をし,その謄本は,同 年4月15日,原告に送達された。 (6) 原告は,平成25年5月14日,本件審決の取消しを求める本件訴訟を 提起した。 2 特許請求の範囲の記載 本件訂正後の特許請求の範囲の記載は,次のとおりである。以下,請求項1 ないし7に係る発明をそれぞれ「本件発明1」ないし「本件発明7」といい, 併せて「本件発明」という。また,本件発明に係る明細書(乙5により訂正さ れた甲40)を「本件明細書」という。 【請求項1】 式L 2 MX(式中,L及びXは,異なったモノアニオン性二座配位子であり, MはIrであり,さらに前記L配位子はsp 2 混成炭素及び窒素原子を介して Mに配位し;前記X配位子がO−O配位子又はN−O配位子である。)の燐光 性錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物(但し, L2MX中,Xがヘキサフルオロアセチルアセトネート又はジフェニルアセチ ルアセトネートである組成物を除く。。 ) 【請求項2】 Lが,2−(1−ナフチル)ベンゾオキサゾール,2−フェニルベンゾオキ サゾール,2−フェニルベンゾチアゾール,7,8−ベンゾキノリン,クマリ ン,フェニルピリジン,ベンゾチエニルピリジン,3−メトキシ−2−フェニ ルピリジン,チエニルピリジン,及びトリルピリジンからなる群から選択され 3 る,請求項1記載の組成物。 【請求項3】 前記X配位子が,アセチルアセトナート,サリチリデン,ピコリネート,及 び8−ヒドロキシキノリネートからなる群から選択される,請求項1記載の組 成物。 【請求項4】 前記L配位子が,フェニルイミン,ビニルピリジン,アリールキノリン,ピ リジルナフタレン,ピリジルピロール,ピリジルイミダゾール,及びフェニル インドールからなる群から選択されて置換又は非置換の配位子である,請求項 1記載の組成物。 【請求項5】 前記L配位子が,置換又は非置換のアリールキノリンを含む,請求項1に記 載の組成物。 【請求項6】 前記L配位子が,以下の構造: 【化1】 を有する非置換のアリールキノリンである,請求項5記載の組成物。 【請求項7】 前記L配位子が,以下の構造: 【化2】 4 を含む置換アリールキノリンである,請求項5記載の組成物。 3 本件審決の理由の要旨 (1) 本件審決の理由は,別紙審決書の写しのとおりである。要するに,@本 件明細書の特許請求の範囲の記載は,平成14年法律第24号による改正 前の特許法(以下「法」という。)36条6項1号の規定する要件を充足す るものと認められるので,本件発明についての本件特許を無効にすること はできない,A本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,法36条4項に 規定する要件を充足するものと認められるので,本件発明についての本件 特許を無効にすることはできない,B本件発明1〜3は,当業者が,いず れもその出願前に日本国内又は外国において頒布された,下記アの甲1に 記載された発明(以下「甲1発明」という。)及び下記イ〜チの甲2〜17 記載の発明に基づいて容易に発明をすることができたものではなく,特許 法29条2項の規定に違反して特許されたものではないので,本件発明1 〜3に係る本件特許を無効にすることはできない,というものである。 ア 甲1:「Appl. Phys. Lett., Vol.75, No.1, 5 JULY 1999 pp.4-6(邦題 :「電気燐光に基づく高効率緑色有機発光デバイス」 」 ) ,平成11年7月 5日発行 イ 甲2:「BOOK OF ABSTRACTS, 217th ACS National Meeting, INOR292, 2 1-25 MARCH 1999(邦題:「292.発光性のロジウム及びイリジウムの モノ及びバイメタル1,3−ジケトン錯体」 」 ) ,平成11年3月発行 ウ 甲3:「Inorg. Chem., Vol.30, No.8, 1991, pp.1685-1687(邦題:「新 合成方法による一連の強い光還元剤の調製:置換2−フェニルピリジン 5 を含むfacトリスオルトメタル化イリジウム(V)錯体」」 ) エ 甲4:「J. Organometal. Chem., Vol.517, 1996, pp.191-200(邦題:「 生物学的に重要な配位子の金属錯体である,クロロ架橋オルトメタル化 金属化合物および[(OC) 3 Ru(Cl)(μ−Cl) 2 によるパラジウ ] ム(U),イリジウム(V)およびルテニウム(U)のLXXXVTTα −アミノカルボン酸塩錯体」」 ) オ 甲5:「Synthetic Metals, Vol.94, 1998, pp.245-248(邦題:「遷移金 属錯体の三重項金属−配位子電荷移動励起状態からのエレクトロルミネ センス」」 ) カ 甲6:「Nature, Vol.395, 10 September 1998, pp.151-154(邦題:「有 機エレクトロルミネッセンス素子からの高効率燐光発光」」 ) キ 甲7:「J. Am. Chem. Soc., Vol.107, 1985, pp.1431-1432(邦題:「三 重にオルトメタル化したイリジウム(V)錯体の励起状態特性」」 ) ク 甲8:「Inorg. Chem., Vol.33, No.3, 1994, pp.545-550(邦題:「fa cialトリスシクロメタル化Rh 3+ およびIr 3+ 錯体:その合成,構 造,光学分光特性」」 ) ケ 甲9:「High-Energy Processes in Organometallic Chemistry, Americ an Chemical Society, 1987, pp.155-168 "Chapter 10"(邦題:「第10 章 有機金属およびその他の遷移金属錯体の電気化学発光」」 ) コ 甲10:「Inorg. Chem., Vol.38, No.10, Published on Web 04/24/199 9, pp.2250-2258(邦題:「機能化された2,2‘−ビピリジンを有する シクロメタル化イリジウム(V)錯体の合成,構造,光物理特性及び酸 化還元挙動」」 ),平成11年4月24日発行 サ 甲11:「Inorg. Chem., Vol.34, No.3, 1995, pp.541-545(邦題:「ビ ス(ピリジル)トリアゾ−ル配位子を有するシクロメタル化イリジウム (V)及びロジウム(V)錯体の吸収スペクトル,発光特性,及び電気 6 化学的挙動」」 ) シ 甲12:「CHEMICAL ABSTRACTS, Vol.125, No.20, 1996, p.1285 左欄"1 25:264443r"(邦題:「125:264443r ポリマーマトリックス 中に固体酸素センサとして固定した発光性シクロメタル化イリジウム( V)錯体」」 ) ス 甲13:「モリソン ボイド 有機化学(中)第6版」東京化学同人, 199 4 年, 647 頁 セ 甲14:「有機化学 化学入門コース4」岩波書店, 1998 年, 17 頁 ソ 甲15:「Inorg. Chem., Vol.27, No.20, 1988, pp.3464-3471(邦題: 「メチル置換フェニルピリジンオルトメタル化イリジウム(V)錯体の 合成,構造,電気化学および光物理学」」 ) タ 甲16:「錯体化学の基礎 −ウェルナー錯体と有機金属錯体−」講談社, 1989 年, 10 頁 チ 甲17:「化学大辞典」東京化学同人, 1989 年, 30 頁左欄“アセチルア セトナト錯体”及び“アセチルアセトン”並びに 635 頁右欄“グリシナ ト錯体” (2) 本件審決が認定した甲1発明は,次のとおりである。 Ir(ppy) 3 なる燐光性錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用い るための組成物(前記式中,「ppy」は 2-フェニルピリジンである)。 (3) 本件発明1と引用発明との対比 本件審決が認定した本件発明1と甲1発明との一致点及び相違点は,以 下のとおりである。 ア 一致点 燐光性錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組 成物。 イ 相違点 7 燐光性錯体につき,本件発明1では,「式L 2MX(式中,L及びXは, 異なったアニオン性二座配位子であり,MはIrであり,さらに前記L配 位子はsp 2 混成炭素及び窒素原子を介してMに配位し;前記X配位子が O−O配位子又はN−O配位子である(但し,ヘキサフルオロアセチルア セトネート又はジフェニルアセチルアセトネートを除く))の錯体」と特 定されているのに対し,甲1発明では「L 3 M(MはIrであり,Lはア ニオン性二座配位子であり,さらに前記L配位子はsp 2 混成炭素及び窒 素原子を介してMに配位する)」である点。 4 取消事由 (1) 相違点に関する容易想到性の判断の誤り(Xが二座配位子であって,N −O配位子である場合)(取消事由1) (2) 相違点に関する容易想到性の判断の誤り(Xが二座配位子であって,O −O配位子である場合)(取消事由2) 第3 当事者の主張 1 取消事由1(相違点に関する容易想到性の判断の誤り(Xが二座配位子で あって,N−O配位子である場合))について 〔原告の主張〕 本件審決は,甲4には,L 2 MXの式(X配位子がN−O配位子)で表され るIr錯体(イリジウムのN,O-α-アミノアシダト化合物16〜21)が記 載されているが,@光励起による発光を示すフォトルミネセンス(以下「PL 」ということがある。)特性を示すものであって,電気エネルギー(電圧)の 印加により発光するエレクトロルミネセンス(以下「EL」ということがある。 )により発光することは記載されていないこと,A発光についても,「蛍光発 光」(fluorescence)と記載され,「燐光発光」(phosphorescence)することが 記載されていないことから,甲4には,L2 MXの式で表される錯体がOLE Dにおいて燐光発光することは,記載も示唆もないため,甲3及び甲7〜9か 8 ら,甲1発明における Ir(ppy) 3 が三重項MLCT励起状態を示し,燐光発光 することが既に知られていたとしても,そもそも,L 2 MXの式で表される燐 光性錯体自体が甲4に記載も示唆もされていないのであり,また,甲10〜1 2を参酌しても,当該L 2 MX錯体がELデバイスにおいて三重項励起状態か らの燐光発光をすることを認識できないのであるから,甲1,5及び6に,「 ELデバイスに発光効率の優れた錯体を適用することが望まれている」ことが 示されているとしても,また,「MLCT遷移帯を有する遷移金属錯体であれ ばELデバイスの発光層に使用した場合三重項励起状態となる蓋然性があり, もってEL発光を示す発光層を形成するであろうということが当業界で少なく とも公知である」としても,甲1に記載された Ir(ppy)3錯体(L 3Mに該当す る)をL 2MXの式で表される燐光有機金属化合物に置き換えて本件発明1と することは,当業者が容易になし得たものということはできない,と判断した。 しかし,以下に述べるとおり,@甲4記載のL 2 MXの式で表されるIr錯 体は燐光発光するものであることは当業者が容易に理解することであるととも に,A燐光PLを示す材料を有機ELデバイス(以下,「有機ELデバイス」 を,「ELデバイス」又は「有機発光デバイス」ということがある。)の発光層 として用いる燐光発光有機金属化合物に適用することは,甲1や甲5その他の 文献に動機付けがあり,甲1と甲4を組み合わせることは極めて容易であるか ら,本件発明1に進歩性はない。 したがって,本件審決は,相違点に関する容易想到性の判断を誤ったもので あって,取り消されるべきである。 (1) 甲4に記載のL 2 MXの式で表されるIr錯体は燐光発光するものであ ることは当業者が容易に理解すること ア 甲4には,L 2MXの式で表されるIr錯体の発光は「fluorescence」 と記載されているが,「fluorescence」は,燐光と対比される蛍光(一重 項励起状態に起因する発光)という意味のほか,単に励起状態から基底 9 状態に落ちる時に発する発光の意味もあり(甲52),また,蛍光及び燐 光を含めてルミネセンスと同義に用いられることもある(甲19,53)。 したがって,甲4に「fluorescence」(蛍光)の語が用いられ,「phosp horescence」(燐光)の語が用いられていないということだけで,甲4に 示されたL 2 MXの式で表される有機金属化合物(イリジウム錯体)の発 光が,一重項励起状態に起因する発光であって,三重項励起状態に起因 する発光(燐光)と認識されないと直ちに判断するのは誤りである。 また,L配位子を二つ以上持つイリジウム錯体において,その発光寿 命を計測した上で蛍光であるとする文献はなく,むしろ甲5,46,1, 8,10及び11にはこのようなイリジウム錯体は燐光発光することが 記載されているから,当業者が,甲4の「fluorescence」という語をみ て,甲4に示されたL2 MXの式で表される有機金属化合物(イリジウム 錯体)の発光が,一重項励起状態に起因する発光であって,三重項励起 状態に起因する発光(燐光)ではないと認識することはあり得ない。 そこで,本件特許の優先日(以下「本件優先日」という。)当時の技術 常識等を加味して,甲4記載のL 2 MXの式で表される有機金属化合物( イリジウム錯体)が燐光発光するものと理解するかを検討しなければな らない。 そして,有機化合物の分野における蛍光と燐光の区別においては,そ の発光寿命は相対的な基準にすぎず,むしろ燐光は三重項励起状態に起 因する発光,蛍光は一重項励起状態に起因する発光と定義される(甲7 1)。しかし,三重項励起状態か一重項励起状態かは電子のスピンの向き の問題であって,これを直接観測する方法がないから,当業者は,三重 項励起状態となるような構造となっているか,より具体的には三重項励 起状態を生じさせる重原子を含む有機化合物か否かということを指標に, 当該発光が燐光か蛍光かを区別することとなる。 10 イ(ア) 甲4にはL 2 MXの式で表される有機金属化合物が記載されている ところ,甲4が引用する甲48にはこの有機化合物が強力な光還元剤 であり,その発光がMLCT励起状態に由来することが記載され,更 に甲48が引用する甲3には fac-Ir(R-ppy)3錯体が Ir(ppy)3のように MLCT励起状態を経て発光することが記載されているから,甲4記 載のL 2 MXの式で表される有機金属化合物がMLCT励起状態に起因 して発光することが理解される。 (イ) そして,重原子を含む分子は,重原子効果(スピン−軌道相互作 用は,原子核の電荷の大きさに依存し,原子量の大きい金属原子ほど 大きくなること)により,スピン−軌道相互作用が促進され,一重項 励起状態から三重項励起状態への遷移(系間交差(項間交差))や三重 項励起状態から基底状態への遷移の確率が高くなること,及び蛍光の 量子収率を低下させるとともに燐光の量子収率を増加させることから, 当該分子が発光していればそれは燐光発光であることは,本件優先日 当時の技術常識である。 そうすると,原子番号が16番である硫黄(S)が重原子であり, これを含む分子は,重原子効果によりスピン−軌道相互作用が促進さ れ,系間交差(項間交差)が生じ,燐光発光するとされているのであ るから(甲49),原子番号が77番のイリジウム(Ir)を含む分子 が発光するとすれば,それは蛍光発光ではなく,燐光発光以外はあり 得ないものと当業者は容易に理解する(甲49,57,58の1,甲 72〜76,77の1・2,甲78)。 実際に,イリジウム錯体が発光している場合に,発光寿命等一定の 指標を示して蛍光を発光していると明記している文献はなく,むしろ 下表のとおり多くの文献において,燐光発光していることが明示され ている。 11 甲号証 イリジウム錯体 発光特性 甲1,8 Ir(ppy)3 燐光 甲10 〔Ir(ppy)2(HL-X)〕+ 燐光 甲11,甲28 〔Ir(ppy)2(dpt-NH2)〕+ 燐光 甲79 〔Ir(ppy)2(4mptr)〕+ 燐光 甲80 〔Ir(ppy)2(bpy)〕+ 燐光 甲80 〔Ir(ppy)2(en)〕+ 燐光 甲73 Ir(QO)3 燐光 (ウ) また,甲5及び46には,一般論として,イリジウム錯体のよう な遷移金属錯体は,中心金属と配位子の間に強い相互作用があること から,三重項MLCT励起状態に起因する強い発光(高い量子収率) を示す有機金属錯体であることが記載されている(なお,被告らは, 甲46は,本件優先日前に頒布された刊行物ではないから,本件発明 の進歩性の判断の基礎とすることができない旨主張するが,甲46の 2095頁脚注の記載のとおり,甲46の内容は,1999年(平成 11年)5月31日から6月4日に大阪で行われた国際会議で講演さ れたものであり,同日に日本国内で公知となったものであるから,本 件発明の進歩性の判断の基礎とすることができる。。 ) そして,実際にイリジウムによるスピン−軌道相互作用によって三 重項MLCT励起状態に起因して燐光発光するIr錯体として,甲1, 8記載の Ir(ppy)3 (※L 3Mに相当)や,甲10,11記載の[Ir(pp y)2(hpbpy) +, ] [Ir(ppy)2(dpt-NH2) +(※L2MX’に相当。X’配 ] 位子はN−N配位子)など,下表記載のイリジウム錯体が燐光発光す ることが公開され,イリジウムと配位子との結合による錯体(イリジ ウム錯体)が燐光発光すること,特に,従来知られているフェニルピ リジン(sp 2混成炭素及び窒素原子によりMに配位されたモノアニオ 12 ン性二座配位子であって,本件発明のL 2 MXのLに相当する。)を有 するイリジウム錯体が,MLCT特性を示し,燐光性であることが示 されている。 したがって,イリジウム錯体でMLCT励起状態に起因する発光を するものは三重項励起状態からの燐光発光であることは技術常識であ った。 甲号証 イリジウム錯体 発光特性 甲10 〔Ir(ppy)2(HL-X)〕+ 燐光(3MLCT) 甲11,甲28 〔Ir(ppy)2(dpt-NH2)〕+ 燐光(3MLCT) 甲79 〔Ir(ppy)2(4mptr)〕+ 燐光(3MLCT) 甲80 〔Ir(ppy)2(bpy)〕+ 燐光(3MLCT) 甲80 〔Ir(ppy)2(en)〕+ 燐光(3MLCT 及び 3LC ) (エ) さらに,甲8には,Ir−C結合の数が多いとMLCT特性が高 くなることが記載され,甲50には,Ir−C結合が三つ及び二つの 場合には,MLCT励起状態に起因する発光をするが,1つの場合に はLC励起状態を有することが記載されているから,Ir−C結合の 数が多いとMLCT特性が高くなり,三重項MLCT励起状態から燐 光発光することが理解される。 ウ 以上によれば,甲4に示されたL2 MXの式で表される有機金属化合物 (イリジウム錯体)が発光しているという記載に触れた当業者であれば, 「fluorescence」との記載にかかわらず,重原子であるイリジウムを含 む錯体であり,かつ,Ir−C結合の数が二つあることから,当該イリ ジウム錯体が燐光発光すると認識することは明らかである。 (2) 燐光PLを示す物質をELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機 金属化合物に適用することは,甲1や甲5その他の文献に動機付けがあるか ら,甲1と甲4を組み合わせることは極めて容易であること。 13 ア 甲1には,燐光有機金属化合物としては,「高性能デバイスには,適度 なフォトルミネッセンス効率と約1μsの寿命で十分」と記載されてい るところ,甲4記載のIr錯体は重原子を含むことから三重項の短い寿 命(約1μsの寿命)であることを当業者であれば認識することができ (甲70,1,46,73,76),また,甲4記載のIr錯体は「室温 においてでさえ,…強力な蛍光発光(注:「fluorescence」の訳であり, 単に励起状態に起因する発光を意味する)を示」すと記載され,適度な フォトルミネセンス効率を有すると理解できるから,甲1に接した当業 者であれば,甲4記載のIr錯体を甲1記載のELデバイスの発光層と して用いる燐光発光有機金属化合物に採用する動機があることは明らか である。 更に加えて,甲1発明の有機金属化合物(Ir(ppy) 3 )と甲4記載のI r錯体(Ir(ppy) 2-NH2 C(H)(R)CO 2 )とは,@イリジウムという重原子を 含むものである上,配位子がいずれもフェニルピリジン(ppy)であるこ と,Aいずれも強力な光還元剤であること(甲7,3及び8と甲4),B 甲1発明の有機金属錯体のピーク波長は510nmであり(甲1),甲4 記載の有機金属錯体のピーク波長は約515nmであり(甲4),いずれ も緑色であること,というように多くの共通点があるから,当業者であ れば,甲1発明の燐光発光有機金属化合物に代えて,甲4記載のIr錯 体を適用する動機付けがあることは明らかである。 また,甲5では,光を照射した場合に強い三重項MLCT励起状態か らの発光(燐光)を生じる(PL効率の高い)有機金属錯体がEL効率 の高いELデバイスの発光層となる可能性があるという仮説に基づき, 特定のオスミウム(U)錯体が光を照射した場合に強い燐光を生じる( PL効率0.33)ので,当該仮説を検証するための有機金属錯体の例 として適していることを踏まえて,甲5に記載の発明である有機ELデ 14 バイスに電圧を印加することで三重項励起状態からの発光を示すことを 具体的データとともに示した上で,当該仮説が正しいことを,初めての 観察結果として報告している。そして,甲5には,遷移金属錯体の中で も,少なくともルテニウム錯体,オスミウム錯体,そしてイリジウム錯 体が,光の照射により三重項励起状態(すなわち,PLによる燐光発光 をすること)を示すことが記載されている。したがって,甲5の記載か らしても,PLを示すイリジウム錯体を,ELデバイスの発光層として 用いる燐光発光有機金属化合物に適用してELにより発光させることに 動機付けがある。 さらに,甲45には,PLを示す燐光発光有機分子を,ELデバイス により発光させることが記載されている。甲46にも,イリジウム錯体 を含む金属錯体では,高フォトルミネセンス効率が可能であると報告さ れ,これらの金属錯体がELデバイスに応用できることが記載されてい る。 以上のとおり,PLを示す物質を,ELデバイスの発光層として用い る燐光発光有機金属化合物に適用してELにより発光することは,主引 例である甲1,副引例である甲5のほか複数の文献にも示されていると おり,当業者がこれまで行ってきた技術常識であって,甲4記載の有機 金属化合物がPLを有する物質であることが分かれば,これをELデバ イスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用してELによ り発光させることに,十分な動機付けがある。 イ 被告らは,@当業者の間ではPLとELは異なる技術分野と認識され ていたこと,A有機ELデバイスによる燐光発光が初めて観察されたの は1990年であり,それも極低温(マイナス196℃)における発光 であり,燐光PL発光を示す物質が室温において燐光EL発光を示すこ とが報告されたのは1999年(平成11年)7月5日であったから, 15 本件優先日当時,有機ELデバイスの分野では,PLにおいて燐光発光 を示す物質が存在しても,それを有機ELデバイスの発光層として用い る燐光発光有機金属化合物に適用して燐光EL発光を生じさせることは 困難とされてきた旨主張する。 しかし,@の当業者の間ではPLとELは異なる技術分野と認識され ていた旨の被告らの主張が誤りであることは,前記アの甲1,5,45, 46の記載のほか,甲61にフォトルミネセンス(PL)を示す色素分 子をELデバイスにより発光させることが,甲6にEL効率とPL効率 は正比例の関係にあること及びPL効率のよいものをELデバイスに適 用することが,甲59にPL効率の増大がEL効率の増大につながるこ とが,甲62にPL効率がEL効率を支配する最大の因子であることが, 甲58の1に燐光EL効率の向上が適切なドーパントとホスト材料の選 択により達成されていることが,甲77の1に燐光PLの量子収率が高 い材料は有機EL素子の発光層として用いることができることが,それ ぞれ記載されていることから明らかである。また,Aの燐光PL発光を 示す物質が室温において燐光EL発光を示すことが報告されたのは19 99年(平成11年)7月5日であった旨の主張が誤りであることは, 室温において燐光ELを示すものとして,既に甲63(1990年)及 び甲64(1991年)において報告されていたほか,甲6(1998 年9月),甲20(1999年1月),甲58の1(1999年8月)に も報告があることからも明らかである。また,本件発明は,そもそも室 温で燐光発光する有機金属化合物であるとの特定はないから,室温で燐 光発光するか否かは本件発明を容易に想到するか否かとは無関係であっ て,かかる観点からも被告らの主張は失当である。 また,被告らは,甲4に記載されたL 2 MXの式で表される有機金属化 合物が,「適度なフォトルミネセンス効率」を有する物質かどうか不明で 16 あるから,甲1の記載は,ELデバイスにおける燐光発光有機金属化合 物に採用する動機付けとはならない旨主張する。しかし,甲4には,「錯 体16−22は,室温においてでさえ,紫外光に曝された状態でDMS O溶液またはCH 2Cl 2 溶液中で約515nmに強力な蛍光発光(注:「 fluorescence」の訳であり,単に励起状態に起因する発光を意味する) を示」すと記載され,適度なPL効率を有することが記載されている。 更に,本件発明の課題は,「有機発光デバイスの発光層に使用した場合に 燐光を発する新たな有機金属化合物を得ること」であり,先行技術(甲 1)によるEL効率や,これと同等以上のEL効率を発揮することでは ないから,本件発明を容易に想到するか否かを判断するに当たっては, 甲1のような「高性能」デバイスに用いられる「適度なフォトルミネセ ンス効率」までは必要なく,甲4が燐光PLを示すことを当業者が認識 すれば足りる。したがって,被告らの主張は失当である。 (3) 前記(1)及び(2)によれば,甲4に記載されたイリジウム錯体は,L 2 M Xの式で表される有機金属化合物であり,フォトルミネセンスにより燐光発 光するから,このような燐光発光する有機金属化合物を,甲1に記載された L 3 Mの式で表される燐光発光有機金属化合物に代えてELデバイスの発光 層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用することは当業者であれば容 易である。そのため,本件発明1は,甲1,4及び5に記載の発明に基づい て当業者が容易に発明をすることができたものであるから,特許法29条2 項の規定により特許を受けることができない。本件審決は,燐光PLを示す 材料をELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用す ることが当業者にとって容易である点を誤り,また,甲4記載の有機金属化 合物が燐光発光し,又はし得ることを当業者が容易に理解する点を誤り,結 果として,相違点に関する容易想到性の判断を誤ったものである。また,本 件発明1に進歩性があることを前提として,本件発明2及び3についても進 17 歩性を肯定する本件審決の判断も誤りであることは明らかである。 したがって,本件審決は取り消されるべきである。 〔被告らの主張〕 (1) 甲4に示されたL 2 MXの式で表される有機金属化合物による発光が燐 光発光であると認識することはできないこと ア 原告は,ある発光が燐光か蛍光かを区別する上で,あたかも,発光寿 命は一つの指標にすぎず,むしろ重原子の有無が重要な指標であるかの ように主張する。 しかし,燐光は三重項励起状態から基底状態へ遷移する際の発光であ るのに対し,蛍光は一重項励起状態から基底状態へ遷移する際の発光で あるところ,両者の違いは基底状態に遷移する前の励起状態における電 子のスピンの向きである。この電子のスピンの向きは直接観察すること ができないため,燐光か蛍光かは,観察時の温度等の条件を踏まえ,観 察された発光の発光寿命や波形等の情報を測定することにより判断する ことになる。なかでも発光寿命は,燐光の場合,三重項励起状態から基 底状態への遷移は起こりにくく(禁制遷移),許容遷移である蛍光と比べ て相対的に発光寿命が長くなることが知られているから,燐光か蛍光か を判断する上で,重要な指標である。 また,燐光か蛍光かは,上記発光寿命や波形等の測定情報に基づき, 観察時の温度等の条件を踏まえ判断されるところ,当業者が,かかる測 定を無視して,発光を示した有機化合物が「三重項励起状態を生じさせ る重原子を含む」か否かによって,「当該発光が燐光か蛍光かを区別する 」ということは考えられない。そして,ELにおいて励起した場合には 必ず75%は三重項励起状態が生じるものの,三重項励起状態が生じる からといって燐光を生じるわけではない。また,PLにおいて励起した 場合には,全て一重項励起状態となるところ,一重項励起状態から三重 18 項励起状態に項間交差が生じたとしても,三重項励起状態から基底状態 へと遷移し,燐光が生じるかは別の問題である。この意味でも,燐光か 蛍光かが,「三重項励起状態を生じさせる重原子を含む有機化合物」が用 いられているかによって区別されるとする原告の主張は誤りである。 イ 有機ELデバイスの技術分野に係る文献(乙6〜9)から明らかなと おり,当業者は,「fluorescence」は一重項励起状態からの発光である「 蛍光」を意味するものであり,三重項励起状態からの発光である「燐光 (phosphorescence)」とは異なるものと捉えており,また,一般の辞書 等(乙10,11,甲52,19)においても,「fluorescence」は,一 重項励起状態からの発光である「蛍光」であり,「燐光(phosphorescenc e)」とは異なるものとして説明されている。 そして,甲4は,一貫してイリジウムが中心金属となっている錯体に よる発光は「fluorescence」,すなわち「蛍光」であると繰り返し記載し ており,「fluorescence」と「発光」の意味を有する「emmission」とを 使い分けていることから,「fluorescence」を蛍光発光とは異なる「発光 」の意味で用いているとは考えられない。 したがって,甲4に触れた当業者は,甲4のL 2 MXの式で表される有 機金属化合物による発光として記載された「fluorescence」の意味を一 重項励起状態からの発光である「蛍光」と素直に解釈するのであって, これを燐光発光であると認識することは到底不可能である。 ウ(ア) 原告は,甲4が引用する甲48,更に甲48が引用する甲3によ れば,甲4記載のL 2 MXの式で表される有機金属化合物がMLCT励 起状態に起因して発光することが理解される旨主張する。 しかし,甲48には「ビス(μ−クロロ)テトラキス(2−(4‘ −R’−フェニル)−5−R−ピリジナト)ジイリジウム(V)(R= R‘=H(1);R=H,R’=NO 2 (2);及びR=NO 2 ,R‘= 19 H(3) 」及び他のシクロメタル化Ir(V)錯体による発光がML ) CT励起状態に由来することが示されているのみであり,さらに,甲 3にも「fac-Ir(R-ppy)」及び「Ir(ppy)3 」がMLCT励起状態を経て 発光することが示されているのみであって,いずれも甲4記載の錯体 16−21による発光がMLCT励起状態に由来することが示されて いるわけではない。 (イ) 原告は,甲49,57,58の1,甲72〜76,77の1・2, 78の記載を根拠として,重原子を含む分子は,スピン−軌道相互作 用により,一重項励起状態から三重項励起状態への遷移(系間交差( 項間交差))や三重項励起状態から基底状態への遷移の確率が高くなる こと,蛍光の量子収率を低下させるとともに燐光の量子収率を増加さ せることから,三重項励起状態から燐光発光することは技術常識であ り,原子番号が16番である硫黄(S)が重原子であり,これを含む 分子は,重原子効果によりスピン−軌道相互作用が促進され,系間交 差(項間交差)が生じ,燐光発光するとされている以上(甲49),原 子番号が77番のイリジウム(Ir)を含む分子が発光するとすれば, それは蛍光発光ではなく,燐光発光以外はあり得ない旨主張する。 しかし,甲49には,ある程度重い(強いスピン−軌道結合を有す る)原子を含む分子は燐光発光する可能性が高いということが記載さ れているにすぎず,「重原子を含む分子が燐光発光する」とは記載され ていない。そのほか,原告が指摘する甲57,58の1,甲72〜7 6,77の1・2,78に記載されているのは,せいぜい重原子を含 む分子の場合,そうでない分子に比べて相対的に燐光発光が生じやす いということのみであって,「重原子を含む分子が燐光発光する」とは どこにも記載されていない。加えて,甲58の1,甲76,77の1 は,それぞれ本件優先日のわずか4か月前,2か月前及び4か月前に 20 発行された文献であり,これを技術常識の基礎とするのは不合理であ る。したがって,原告が挙げる文献には,「重原子を含む分子が燐光発 光する」とは記載されていないから,重原子を含む分子が燐光発光す ることが本件優先日以前より技術常識であった旨の原告の主張には理 由がない。 また,甲78の表1・5は,蛍光量子収率が中心金属イオンの原子 番号だけでなく,配位子やpHに依存するものであることを示してお り,中心金属イオンの原子番号が大きい物質であっても,配位子やp Hによっては,原子番号の小さい中心金属イオンの物質より蛍光量子 収率が大きくなることを示している。そして,同表においては,タリ ウム(Tl:原子番号81)を中心金属イオンとする「Tl(C 9 H 6 ON) 3 −CHCl 3 」の蛍光量子収率が記載されていないが,そもそ もイリジウムの原子番号はタリウムよりも小さいし,上記のとおり, 蛍光量子収率は中心金属イオンの原子番号だけでなく,配位子やpH に依存するものであることから,Tlを中心金属イオンとする蛍光量 子収率が記載されていないからといって,イリジウムを含む分子が, 蛍光発光しないということにはならない。 さらに,甲78の表1・5には,原子番号が硫黄(S:原子番号1 6)より大きい亜鉛(Zn:原子番号30),ガリウム(Ga:原子番 号31),カドミウム(Cd:原子番号48),インジウム(In:原 子番号49)を中心金属イオンとした物質も,蛍光発光を示すことが 記載されていることに照らせば,原子番号が硫黄(原子番号16)よ りも大きいことを理由に,イリジウム(原子番号77)を含む分子の 発光が燐光以外にあり得ないとする原告の主張は明らかに誤りである。 この点について,原告は,甲各号証において,イリジウム錯体が燐 光発光を示した例を挙げるが,これはそれぞれのイリジウム錯体がそ 21 れぞれの配位子やpH,温度条件等の条件において燐光発光を示した ことを意味するにすぎず,イリジウムを含む分子の発光が当然に燐光 発光であることを意味するものではない。 (ウ) 原告は,イリジウム錯体でMLCT励起状態に起因する発光は燐 光発光であるとして,あたかもMLCT励起状態に起因する発光であ れば必ず燐光発光であるかのように主張する。しかし,MLCT励起 状態には,一重項MLCT励起状態と三重項MLCT励起状態とがあ り,原則として,一重項MLCT励起状態から基底状態への遷移は許 容であるため発光(蛍光発光)は生じやすく,一方で,三重項MLC T励起状態から基底状態への遷移は禁制であるため基本的に遷移は起 こらず,発光(燐光発光)は生じないのであるから,MLCT励起状 態が形成されれば常に燐光が発光するかのような原告の主張は誤りで ある。 また,原告は,甲1,46等の文献を引用して,イリジウム錯体で MLCT励起状態に起因する発光は燐光発光であることが技術常識で あった旨主張する。しかし,甲1は本件優先日(平成11年12月1 日)のわずか5か月前に発表された文献であって,同文献の記載のみ をもって,上記事項を技術常識ということはできない。甲46は本件 優先日前に頒布された刊行物ではなく,また,甲46の1頁の脚注に, 1999年5月31日〜6月4日に大阪で行われた国際会議において 提供された講演であることが記載されているが,当該講演の内容と甲 46に記載された内容が同じであるかは不明であるから,これを本件 発明の進歩性の判断の基礎とすることはできない。 また,原告は,イリジウム錯体でMLCT励起状態に起因する発光 をするものは三重項励起状態からの燐光発光であることは,甲5の記 載から明らかである旨主張するが,甲5には,「遷移金属錯体(Ru, 22 Os,Ir等)は…金属−配位子電荷移動(MLCT)励起状態を示 す。」と記載されているのみであって,「イリジウム錯体でMLCT励 起状態に起因する発光が燐光発光である」との記載はない。 さらに,原告は,甲1,8を根拠に Ir(ppy)3(※L3Mに相当)が, 甲10,11を根拠に[Ir(ppy)2(hpbpy) +, ] [Ir(ppy)2(dpt-NH2) + ] (※L 2 MX’に相当。)がそれぞれ燐光発光する旨主張するが,上記 化合物は,いずれも甲4記載のIr錯体ではなく,甲4記載のIr錯 体が燐光発光することに関し何ら示唆を与えるものではない。 (エ) 原告は,甲8及び50の記載を引用して,Ir−C結合の数が多 いとMLCT特性が高くなり,三重項MLCT励起状態から燐光発光 する旨主張するが,甲8及び50に記載されているのは,Ir−C結 合の数が多いとMLCT特性が高くなるということのみであって,M LCT特性が高ければ三重項MLCT励起状態から燐光発光すること が記載されているものではない。 エ 以上のとおり,当業者は,甲4記載のL 2MXの式で表される有機金属 化合物による発光が「蛍光」であることしか把握できず,これを燐光発 光であると認識することはできない以上,甲1に甲4を組み合わせて, 相違点に係る技術的事項を容易に想到することはできない。 (2) 燐光PLを示す物質をELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機 金属化合物に適用してELにより発光することが技術常識であったというこ とはできないこと 以下のとおり,本件優先日当時において,PLを示す物質を,ELデバイ スの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用してELにより発光 することが技術常識であったとの事実はなく,原告が引用する甲1,5,4 5,46も,上記事項が技術常識であったことの根拠となるものではない。 ア PLは,発光物質に光エネルギーを照射することで,発光物質は基底 23 状態から励起状態に遷移する。これに対して,ELは,ELデバイスに 電圧を印加して電流を流すことで陽極から正孔が,陰極から電子がそれ ぞれ注入され,両者が発光物質内において分子のHOMOとLUMOを 移動し,ある分子のHOMOとLUMOにおいて再結合することで励起 状態が生じる。再結合が生じるか否かは,発光物質だけでなく,デバイ スの構造などの影響も受けるとともに,再結合によって励起状態が生じ るか否かが重要である。このように,PLとELとは,励起状態を形成 する仕組みが全く異なることから,当業者の間では,PLとELは異な る技術分野と認識されており,PL発光を示す物質を有機ELデバイス に用いたとしてもEL発光を生じさせるのが困難であることは有機EL デバイスの分野において技術常識とされていた(甲45)。 とりわけ,PLにおいて燐光発光を示す物質が存在しても,それを有 機ELデバイスに適用して燐光EL発光を生じさせることは困難であっ た。すなわち,1980年代からPLにおいて燐光発光を示す物質は確 認されていたものの,有機ELデバイスによる燐光発光が初めて観察さ れたのは1990年であり,それも極低温(77K=マイナス196℃ )における発光であり,PLにおいて燐光発光を示す物質(Ir(ppy) 3 ) が有機ELデバイスに適用され室温において燐光発光を示すことが報告 されたのは,本件優先日(1999年12月1日)のわずか5か月前の 1999年7月5日であった(甲1)。このように,有機ELデバイスの 分野においては,PLにおいて燐光発光を示す物質が存在しても,それ を有機ELデバイスに適用して燐光EL発光を生じさせることは困難と されてきた(乙4)。 原告は,この点について,甲1,5,45,46,58の1,甲77 の1を挙げ,燐光PL発光する有機金属錯体をELデバイスの発光層と して用いる燐光発光有機金属化合物に適用する試みが実際に行われてい 24 るのであるから,PLとELのメカニズムの違いによって異なる技術分 野であると認識されていたとする被告らの主張は誤りである旨主張する。 しかし,甲45は燐光ではなく蛍光に関するものであり,甲46は本件 優先日前に頒布された刊行物ではないから,いずれも進歩性の基礎資料 とはなり得ない。そして,上記文献のうち実際にかかる試みが行われた のは,甲1,5,58の1のみであり,これらの文献が当該試みを行っ たものだとしても,発光メカニズムの違うPLとELが異なる技術分野 であるという認識があることに変わりはない。殊に甲77の1(199 9年7月22日発行)に「重要な課題として,…発光量子効率の高い三 重項材料を見つけること,そして,それらのEL素子作製への適合性を 調べることがあった」と記載されているとおり,単に,PL量子収率の 高い燐光材料を発見するだけではなく,それがELデバイスに適合する かを調べることが課題であったということは,正に,本件優先日の直前 において,PL量子収率の高い燐光材料を,ELデバイスの発光層とし て用いる燐光発光有機金属化合物に用いたとしても,必ずしも燐光発光 を示すとは限らないと認識されていたことを示している。したがって, 原告の上記主張は理由がない。 イ 甲1は,前記のとおり,本件優先日のわずか5か月前に発表された文 献であって,同文献に基づいて,PLを示す物質をELデバイスの発光 層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用してELにより発光する ことが技術常識であったということはできない。 また,甲1の「適度なフォトルミネッセンス効率」 「PL効率」 ( )とは, 単に,励起状態からの発光量子効率を意味するものであると解されると ころ,前記アのとおり,PLとELとでは励起の仕組みが異なるのであ るから,必ずしも適度なPL効率を示す物質であればELデバイスの発 光層に使用して発光を示すというわけではない。 25 さらに,甲4記載のL 2 MXの式で表される有機金属化合物の発光は, 前記(1)イのとおり「蛍光発光」と記載されているが,仮に原告主張のよ うにこれを「燐光発光」と捉え,かつ,甲1の記載に着目して「三重項 の短い寿命(約1μsの寿命)」と「適度なフォトルミネセンス効率」の 二つの要素を具備する物質を探そうとしたとしても,甲4には「三重項 の短い寿命(約1μsの寿命)」も「適度なフォトルミネセンス効率」も 記載されていない上,甲4は,標題の「生物学的に重要な配位子の金属 錯体である,…錯体」が示すように,ペプチド及び他の生体分子のマー カーとして用いることを念頭に置いた生物学的な観点からの研究に係る 文献であって,有機ELデバイスに係る甲1発明とは全く異なる技術分 野に係る文献であるから,甲4記載のL 2 MXの式で表される有機金属化 合物を,甲1発明のELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金 属化合物に採用する動機付けが存在するとはいえない。 また,甲1発明は,甲1が発表されるまで存在した,PLにおいて室 温で燐光発光を示す物質であっても,それを有機ELデバイスに適用し て室温で燐光を観察するのは極めて困難であるとの課題を解決したもの であり,甲1には,甲1発明に何らかの解決すべき課題があることは示 されておらず,当業者も,甲1発明の発表からわずか5か月後の本件優 先日において,甲1発明に解決すべき課題があるとは認識していなかっ た。甲1に甲4を組み合わせるのであれば,その前提として,甲1に何 らかの課題があることが必要であるが,甲1には甲1発明の課題が示さ れていない以上,甲1は,当業者に対して,甲1発明に甲4を組み合わ せる動機付けを与えるものではない。 ウ 甲5においては,PL効率が0.33(33%)のオスミウム錯体を ELデバイスに用いたところ,0.1%未満の発光効率しか示さなかっ たということである。これは,PLとELとでは励起の仕組みが異なる 26 ため,必ずしも高いPL効率を示す物質をELデバイスの発光層に使用 してもEL発光を示すわけではないことを実証したものというべきであ る。仮に,甲5の記載を「(PL効率の高い)有機金属錯体がEL効率の 高い有機発光デバイスの発光層となる可能性がある」ことを示す例と評 価したとしても,他の物質にも同様に当てはまるかについては一切実証 されていない。 したがって,仮に甲4記載のL 2 MXの式で表される有機金属化合物の 発光を「燐光発光」と捉えたとしても,甲4の記載から当該化合物の「 PL効率」を把握することはできず,それが「(PL効率の高い)有機金 属錯体」かどうかは不明であるから,甲5の記載は,甲4記載のL2 MX の式で表される有機金属化合物をELデバイスの発光層として用いる燐 光発光有機金属化合物に採用する動機付けとはならない。 エ 甲45は,単に「有機色素分子のなかにはPLで発光を示すものもあ るので,有機電界発光素子も発光するかもしれないし,発光してほしい 」という願望を示しているにすぎず,PLとELの関連性を示すもので はなく,PLを示す燐光発光有機分子を,ELデバイスの発光層として 用いる燐光発光有機金属化合物に適用することにより発光させることが 記載されているわけではない。 オ 甲46は本件優先日前に頒布された刊行物ではなく,また,甲46の 1頁の脚注に,1999年5月31日〜6月4日に大阪で行われた国際 会議において提供された講演であることが記載されているが,当該講演 の内容と甲46に記載された内容が同じであるかは不明であり,甲46 に基づく原告の主張は失当である。 カ 原告は,甲6,20,58の1,59,61〜64等の記載からすれば, PLとELは異なる技術分野ではなく,むしろ密接に関連している旨主 張する。 27 しかし,本件発明は,請求項1記載のとおり,「式L 2 MX…の錯体を 含む、有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物」であり, かかるデバイスは当然室温で使用することを前提としていることは,本 件明細書の段落【0006】 【0007】の記載から明らかであるとこ , ろ,原告の上記主張は,「PLにおいて室温で燐光発光を示す物質が存在 しても,それを有機ELデバイスに適用して室温で燐光ELを生じさせ ることは困難であると当業者に認識されていた」との被告らの主張に対 する反論にはなり得ない。そして,本件優先日当時,室温において燐光 ELを示していたのはPtOEPと Ir(ppy)3 の二つのみであって(甲6, 20),これらのみによって,室温において有機ELデバイスを燐光発光 させるのは困難であるとの長年の技術常識が覆されたと解することはで きない。 (3) 前記(1)及び(2)のとおり,甲4に示されたL 2MXの式で表される有機金 属化合物による発光が燐光発光であると認識することはできず,また,本件 優先日当時において,PLを示す物質を,ELデバイスの発光層として用い る燐光発光有機金属化合物に適用してELにより発光することが「技術常識 」のレベルにあったということはできない。そうすると,当業者は,甲1発 明のL 3 Mの式で表される化合物をL 2 MXの式で表されるものに置換しよ うとはしない。しかも,PLを示す物質をELデバイスの発光層として用い る燐光発光有機金属化合物に適用してEL発光させることは技術常識ではな かったのであるから,甲4でPL発光についてのみ開示されたL 2 MXの式 で表される有機金属化合物をELデバイスの発光層として用いる燐光発光有 機金属化合物に適用して発光を生じさせることが容易であったとはいえない。 したがって,取消事由1にかかる原告の主張は失当である。 2 取消事由2(相違点に関する容易想到性の判断の誤り(Xが二座配位子であ って,O−O配位子である場合))について 28 〔原告の主張〕 本件審決は,@甲2には,甲17を参酌しても,「モノメタルのイリジウム (V)のビス(2-フェニルピリジン)(1,3-ジケトン)錯体」自体が記載されて いるということはできないから,「モノ及びバイメタルのロジウム(V)及び イリジウム(V)のビス(2-フェニルピリジン)(1,3-ジケトン)錯体」として 「Ir(ppy)2(acac)」が記載されている又は記載されているに等しいということ はできず,本件発明のL2 MXの式で表される燐光有機金属化合物が記載され ているということはできない,A甲2には,「モノ及びバイメタルのロジウム (V)及びイリジウム(V)のビス(2−フェニルピリジン)(1,3−ジケ トン)錯体系」について,「そのすべての誘導体は媒体内で発光し,配位子内 (IL)または金属配位子電荷移動(MLCT)遷移に特徴的な可視(λmax =480-650nm)発光スペクトルが見られる。IL及びMLCT発光は 1,3-ジケ トン配位子と関連する遷移を含む。」と記載されているが,ここでいう「発光 」は原文では「luminescent」であるから,ELかPLか不明であるし,燐光 発光するものであることも明らかではない,として甲2には,L2 MXの式で 表される有機金属化合物がELにより燐光発光することも,MLCT遷移帯 を有することも記載されていないし,またそのことを何ら示唆するものでも ないから,甲3及び甲7〜9から,甲1発明における Ir(ppy)3 が三重項ML CT励起状態を示し,燐光発光することが既に知られていたとしても,そも そも,L 2MXの式で表される燐光性錯体自体が甲2及び3に記載も示唆もさ れていないのであり,また,甲10〜12を参酌しても,当該L 2 MXの式で 表される有機金属化合物がELデバイスにおいて三重項励起状態からの燐光 発光をすることを認識できないのであるから,甲1,5及び6に,「ELデバ イスに発光効率の優れた錯体を適用することが望まれている」ことが示され ているとしても,また,「MLCT遷移帯を有する遷移金属錯体であればEL デバイスの発光層に使用した場合三重項励起状態となる蓋然性があり,もっ 29 てEL発光を示す発光層を形成するであろうということが当業界で少なくと も公知である」としても,甲1に記載された Ir(ppy)3錯体(L3Mに該当する )をL2 MXの式で表される燐光有機金属化合物に置き換えて本件発明1とす ることは,当業者が容易になし得たものということはできない,と判断した。 しかし,以下に述べるとおり,甲2には,本件発明のL 2 MXの式で表され るMLCT励起状態に起因して発光する有機金属化合物が記載され,かつ, この有機金属化合物は燐光発光することも明らかであるから,甲1に記載さ れた Ir(ppy)3錯体(L3 Mに該当する)を甲2記載のL 2 MXの式で表される 燐光有機金属化合物に置き換えて本件発明1とすることは,当業者が容易に なし得たものというべきであって,本件発明1に進歩性はない。 したがって,本件審決は,相違点に関する容易想到性の判断を誤ったもの であって,取り消されるべきである。 (1) 甲2には,本件発明のL 2 MXの式で表されるMLCT励起状態に起因 して発光する有機金属化合物が記載されていること 甲2には,「モノ及びバイメタルのロジウム(V)及びイリジウム(V) のビス(2−フェニルピリジン)(1,3−ジケトン)錯体」がMLCT励 起状態に起因する発光をすることが記載されている。 甲2には,上図のとおり,具体的なロジウム錯体(ロジウム二核錯体) が記載されているところ,上記ロジウム錯体の二つのロジウムをイリジウ ムに置き換えた場合には下図のとおりとなり,かかるイリジウム錯体は, 甲2に記載された「バイメタルの…イリジウム(V)のビス(2−フェニ 30 ルピリジン)(1,3−ジケトン)錯体系」であって,L 2 MXの式で表され る有機金属化合物であることは明らかである。 そして,本件特許の特許請求の範囲及び本件明細書を見ても,L 2 MXの 式で表される有機金属化合物に二つの金属原子が含まれないとする根拠は ない。殊に特許請求の範囲には,L 2 MXのうち,「X配位子がO−O配位 子又はN−O配位子である」とのみ記載され,Xに金属原子は含まないと の記載はないのであるから,X配位子に金属分子が含まれている構成も含 まれる。 また,甲2には,「モノ…メタルの…イリジウム(V)のビス(2−フェ ニルピリジン)(1,3−ジケトン)錯体」との記載があり,その構造式は 下図のとおりであり,これがL 2 MXの式で表される有機金属化合物である ことは明らかである上,上記錯体の一つとして,具体的に甲3には「Ir(pp y)2(acac)」が記載されている。 したがって,甲2には,本件発明のL 2MXの式で表されるMLCT励起 状態に起因して発光する有機金属化合物が記載されているということができ る。 31 (2) 甲2に記載されたL 2 MXの式で表される有機金属化合物は燐光発光す ること 甲2記載のL 2MXの式で表される有機金属化合物は,MLCT励起状態 に起因して発光するものであり,前記1の取消事由1〔原告の主張〕(1)イ のとおり,イリジウム錯体のMLCT励起状態に起因する発光は燐光発光 であると当業者は理解するため,甲2記載のL 2 MXの式で表される有機金 属化合物は燐光発光すると理解する上,@イリジウムのような重原子を含 む分子は,燐光発光することは教科書レベルの技術常識であり,Aイリジ ウム錯体でMLCT励起状態に起因する発光は,三重項MLCT励起状態 からの燐光発光であり,更に,BIr−Cの結合の数が多いとMLCT特 性が高くなり三重項MLCT励起状態から燐光発光することから,同様に イリジウム錯体であり,Ir−Cの結合数が多い甲2記載のL 2 MXの式で 表される有機金属化合物も燐光発光するものと,当業者であれば理解する ことは明らかである。 (3) 前記(1)及び(2)によれば,甲2及び3には,明確にL 2 MXの式で表さ れる有機金属化合物が記載され,これを当業者は容易に製造することが可 能であり,かつ,かかる有機金属化合物は燐光発光することも,当業者で あれば容易に理解する。また,前記1の取消事由1〔原告の主張〕(2)のと おり,燐光PLを示す物質をELデバイスの発光層として用いる燐光発光 有機金属化合物に適用してEL発光させることは技術常識であるから,仮 に甲2記載の有機金属化合物の発光がPL発光であるとしても,これをE Lデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用してエレ クトロルミネセンス(EL)により発光させることには動機付けがある。 そうすると,甲2及び3に記載されたイリジウム錯体は,L2 MXの式で表 される有機金属化合物であり,燐光発光するから,このような燐光発光す る有機金属化合物を,甲1に記載されたL 3 Mの式で表される燐光発光有機 32 金属化合物に代えて適用することは,当業者であれば極めて容易であり, 本件発明1は,甲1,2及び3等に記載の発明に基づいて当業者が容易に 発明をすることができたものであって,特許法29条2項の規定により特 許を受けることができない。本件審決は,相違点に関する容易想到性の判 断を誤ったものである。また,本件発明1に進歩性があることを前提とし て,本件発明2及び3についても進歩性を肯定する本件審決の判断も誤り であることは明らかである。 したがって,本件審決は取り消されるべきである。 〔被告らの主張〕 (1) 甲2,3には,L 2 MXの式で表される燐光有機金属化合物は記載され ていないこと。 ア 甲2に具体的に化学式が記載されているのは,下図のとおり,ロジウ ム二該錯体のみであって,二つのロジウムの一方又は両方をイリジウム に置換した錯体まで記載されているということは必ずしも妥当でない。 仮に,甲2には二つのロジウムの両方をイリジウムに置換した錯体ま で記載されているとしても,かかる錯体は二つの金属を含んだ錯体であ る。本件発明のL 2MXの式で表される燐光有機金属化合物は中心金属M (イリジウム(V))が1個しか存在しない有機化合物であることを特定 しているのであって,二つの金属が含まれる錯体は本件発明のL 2 MXの 式で表される燐光有機金属化合物には該当しない。 33 また,本件発明の特許請求の範囲において,X配位子は金属であるM に配位するものとされていること,本件明細書に記載されているX配位 子はいずれも金属を含むものではないこと,X配位子が金属を含んでい ることを示唆するような記載がないことに照らせば,X配位子は金属分 子を含まないものと解するのが相当であって,別のイリジウム錯体を有 する構造部分をもって一つのX配位子(O−O配位子)に該当すると捉 えることには無理がある。 したがって,いずれにせよ,甲2には,L 2 MXの式で表される燐光有 機金属化合物は記載されていない。 イ 原告は,甲2記載の「モノ及びバイメタル」の意味について,「モノメ タル」は錯体に含まれる金属が1つの場合を意味し,「バイメタル」は錯 体に含まれる金属が二つの場合を意味するとの前提の下,甲2に示され た化学式の構造を図1のように捉えて,甲2の「モノ…メタルの…イリ ジウム(V)のビス(2−フェニルピリジン)(1,3−ジケトン)錯体 」はL2MXの式で表される有機金属化合物であるとも主張する。 図1 図2 しかし,前記のとおり,甲2に具体的に化学式が記載されているのは, ロジウム二該錯体のみであって,仮に,ロジウム二核錯体の一部が置換 された別の錯体が記載されているとしても,置換可能なのは金属と置換 基(R)のみである。そのため,ロジウム二該錯体の一部を置換したと しても,錯体に金属は二つ含まれるのであって,金属が1つになること 34 はない。したがって,「モノメタル」及び「バイメタル」の意味を原告主 張のように解すると,甲2には「モノメタル」の錯体は記載されていな いこととなり,「発光性のロジウム及びイリジウムのモノ及びバイメタル 1,3−ジケトン錯体」との甲2の標題及び記載内容と整合しない。こ れに対し,「モノメタル」は錯体に一種類の金属が含まれる場合,「バイ メタル」は錯体に二種類の金属が含まれる場合を意味すると解すれば, 甲2の記載内容と整合し得る(例えば,ロジウムが二つ含まれている錯 体を「モノメタル」,ロジウムが1つ,イリジウムが1つ含まれている錯 体を「バイメタル」と捉えれば,甲2の記載内容と整合し得る。。 ) また,同様に,甲2のロジウム二核錯体について,置換可能なのは金 属と置換基(R)のみであるから,図2(甲2に記載された化学式)の 四角で囲まれた部分をRに置換できるなどということは,甲2には一切 記載されておらず,甲2に図1の化学式が記載されているということは できない。 ウ 甲3の図1には,Ir(acac) 3 + 3Hppy → Ir(ppy) 3 の反応経路図が記 載されているところ,その途中に「Ir(ppy) 2 (acac)」を経ることが記載 されている。しかし,甲3には「Ir(ppy) 2 (acac)」を実際に合成し,単 離したことは一切記載されていないことからすると,甲3の図1は,あ くまでもIr−C結合のトランス効果を説明するための模式図であって, 「Ir(ppy) 2 (acac)」は仮想的なものと解される。そうすると,甲3には, 「Ir(ppy) 2 (acac)」についてその利用が可能な程度に記載されていると いうことはできないし,ましてや,Ir(ppy) 2 (acac)が燐光発光を示すか 否かといった発光特性は一切記載されていない。 (2) 甲2記載の有機金属化合物がMLCT励起状態に起因して燐光発光する ことは記載されていないこと 原告は,甲2記載の有機金属化合物が,MLCT励起状態に起因して発 35 光することが甲2に明記されている旨主張する。 しかし,甲2には,「配位子内(IL)または金属配位子電荷移動(ML CT)遷移に特徴的な可視(λmax=480-650nm)発光スペクトルが見られる 」と記載されているのみであって,「MLCT励起状態に起因して発光する 」との記載はなく,また,前記1の取消事由1〔被告らの主張〕(1)ウ(ウ) のとおり,MLCT励起状態に起因する発光は燐光発光であるとの前提自体 に誤りがあることから,原告の主張は失当である。 (3) 原告は,仮に,甲2に記載のL 2 MXの式で表される有機金属化合物 がPLを示す物質であったとしても,これを, ELデバイスの発光層と して用いる燐光発光有機金属化合物 に適用して発光することは,主引例 である甲1に記載されているばかりか,他の文献にも示されているとお り当業者がこれまで行ってきた技術常識であるから,甲2に記載のL 2 M Xの式で表される有機金属化合物のELを示すか不明であっても,甲1 に適用することは容易である旨主張する。 しかし,PLを示す物質をELデバイスの発光層として用いる燐光発 光有機金属化合物に適用して発光することが技術常識のレベルにあった といえないことは,前記1の取消事由1〔被告らの主張〕 (2)のとおりで あり,これを前提にした原告の主張は失当である。 第4 当裁判所の判断 1 本件発明について (1) 本件発明に係る特許請求の範囲は,前記第2の2記載のとおりであると ころ,本件明細書(乙5により訂正された甲40)の発明の詳細な説明には, 概ね,次の内容の記載がある。 ア 本件発明は,式L 2 MX(式中,L及びXは異なった二座配位子であり, Mは金属,特にイリジウムである。)の有機金属化合物,それらの合成及 びあるホスト中のドーパントとして,有機発光装置の発光層を形成するた 36 めに使用することに関する(【0001】。 ) イ 有機発光装置(OLED)は,いくつかの有機層から構成され,それら の層の中の1つは,装置を通って電圧を印加することによりELを生ずる ようにすることができる有機材料から構成されている。あるOLEDは, LCD系天然色平面パネル表示装置に代わる実際的技術として用いるのに 充分な輝度,色の範囲及び作動寿命を有することが示されている(【00 02】。 ) ウ 有機材料では,分子励起状態又は励起子の崩壊により光が発生する。例 えば,励起子の対称性が基底状態のものと異なっていると,励起子の放射 性緩和は,不可能となり,発光は,遅く非効率的になる。基底状態は,通 常,励起子を含む電子スピンの交換では反対称なので,対称性励起子の崩 壊は,対称性を破る。そのような励起子は,三重項として知られているが, OLEDでの電気的励起により形成されたどの三つの三重項励起子でも, ただ一つの対称状態(一重項)励起が生じる(甲1参照)。対称性不可過 程からの発光は,燐光として知られている。特徴として,燐光は,遷移の 確率が低いため,励起後数秒間まで持続することがある。これに対して, 蛍光は,一重項励起の早い崩壊で始まる。この過程は,同じ対称性の状態 の間で起きるので,非常に効率的である(【0005】。なお,甲1は,【 0019】でも参照されている。 。多くの有機材料は,一重項励起子から ) の蛍光を示すが,三重項による効果的室温燐光を出すことができるものは, ほんの僅かなものしか確認されていない。例えば,ほとんどの蛍光染料で は,三重項状態に含まれているエネルギーは,浪費されるが,三重項励起 状態が,例えば重金属原子の存在により発生するスピン軌道結合により摂 動を起こすと,効果的燐光がいっそう起きやすくなる。この場合,三重項 励起は,ある一重項特性をとり,それは,基底状態へ放射性崩壊するいっ そう大きな確率を有する。実際,これらの性質を有する燐光染料は,大き 37 な効率のELを示している(【0006】 。三重項による効果的室温燐光 ) を示すことが確認されている有機材料は,ほんの僅かしかないが,対照的 に,多くの蛍光材料は知られている。蛍光は,大きな励起密度で燐光発光 を減少する三重項・三重項消滅によって影響を受けない。したがって,蛍 光材料は,多くのEL用途に適している(甲6参照。【0007】 。 ) エ 燐光の利用に成功することは,有機EL装置の膨大な前途を約束するも のである。例えば,燐光の利点は,1つには,燐光装置の三重項に基づく 全ての励起子(EL中でのホールと電子との再結合により形成される。) が,あるEL材料でエネルギー移動及び発光に関与することができること である。これに対し,一重項に基づく蛍光装置では,僅かな割合の励起子 しか蛍光発光を与える結果にならない(【0024】 。蛍光は,原理的に ) は,対称励起状態の3倍大きな数により75%低い効率になる(【002 5】。 ) オ 本件発明は,L 2 MX(式中,L及びXは,異なったモノアニオン性二 座配位子であり,Lは,sp 2 混成軌道炭素及びヘテロ原子を有するLの 原子によりMに配位しており,Mは,8面体錯体を形成する,好ましくは 第3系列の遷移金属,好ましくはイリジウム(Ir)である。)に関する (【0008】【0038】 。この化合物は,増大した濃度で,またはその ) ままで,有機発光ダイオードの発光層として働くホスト層中のドーパント として働くことができる(【0039】【0046】【0047】 。Lの例 ) は,2−(1−ナフチル)ベンゾオキサゾール,(2−フェニルベンゾオ キサゾール) (2−フェニルベンゾチアゾール) (7,8−ベンゾキノリ , , ン),クマリン,(チエニルピリジン),フェニルピリジン,ベンゾチエニ ルピリジン,3−メトキシ−2−フェニルピリジン,チエニルピリジン及 びトリルピリジンであり(【0048】 ,Xの例は,アセチルアセトネー ) ト(acac),ヘキサフルオロアセチルアセトネート,サリチリデン,ピコ 38 リネート及び8−ヒドロキシキノリネートである(【0049】 。L及び ) Xの更に別な例は,図39(10種類の化合物が一般式で表されている。 なお,本判決では図示しない。)のほか,「総合配位化学」第2巻第20. 1章及び第20.4章に見いだすことができる(【0050】。 ) カ 本件発明1に記載の燐光有機金属化合物に含まれる16種類のイリジウ ム錯体(BTIrを含む。)の製造方法(【0052】〜【0076】)並 びに発光スペクトル及びNMRスペクトル(図8〜15,17〜22,2 5〜36)は,当該段落及び図(本判決では図示しない。)に記載のとお りである。得られたイリジウム錯体は,強く発光し,ほとんどの場合,燐 光であることを示す1ないし3マイクロ秒(μsec)の寿命を持っている (【0079】 。発光を示す錯体は,L 2MX(Mは,イリジウム)として ) 特徴付けられ,この錯体の発光は,イリジウムとL配位子との間のMLC T遷移に基づくものであるか,又はその遷移と配位子間の遷移との混合に 基づくものである(【0080】。 ) キ 式L 2 MXの化合物は,OLEDの燐光発光体として用いることができ る。例えば,Lが2−フェニルベンゾチアゾール,Xがアセチルアセトネ ート及びMがイリジウムである場合の化合物(BTIr)は,OLEDの 発光層を形成するために4,4′−N,N′−ジカルバゾール−ビフェニ ル(CBP)中のドーパントとして質量で12%のレベルで用いた場合, 12%の量子効率を示す(【0010】【0011】【0041】【0042 】。本件発明のホスト層は,カルバゾール部分を有する特定の分子からな ) ってもよいが,中でもCBPが好ましい(【0091】〜【0094】。 ) ク 本件発明で使用される発光装置は,30nmのNPDからなるホール輸 送層(HTL)を,ITO(アノードとしての機能を果たすインジウム錫 酸化物の透明伝導性相)被覆ガラス基体上にまず蒸着する。そのNPDの 上に,ホストマトリックス中へドープした有機金属の薄膜を蒸着して発光 39 層を形成する。例として,発光層は,12重量%のBTIrを含有するC BPであり,その層の厚さは,30nmであった。発光層の上に,バトク プロイン(BCP)からなり,厚さ20nmのブロッキング層を蒸着する。 ブロッキング層の上に,厚さ20nmのAlq 3 からなる電子輸送層を蒸 着する。電子輸送層の上に,Mg−Ag電極を蒸着して,装置が完成する (【0095】【0098】 。カソードとアノードの間に電圧を印加すると, ) ホールがITOからNPDへ注入され,NPD層により輸送される一方, 電子は,Mg−AgからAlqへ注入され,Alq及びBCPを通って輸 送される。次に,ホールと電子は,EMLへ注入され,キャリヤー再結合 がCBPで起き,励起状態が形成され,BTIrへのエネルギー移動が起 き,最終的にBTIr分子が励起され,放射崩壊する(【0096】 。こ ) の装置の量子効率は,12%である(【0097】。 ) ケ 蛍光材料は,装置中の発光体としてある利点を有する。L 2 MX(Mは, イリジウム)錯体を製造するのに用いられるL配位子が大きな蛍光量子効 率を有するならば,配位子の三重項状態を出入りする系間移行を効率的に 行わせるため,イリジウム金属の強いスピン軌道結合を用いることができ る。これは,イリジウムがL配位子を効果的な燐光中心にするということ にある。この方法を用いて,どのような蛍光染料を用いても,それから効 果的な燐光分子を作ることができる。すなわち,Lは蛍光を発するが,L 2 MX(Mは,イリジウム)は,燐光を発する(【0104】 。例えば,L ) がクマリンであり,Xがアセチルアセトネート(acac)である場合のL 2 IrX錯体は,強い橙色の発光を与えるのに対し,クマリン自身は,緑色 に発光する(【0105】 。色素レーザー及び他の用途のために開発され ) た蛍光染料の数は極めて多いので,この方法は,極めて広範な燐光材料を もたらすものと予想される(【0106】 。ただし,ヘキサフルオロ−aca ) c 及びジフェニル−acac の両方の錯体は,L2IrX錯体のX配位子とし 40 て用いた場合,当該錯体からの発光をクエンチすることがあるため,非常 に弱い発光を与えるか,または発光を全く示さない。その理由は,完全に は明らかになっていない(【0114】。 ) コ 本件発明のOLEDは,OLEDを有する実質的にどのような形の装置 にでも用いることができ,例えば,大画面表示器,乗物,コンピューター, テレビ,プリンター,大面積壁,劇場若しくはスタジアムのスクリーン, 掲示板又は標識に組み込まれるOLEDに用いることができる(【011 7】。 ) (2) 前記第2の2記載の本件発明の特許請求の範囲によれば,本件発明は, いずれもL 2MXの式(式中,L及びXは,異なったモノアニオン性二座配 位子であり,Mは,イリジウムである。)で表される燐光性錯体を含む,有 機発光デバイスの発光層として用いるための組成物である。そして,前記(1 )の本件明細書の記載によれば,本件発明は,L 2 MXの式(式中,L及び Xは異なった二座配位子であり,Mは金属,特にイリジウムである。)で表 される有機金属化合物を有機発光装置の発光層を形成するために使用するこ とに関するものであるところ(段落【0001】,燐光では全ての励起子が ) 発光に関与できるため,原理的に蛍光よりも高い効率で発光が得られること から,燐光の利用に成功することは有機EL装置の前途を約束するものであ るが(段落【0024】【0025】,多くの有機材料は一重項励起子から , ) の蛍光を示すが,三重項による効果的室温燐光を出すことができるものは, ほんの僅かなものしか確認されていないことから(段落【0006】【00 , 07】 ,本件発明の燐光有機金属化合物L 2 MXに含まれる16種類のイリ ) ジウム錯体の製造方法並びに発光スペクトル及びNMRスペクトルを具体的 に示し(段落【0008】【0038】【0039】【0046】〜【005 0】【0052】〜【0076】【0079】【0080】【0104】〜【0 106】【0114】 ,そのうちBTIrをELデバイスに組み込み,その ) 41 量子効率を測定するなどして(段落【0095】〜【0097】 ,本件発明 ) に係るL 2 MXの式で表される燐光有機金属化合物はELデバイスにおいて 燐光発光体として用いることができることを開示したものであることが認め られる。 2 甲1発明について (1) 甲1(「Appl. Phys. Lett., Vol.75, No.1, 5 JULY 1999 pp.4-6」(邦題 :「電気燐光に基づく高効率緑色有機発光デバイス」,平成11年7月5日発 行)には,以下の記載がある。 ア 「近年における,白金ポルフィリンからの高効率赤色電気燐光の実証は 有機発光デバイス(OLED)特性のブレークスルーを予兆していた。蛍 光とは異なり,燐光は一重項及び三重項励起状態の双方を用いるので,1 00%の最大内部効率を達成する可能性を含んでいる。しかし,基準輝度 100 cd/m2 に対し,初期研究段階のポルフィリンの外部量子効率は 2.2%である。この外部量子効率は実質的には低電流時の量子効率(5. 6%)より低い。(訳文2頁3〜9行) 」 イ 「今回,我々は緑色電気燐光材料である fac-トリス-(2-フェニルピリ ジン)イリジウム [Ir(ppy) 3 ]を用いたOLEDについて述べる。三重項 の短い寿命と適度なフォトルミネセンス効率という双方の要因の併発によ って,Ir(ppr)3 系OLEDの量子効率のピークを8.0%(28 cd/ A),パワー効率のピークを31 lm/Wとすることができる。 (訳文 」 2頁14〜18行) ウ 「蛍光はスピン対称性を保つ有機分子の輻射緩和に限定して起きる。こ のプロセスは非常に急速(およそ 1 ns)であり,典型的に一重項励起状 態と基底状態間の遷移を起こす。反対に燐光は,対称性が保たれない「禁 制」遷移,例えば三重項励起状態と一重項基底状態間の遷移により生じて いる。電気励起状態下では励起子は両方の対称状態で作られる。つまり, 42 全ての励起子からルミネセンスを得ることで,純蛍光デバイスの場合に得 られる効率よりも著しく高い効率が得られる可能性が出てくる。 (訳文2 」 頁21〜27行) エ 「図1にエネルギー準位の提案図とOLEDに用いるいくつかの材料の 分子構造式を示す。透明な導電性インジウムスズ酸化物をプレコートした 清浄されたガラス基板上に,有機層が高真空熱蒸着(10 ? 6 Torr)によ って成膜される。厚さ400Åの4,4’−ビス[N−(1−ナフチル) −N−フェニル−アミノ]ビフェニル(α-NPD)層はCBP中の Ir(ppy) 3 で構成されている発光層へ正孔を輸送する役割を持つ。電子輸送材料の トリス−(8−ヒドロキシキノリン)アルミニウム(Alq 3 )で作られ た厚さ200Å の層は Ir(ppy)3:CBP層に電子を輸送し,陰極での Ir (ppy) 3 発光吸収を減らす働きをしている。直径1mmの開口をもつシャ ドウマスクを用いて,厚さ500Å のAgキャップを備えた25:1 Mg:Agの厚さ1000Å の層から成る陰極を画定した。先にも述べ られている通り,2,9−ジメチル−4,7−ジフェニル−1,10−フ ェナントロリン(バソキュプロイン又はBCP)の薄膜バリア層(60Å )をCBPとAlq 3 間に挟むことが,発光領域内に励起子を閉じこめる こと,即ち,高効率保持に対して必要であることがわかっている。 (訳文 」 3頁7〜21行) 「 43 図1:電気燐光デバイスのエネルギー準位提案図。最高被占分子軌道( HOMO)エネルギー及び最低空分子軌道(LUMO)エネルギーを示す …。Ir(ppy) 3 のHOMOレベル及びLUMOレベルはわかっていない。 挿入図(a)は Ir(ppy)3,(b)はCBP,(c)はBCPの化学構造式をそれぞ れ示す。(図は原文5頁左欄,図1の説明は訳文5頁下から10〜6行) 」 オ 「CBP中の Ir(ppy)3 の過渡応答は,脱気トルエン中の室温で測定し た2μsの寿命と比較して500ns程度の単一指数関数的燐光減衰であ る。これらの短い寿命はスピン軌道結合が強いことを示唆しており,また 過渡応答中に Ir(ppy)3 蛍光が存在しないことも合わせて,Ir(ppy)3 は一 重項から三重項状態への強い項間交差を保持しているものと我々は予想し ている。よって,全ての発光は長寿命の三重項状態に起因している。残念 ながら三重項のゆっくりとした緩和は電気燐光の障害になり得るが,Ir(p py) 3 の第1の利点は三重項の寿命が短いことである。よって,実際の所, 燐光の障害は弱まる。(訳文4頁16〜25行) 」 カ 「これまで調査を行った燐光性化合物のうち,純粋な有機材料では,室 温で強い燐光を示すためのスピン軌道カップリングが不十分である。純粋 な有機燐光体の可能性を排除すべきではないが,最も有望な化合物は芳香 族配位子を有する遷移金属錯体である可能性がある。遷移金属は一重項状 態と三重項状態を混在させているので,項間交差を高め三重項励起状態の 寿命を短くする。本研究で示したように,高性能デバイスには,適度なフ ォトルミネッセンス効率と約1μs の寿命で十分である。 (訳文5頁15 」 〜21行) (2) そして,甲1発明が,前記第2の3(2)のとおり,「Ir(ppy)3 なる燐光性 錯体を含む,有機発光デバイスの発光層として用いるための組成物(前記式 中,「ppy」は 2-フェニルピリジンである) 」というものであることは,当 。 事者間に争いがない。 44 3 取消事由1(相違点に関する容易想到性の判断の誤り(Xが二座配位子であ って,N−O配位子である場合))について 原告は,甲4には,L2 MXの式で表されるIr錯体の発光は「fluorescen ce」(蛍光)の語が用いられ,「phosphorescence」(燐光)の語が用いられてい ないが,@イリジウムのような重原子を含む分子は,重原子効果により,スピ ン−軌道相互作用が促進され,一重項励起状態から三重項励起状態への遷移( 系間交差(項間交差))及び三重項励起状態から基底状態への遷移の確率が高 まること,及び蛍光の量子収率が低下し燐光の量子収率が増加すること等から, 当該分子が発光していればそれが燐光発光であることは技術常識であり(甲4 9,57,58の1,甲72〜76,77の1・2,甲78),Ir錯体で金 属−配位子電荷移動(MLCT)励起状態に起因する発光は,三重項MLCT 励起状態からの燐光発光であることは技術常識であり(甲5,46),また, Ir−Cの結合の数が多いとMLCT特性が高くなり三重項MLCT励起状態 から燐光発光することから(甲8,50),甲4に示されたL 2 MXの式で表 される有機金属化合物(イリジウム錯体)の発光が,一重項励起状態に起因す る蛍光であって,三重項励起状態に起因する燐光と認識されないと直ちに判断 するのは誤りであり,同様にIr錯体でありIr−Cの結合数が多い甲4に記 載されたL 2 MXの式で表される有機金属化合物も,当業者であれば燐光発光 するものと理解すること,更に,A燐光PLを示す物質を,ELデバイスの発 光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用してELにより燐光発光させ ることは,当業者がこれまで行ってきた技術常識であるから(甲5,45,4 6),甲4記載の有機金属化合物がPLにより燐光発光することが理解できる 以上,これを甲1に記載されたL 3 Mの式で表される燐光発光有機金属化合物 に代えてELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用す ることは当業者であれば容易に想到することができた旨主張する。 (1) 本件優先日当時の技術常識について 45 そこで,まず,原告が技術常識であった旨主張する上記@,Aの各事項が, 本件優先日当時の技術常識であったと認められるかについて検討する。 ア Ir錯体の発光であれば当業者は燐光発光と理解するかについて (ア) 重原子を含む分子による発光は,重原子効果により燐光発光である ことが技術常識といえるかについて 原告が,本件優先日当時,重原子を含む分子による発光は,重原子効 果により燐光発光であることが技術常識であったことの根拠として挙げ る文献等の内容について検討する。 a 甲49の記載内容 (a) 証拠(甲49)によれば,甲49(「アトキンス物理化学(下 )第4版」,平成5年発行)には,概略,次の記載がある。 「りん光 図17・11(本判決では図示しない。)はりん光に至るまでの 一連の事象を示している。第一段階は,蛍光の場合と同じである が,励起三重項状態の存在が決定的な役割を演じる。(…三重項… これは二つの電子のスピンが平行な状態である。) 励起一重項状態と励起三重項状態とは,そのポテンシャルエネ ルギー曲線が交差する点で共通の構造をとっている。それゆえ, もし二つの電子スピンを不対にする何らかの機構があると,分子 は系間交差を起こして三重項状態になれる。原子スペクトルの議 論で…スピン−軌道結合が存在すると,一重項−三重項の遷移が 起こり得ることを学んだが,分子についても同じことがいえる。 分子が(Sのような)かなり重い原子を含むときにはスピン−軌 道結合が大きいから,系間交差が重要になると予想できる。… もしある励起分子が交差して三重項状態になると,その分子は 引続きエネルギーをまわりに与えるが,今度は三重項の階段を下 46 りてきて,最低振動エネルギー準位に捕捉される。溶媒はこの最 終の,大きな電子励起エネルギーの量子を引き抜くことはできず, しかも基底状態に戻ることはスピン禁制であるために,分子はそ のエネルギーを放射することもできない。 しかし,放射遷移が完 全に禁じられているわけではない。それは,系間交差の原因とな るスピン−軌道結合によって選択律も破れるからである。したが って,分子の弱い放射が可能になり,この放出はもとの励起状態 が形成された後,長い間続くことになる。 …またこの機構から,りん光の効率がある程度重い(強いスピ ン−軌道結合を有する)原子の存在によって決まるはずであると 考えられるが,事実はその通りである。(762〜764頁) 」 (b) 前記(a)によれば,甲49には,分子がS(硫黄)のようにか なり重い原子を含むときには,スピン−軌道結合が大きく,系間 交差が生じ,三重項励起状態になれるため,燐光発光する旨が記 載されているということができる。 b 甲57の記載内容 (a) 証拠(甲57)によれば,甲57(「有機光化学」,昭和45年 発行)には,概略,次の記載がある。 「すでに述べた系間交差,S→TやT→S,は多重度を異にする 状態の間の遷移であって,たとえばS 1 とT 1 がそれぞれ完全に純 粋な一重項と三重項状態であれば,この二つの状態の間での遷移 はスピン禁制遷移であるため非常に起こりにくいはずである。こ のような遷移が起こるためには,一重項状態と三重項状態の間に 混じり合い(mixing)が必要であって,たとえば三重項の混じっ た一重項状態から一重項の混じった三重項状態への遷移が可能に なる。 47 このように多重度の異なる状態の間の混じり合いは,主として スピン−軌道相互作用(spin-orbital interaction または coupli ng)によるといわれていて,系間交差過程を理解する上に重要で ある。スピン−軌道相互作用は電子の軌道運動と電子のスピン磁 気モーメントとの磁気的な相互作用で起こるといわれており,特 に重原子(臭素やよう素など)や常磁性原子(鉄など)が系内に あるときには強くなり系間交差が促進される。実際に有機分子に 重原子を導入すると,その大きなスピン−軌道相互作用のためい わゆる重原子効果(heavy atom effect)が現われ系間交差が促進 される。 …重原子効果は励起一重項から励起三重項への系間交差を起こし やすくするので,一般に励起三重項からの反応は重原子を含む溶 媒によって促進される。…励起三重項から基底状態への遷移にも 重原子効果が現われ,したがって励起三重項の寿命が短くなる。」 (62〜63頁) (b) 前記(a)によれば,甲57には,重原子(臭素やよう素など) が有機分子内にあると,その大きなスピン−軌道相互作用のため に,いわゆる重原子効果が現われ,系間交差及び励起三重項から 基底状態への遷移が促進されることが記載されているということ ができる。 c 甲58の1の記載内容 (a) 証拠(甲58の1)によれば,甲58の1(「Current Opinion in Solid State and Materials Science 4 (1999) 369-372」(邦 題:「有機発光ダイオードにおける電気燐光」 ,1999年(平成 ) 11年)8月発行(甲58の2))には,概略,次の記載がある。 「OLEDにおける別の色調整の方法では,OLED構造への少 48 量の光ルミネッセンス(PL)色素のドーピングを伴う。…この PL色素ドーピング技術は,発光色が可視スペクトル全体にわた る,効率及び素子寿命の良好なOLEDを作製するために用いら れてきた。…本論文では,色素をドープしたOLEDから高効率 かつ飽和した赤色発光を得るために燐光ドーパントを用いること について説明する…。 (訳文1頁下から4行〜2頁3行) 」 「我々は最近,燐光色素を慎重に選択すれば,高効率な電界発光 (すなわち電気燐光)がOLEDにて得られることを発見した…。 効率よい電気燐光を得る鍵は,適切なドーパントとホスト材料の 選択にある。このプロセスのための最良のドーパントは重原子を 含む燐光体である。これらの分子中の重原子にみられる強いスピ ン軌道カップリングは,一重項状態と三重項状態の顕著なミキシ ングを可能とし,項間交差を促進し,しばしば高効率燐光につな がる。三重項励起状態から基底状態への放射緩和の効率を向上さ せることに加えて,重原子は,標準的な有機燐光体と比較して, 三重項状態の発光寿命を大幅に低減させる。白金オクタエチルポ ルフィン(PtOEP)は重原子を含む燐光体のよい例である。 PtOEPの燐光量子収率は室温で0.5,そして77Kで>0. 9であり,寿命は室温及び77Kで,それぞれ90μs及び13 1μsである。(訳文3頁下から6行〜4頁6行) 」 「燐光ドーパントの重原子は,色素上の一重項励起子をすみやか に三重項励起状態へと変え,色素からの燐光に至る。そのため, 燐光ドーパントはEL過程で形成される一重項励起子及び三重項 励起子のどちらも有効に利用するものと考えられる。 (訳文4頁 」 下から4〜1行) 「OLED中のPtOEPの実測発光寿命は35μsであり,7 49 7Kでの寿命は131μsであり,量子効率が0.9である。 ( 」 訳文6頁下から6〜4行) (b) 前記(a)によれば,甲58の1には,燐光ELに用いられる燐 光ドーパント(具体例:PtOEP)において,重原子によるス ピン−軌道相互作用によって,一重項励起状態から三重項励起状 態への遷移(項間交差)が促進され,三重項励起状態から基底状 態への放射緩和の効率を向上させ,高効率の燐光につながる旨が 記載されているということができる。 d 甲73の記載内容 (a) 証拠(甲73)によれば,甲73(「Inorganic Chemistry, Vo l.25, No.22, 1986」(邦題:「燐光8−キノリノール金属キレート。 励起状態特性及び酸化還元挙動」,昭和61年発行)には,概略, ) 次の記載がある。 「一般式M(QO) n ( n =3,M=Al(V),Bi(V),Rh (V),Ir(V) n =2,M=Pt(U) ; ,Pb(U))の8−キ ノリノール(QOH)金属錯体のいくつかを合成し,その特性を示 した。重金属錯体(M=Pt(U),Pb(U),Bi(V),Ir (V))は流体溶液中で長寿命(τ?2〜4μs)燐光及び励起状態 吸収(ESA)を示す。これらの錯体の光物理(発光スペクトルと 寿命,ESAスペクトルと寿命,発光量子収量,長寿命状態の形成 効率)について詳しく研究した。長寿命発光状態は,8−キノリノ ール配位子の金属摂動三重項状態に帰属する。これらの基底状態酸 化還元電位及び励起状態特性に基づいて,重金属8−キノリノール 錯体は強力な励起状態還元剤(−0.8〜−1.3Vの電位範囲 vs.SCE)として挙動することが予測される。消光の調査によ ってこれらの予想を検証する。(訳文1頁4〜14行) 」 50 「発光 調査した錯体は2種類のはっきりと異なる発光を呈する。 Al(V)錯体,Pb(U)錯体,及びBi(V)錯体が示す 緑色発光は室温にてナノ秒領域の寿命を有し,77Kで凍結して も実質的に増大しなかった(表I)。複数の著者によって何年も前 に提唱されたように,この発光は配位子局在蛍光に帰属すると考 えられる。最低エネルギー吸収帯についてのストークス・シフト は,さまざまな錯体の間で基本的に一定である(室温で約0.6 5μm −1 )。この顕著なシフトは,QO − 体とQOH 2 + 体のいずれ であっても,遊離配位子で観察されるものに匹敵する。それらの 起源は共通であるにもかかわらず,さまざまな錯体が呈する蛍光 発光は強度が数桁異なる(表I)。これにより,配位子一重項励起 状態の無放射減衰効率の大幅な変化は金属イオンの変化によって もたらされることが示唆される。この点については後でより詳細 に考察する。 赤色発光は,Pt(U)錯体及びIr(U)錯体により,全て の実験条件下で非常にはっきりと示される。Pb(U)錯体及び Bi(V)錯体では,この発光は77Kガラス中でよりはっきり と見られるが,室温でも時間分解実験において検出可能であり, 蛍光帯のテールから分離できる。Rh(V)錯体では,この発光 は低温のみで見られる。これらの違いにもかかわらず,これら全 ての発光は非常に狭いエネルギー範囲(室温で640〜655n m,77Kで590〜625nm)にある。これらの発光の低温 での寿命は10 −5 〜10 −4 秒の範囲にあるが,室温では通常数マ イクロ秒になる(恐らくRh(V)錯体ではこれよりずっと短い)。 これらの数字により,赤色発光は全てのケースで燐光であること がはっきりと示される。 (訳文10頁下から7行〜11頁15行 」 51 ) 「結論としては,Pt(QO) 2 及びIr(QO) 3 では金属−配 位子d−π帰属を完全に排除することはできないものの,調べた 全ての錯体の長寿命発光は配位子中心燐光に帰属すると考える。」 (訳文12頁13〜15行) 「M(QO) n 錯体において配位子中心燐光が現れるのは金属の摂 動によりη isc (判決注:項間交差効率)が高まるためだと考える のは非常に妥当と思われる。本研究に関わる金属イオンは全て反 磁性であるため,金属の摂動効果は重原子誘導のスピン−軌道結 合によるものである可能性が高い。 (訳文13頁下から5〜2行 」 ) 「Al(V)錯体は遊離ヒドロキシキノリン及びほとんどの非遷 移金属オキシキノリン錯体に挙動が似た基準系と見なすことがで きる。非常に強い蛍光発光(表I)を室温の流体溶液中及び77 Kの硬質ガラス中の両方で生じさせる。燐光発光は低温であって も検出できず,これにより,項間交差効率η isc が遊離配位子中と 同様に無視できることが示される。実際,アルミニウムなどの軽 金属では大きな重原子効果は見込めない。 (訳文14頁4〜9行 」 ) 「Pt(U)錯体及びIr(V)錯体は室温及び低温の両方で強 い燐光発光を示す点で注目に値する。これらの錯体において蛍光 は全く存在せず,η isc が1であるという妥当な仮説と一致する。 これらの錯体について,この仮説は実験的に確認されている(表 T)。高い燐光収量と比較的短い三重項寿命(表T)は,重原子に よって“三重項”状態からの放射及び無放射失活がかなり促進さ れたことを示唆する。これは金属の高原子番号と,金属−配位子 52 結合の高い共有結合性の特徴を考慮すると全く妥当である。三重 項寿命に対する温度の大きな影響がないことは,これらの錯体に おいて金属中心状態は非常にエネルギーが高いため,発光状態か ら熱的に利用できないという考えと矛盾しない。 Pb(U)錯体及びBi(V)錯体は,いくつかの点で燐光( 例えばPt(U))錯体と蛍光(例えばAl(V))錯体の中間の 挙動を示す。実際,これらは室温でも77Kでも蛍光と燐光の両 方を発する。そのため,金属の高原子番号にもかかわらず,Pb (U)で実験により立証されたように,これらの錯体では項間交 差はあまり効率が良くない(表I)。このことは,これらの錯体に おける金属−配位子結合が比較的イオン性であることに起因する。 これらの錯体における重原子摂動が中程度であることも,比較的 長い低温三重項寿命(表I)によって指摘されており,比較的遅 いT 1 →S 0 過程を反映している。これらの値は,さらに共有結合 性の高い相互作用が金属の低原子番号を補うと考えられるRh( V)錯体で得られる値に匹敵する。 (訳文14頁下から5行〜1 」 5頁14行) 「表T 8−キノリノール及び金属8−キノリノール錯体の光物 理特性 a 低エネルギー帯 b 脱気溶液 … f 緑色発光のテールで隠れている;時間分解実験で得られたス 53 ペクトル。(訳文18頁) 」 (b) 前記(a)によれば,甲73には,Ir(QO) 3 錯体等の重金属錯 体はその重原子によって三重項励起状態に起因する発光(燐光)が 促進されること,軽金属であるAl(QO) 3 錯体は蛍光のみ発光 すること,Irより重い原子であってもPb(QO) 2, Bi(Q O) 3 錯体は,金属−配位子結合が比較的イオン性であるため,項 間交差はあまり効率が良くなく,蛍光と燐光の両方を発すること等 が記載されているということができる。 e 甲74の記載内容 (a) 証拠(甲74)によれば,甲74(「化学選書 有機光化学」, 平成3年7月10日発行)には,概略,次の記載がある。 「スピンと軌道の相互作用によって,一重項⇔三重項の相互変換が 可能になり,無放射過程では項間交差の禁制がゆるめられる。放射 過程でリン光の発光が可能になるのも,ここで述べたスピン−軌道 の相互作用による一重項,三重項の混合である。 スピン−軌道相互作用の大きさをきめる因子の一つは,原子核の 電荷の大きさである。…中心の原子核の電荷が大きいほどそれが作 り出す磁場が大きく,電子スピンのみそすり運動におよぼす影響が 大きい。原子番号の大きい原子(重原子)を持つ分子では,項間交 差が効率よく起こる(内部重原子効果)」 。(25頁) (b) 前記(a)によれば,甲74には,スピン−軌道相互作用によって 項間交差の禁制が緩められ,燐光発光が可能となること,重原子を 持つ分子では,項間交差が効率よく起きる旨が記載されているとい うことができる。 f 甲75の記載内容 (a) 証拠(甲75)によれば,甲75(「アトキンス物理化学小辞典 54 」,平成10年6月15日発行)には,概略,次の記載がある。 「りん光[phosphorescence] 物質に高エネルギーの放射線を照射し たとき,物質から出る可視光線をりん光という。りん光は光源がな くなった後も,少なくともしばらくは持続する。これは蛍光とは, 発光に関与する励起状態の多重度が基底状態とは異なるので発生の 機構が違う。りん光の発光機構はつぎのとおりである…。はじめ, 分子が上部の電子状態の振動励起状態へ励起される。それから,振 動の励起が失われるにつれて,スピン−軌道カップリング(判決注 :スピン−軌道相互作用と同義である。)の影響で系間交差を起こ し,多重度の異なる励起状態へ移る(たとえば,S=0の励起一重 項状態がS=1の三重項状態になる)。この新しい電子状態において 振動励起の無放射減衰が続き,最後には振動の基底状態にいたる。 さらに,その状態がスピン禁制の放射遷移を起こして基底(一重項 )状態まで減衰する。系間交差はスピン−軌道カップリングの存在 によって起こるので,分子内に重元素の原子(硫黄など)がはいっ ていると系間交差やその後のりん光が強調される。(345頁) 」 (b) 前記(a)によれば,甲75には,分子内に重元素の原子(硫黄な ど)が入っていると,スピン−軌道相互作用により系間交差が生じ, さらにその後の燐光が強調される旨が記載されているということが できる。 g 甲76の記載内容 (a) 証拠(甲76)によれば,甲76(「基礎化学コース 光化学T 」,平成11年9月30日発行)には,概略,次の記載がある。 「重原子効果が顕著な例は遷移金属錯体である。W(CO) 5NHEt 2 につ いてはすでに述べたが,もう一つの例として 2 価の RuII原子に2, 2’−ビピリジン(bpy)が3分子配位した[Ru(bpy)3]2+について説明 55 しよう。この錯体は〜450nmに S0→S1 遷移の吸収極大を示すが, これは Ru の dπ軌道電子が bpy 配位子のπ*軌道に励起される MLC T 遷移(metal-to-ligand charge-transfer transition)によるもの である。しかし,S1 の 1MLCT*状態は蛍光を発することなく,>1011 s -1 という速い速度で同じ電子配置の三重項状態(T 1 ,3 MLCT * )に 項間交差し,室温で実測寿命が〜1μsの強いりん光を615nm に示す…。これは,Ru 原子による重原子効果によってスピン反転 を伴う項間交差やりん光過程の効率(速度)が高くなった結果であ る。(79頁) 」 (b) 前記(a)によれば,甲76には,重原子効果が顕著な例は遷移金 属錯体であるとし,ルテニウム錯体である[Ru(bpy) 3] 2+ は,この重 原子効果によって,蛍光を発することなく,室温で強い燐光を示す 旨が記載されているということができる。 h 甲77の1の記載内容 (a) 証拠(甲77の1)によれば,甲77の1(「Advanced materia ls 1999, 11, No.10」(邦題:「発光ダイオードに用いる三重項励起 状態を有する高発光性の金(I)錯体及び銅(I)錯体」,平成1 1年7月22日発行(甲77の2))には,概略,次の記載がある。 「(ELで見られるような)2つの不対(電子)の組み合わせによ り形成される励起子のスピン統計則を考慮すると,一重項状態及び 三重項状態の光ルミネッセンス収率が同じである場合,三重項状態 からのEL収率は3倍になると見込まれる。これにより,EL量子 収率が25%という壁を突破する可能性が出てきた。重要な課題と して,発光団のスピン禁制遷移を可能にすること,発光量子効率の 高い三重項材料を見つけること,そしてそれらのEL素子作製への 適合性を調べることがあった。(訳文1頁下から5行〜2頁2行) 」 56 「本論文では,二つのd 10 金属イオン金(I)及び銅(I)化合 物の三重項励起状態からのELについて報告する。金(I)化合物 は,ビス(ジフェニルホスフィノ)メタン(dppm)がホスフィ ン配位子間を架橋する二核金(I)錯体Au 2 (dppm) 2 (S O 3 CF 3 ) 2 であり,ここではAu 2 と示し,銅(I)化合物は, 四核錯体Cu 4 (C≡Cph) 4 L 2 (L=1,8−ビス(ジフェニ ルホスフィノ)−3,6−ジオキサオクタン)であり,ここではC u 4 と示す。…どちらも室温にて脱気溶液中及び固体状態で強い発 光を示した。…溶液中,固体状態,及び高分子マトリクス中におけ るAu 2 及びCu 4 の基本的な光ルミネッセンスのデータを表1( 本判決では表示しない。)にまとめる。溶液中でAu 2 では565 nm…にある長寿命発光帯,及びCu 4 では522nm…にある長 寿命発光帯は,…低い位置にあるスピン禁制励起状態によるもので あると考えられる。溶液中でそれぞれ測定したAu 2 の量子収率0. 23及びCu 4 の量子収率0.42は,発光性の金(T)錯体及び 銅(T)錯体の文献値に比べて最も高い値となっている。(訳文2 」 頁3〜19行) 「銅(I)錯体及び金(I)錯体の三重項励起状態と一重項基底状 態との間のスピン禁制遷移から観察された強い発光は,軌道角運動 量がスピン角運動量に加算されるスピン軌道カップリング(判決注 :スピン−軌道相互作用と同義である。)によって説明できる。重 原子又は重イオンによるスピン軌道カップリングの促進によって, 三重項励起状態から一重項基底状態への遷移確率が高まる。そのた め,遷移金属イオンをこれらの錯体の骨格に導入することで,スピ ン運動量の特異性が無くなり,スピン保存則が破られる。すなわち, スピン軌道カップリングによって電子状態が別の電子状態と結合し, 57 その結果,スピン軌道混合による異なる電子状態のカップリングに よって遷移モーメントが増大することになる。本研究では,成膜及 びEL素子の作製のため,また大気中の酸素分子による励起状態の 消失を防ぐために,両化合物を半導体高分子マトリクス(ポリビニ ルカルバゾール,PVK)中に分散した。(訳文2頁19行〜3頁 」 4行) 「Au 2 :PVK膜又はCu 4 :PVK膜のPLスペクトル及びE Lスペクトルを比較することで,興味深い結果が得られた…。29 0nmでの励起において,PVK及び両金属錯体は最も強い発光を 呈することが過去の実験により示されている。290nmで励起し たAu 2 :PVK…膜のPLスペクトルは,二つのピークを520 nmと410nmに示す…。寿命が3.5μsの低エネルギー発光 はAu 2 の三重項励起状態から生じるが,…寿命が<10nsの高 エネルギー発光は典型的な一重項励起状態発光であった。ELスペ クトル中で,520nmにおける発光強度は大幅に増大しているが, 一方で410nmにおける高エネルギー帯は弱いピークとなる…。 Au 2 と同様に,Cu 4 :PVK…膜のPLスペクトルは,二つの ピークを516nmと410nmに示す…。ELスペクトル中で, 516nmにおける発光強度は大幅に増大しているが,一方で41 0nmにおける高エネルギー帯はなだらかである…。これは,三重 項励起状態の形成効率が一重項状態と比べて高いためだと考えられ る。我々は,三重項発光はELにおいてPLと比べて約3倍に増大 していることを見出し,これによりEL過程において三重項励起子 の形成効率が3倍高いことが示される。(訳文4頁6行〜23行) 」 「上記考察から多くの結論を導き出すことができる。一つ目は,三 重項励起状態のPL効率が高い材料は有機EL素子の発光層として 58 用いることができ,これによりEL材料の範囲が従来の一重項材料 (有機色素,共役ポリマー)から遷移金属錯体などの三重項材料へ と広がるということである。(訳文5頁下から3行〜6頁1行) 」 (b) 前記(a)によれば,甲77の1には,燐光EL発光をする金属錯 体に関して,重原子によるスピン−軌道相互作用によって,三重項 励起状態から基底状態への遷移確率が高まること,すなわち,重原 子が存在することで燐光発光することが記載されているということ ができる。 i 甲72の記載内容 (a) 証拠(甲72)によれば,甲72(「紫外・可視スペクトル(第 2版),昭和45年発行)には,概略,次の記載がある。 」 「リン光 ケイ光に比べリン光はかなり長い減衰時間(前者は 10-9 から 10-6 秒,後者は 10-4 から数秒)をもっている。リン光は準安定の三重項 状態から基底状態へもどる際の発光であることがわかっている。あ る種の無機物質のリン光は活性化剤として作用する不純物の存在が 必要であり,リン光は個々の分子のエネルギー準位でなく結晶のエ ネルギー準位が原因となっている。大部分の有機化合物ではリン光 は分子の特性である。リン光スペクトルは通常吸収またはケイ光ス ペクトルよりも長波長側に現われる。リン光は三重項−一重項遷移 によるものであって,それは禁制の性格のものである。重原子を含 む分子あるいは重原子を含む溶媒はスピン−軌道カップリングによ る遷移を有利にする。二,三の芳香族化合物のリン光スペクトルの データを下に示した。 重原子の存在はケイ光収率を低下させるのに反して,リン光量子 収率は増加する。ケイ光収率もリン光収率も励起波長および濃度に 59 は無関係である。(199頁) 」 (b) 前記(a)によれば,甲72には,重原子を含む分子は,重原子の 存在により,蛍光の量子収率を低下させるとともに,燐光の量子収 率を増加させる旨が記載されているということができる。 j 甲78の記載内容 (a) 証拠(甲78)によれば,甲78(「蛍光・りん光分析法」,昭 和59年発行)には,概略,次の記載がある。 「蛍光性金属錯体において,中心金属イオンが原子番号の小さい軽 金属イオンから原子番号の大きい重金属イオンに変化するにつれて 蛍光の量子収率は次第に減少し,三重項状態の収率が増加する。こ れを内部重原子効果(inner heavy atom effect)といい,外部重 原子効果と区別する。表1・5に8−キノリノール誘導体の金属錯 体の蛍光量子収率と中心金属イオンの原子番号との関係を示した。 φfがAl>Ga>Inで,Tlは蛍光を発しないことから内部重 原子効果がいかに大きいかがわかる。(42〜43頁) 」 「このようにしてスピン−軌道相互作用によってスピンの反転が起 こるが,その作用は原子核の電荷が大きい原子,つまり重原子ほど 60 スピン−軌道相互作用は大きくなる。これがすなわち,重原子効果 である。原子番号の大きい原子は中心原子の電荷が大きくなり,そ の磁場が強くなるので,電子の軌道は核に接近してその影響を受け やすい。スピン−軌道相互作用の程度を見積もるのには核の有効電 荷Zを用いることもあるが,スピン−軌道カップリング定数(…) ζ(ゼーター)値がよく利用される。主な原子およびイオンのζ値 を表1・6に示す。(44〜45頁) 」 (b) 前記(a)によれば,甲78には,蛍光性金属錯体において,中心 金属イオンが原子番号の小さい軽金属イオンから原子番号の大きい 重金属イオンに変化するにつれて蛍光の量子収率は次第に減少し, 三重項状態の収率が増加すること,重原子であるインジウム(In :原子番号49),カドミウム(Cd:原子番号48),ガリウム( Ga:原子番号31),亜鉛(Zn:原子番号30)の錯体であっ ても蛍光発光するものがあることが記載されているということがで きる。 k 甲62の記載内容 (a) 証拠(甲62)によれば,甲62(「8−キノリノール類の金属 錯体を用いた有機電界発光素子の発光特性」電子情報通信学会論文 誌C−U Vol.J73−C−U No.11,平成2年発行) 61 には,概略,次の記載がある。 「3 結果と考察 3.1 中心金属による発光特性の変化 まず7種の8−キノリノール金属錯体…を発光層とする素子のE L発光特性を調べた。中心金属はAl,Ga,In,Zn,Sn, Pb,Cuの7種である。 …各々の錯体の固体での蛍光強度の順番は,Al>Ga,In> Zn,Sn>Pb≫Cuであるので,蛍光の量子収率が小さいもの ほどEL発光効率も低くなる傾向にあることがわかる。(662頁 」 右欄21〜40行) 「EL発光効率を支配する最大の因子は蛍光の量子収率を考えられ る」(664頁右欄2〜3行) 「4.むすび …素子のEL発光効率は,発光層物質の蛍光の量子収率にほぼ比 例する。(665頁右欄下から12〜3行) 」 (b) 前記(a)によれば,甲62には,Al,In,Zn等の7種の8 −キノリノール金属錯体について調べた結果,EL発光効率は,発 光層物質の蛍光の量子収率にほぼ比例する旨の記載があり,他方, 燐光発光に関する記載はないことから,重原子であるInやZn等 の錯体であっても,蛍光発光するものがあることが記載されている ということができる。 以上のa〜kによれば,本件優先日当時,硫黄(S:原子番号16), 臭素(Br:原子番号35),ヨウ素(I:原子番号53)のような重 原子が有機分子内にあると,「重原子効果」によりスピン−軌道相互作 用が大きくなり,一重項励起状態から三重項励起状態への遷移(項間交 差)及び三重項励起状態から基底状態への遷移の効率が高くなり,燐光 62 発光が生じやすくなること(甲49,57,74,75),重原子の存 在により,蛍光収率が低下し燐光収率が増加すること(甲72,78), 重原子効果によるスピン−軌道相互作用の大きさは,原子番号が大きい 原子ほど大きくなること(甲78),重原子効果が顕著な例は遷移金属 錯体であること(甲76)が,いずれも技術常識であったことを理解す ることができる。そして,具体的な錯体についてみると,銅(Cu)錯 体(原子番号29:甲77の1),ルテニウム(Ru)錯体(原子番号 44:甲76),白金(Pt)錯体(原子番号78:甲58の1),金( Au)錯体(原子番号79:甲77の1),Ir錯体(原子番号77) であるIr(QO) 3 (甲73)が重原子効果により燐光発光すること や,Ir(ppy) 3 (甲1。ただし,甲1には重原子効果との記載はない。) が燐光発光することが知られていたことが認められる。 しかし,上記の技術常識は,重原子を含む分子(特に遷移金属錯体) においては,燐光発光が生じやすいことを示すにとどまるものであって, 重原子を含む分子からの発光であれば,当然にそれが蛍光発光ではなく 燐光発光であることを意味するものではない。何故ならば,イリジウム (Ir:原子番号77)よりも重い原子である鉛(Pb:原子番号82 )やビスマス(Bi:原子番号83)を含む金属錯体であっても,項間 交差の効率はあまり良くなく,その発光は燐光と蛍光の中間の挙動を示 すこと(甲73),及び,重原子のインジウム(In:原子番号49), カドミウム(Cd:原子番号48)や亜鉛(Zn:原子番号30)等の 錯体であっても蛍光発光するものがあること(甲62,甲78)が知ら れていたことからすれば,重原子を含む分子からの発光であっても,そ れが蛍光であることもあり得ることが理解できるからである。そうする と,本件優先日当時,硫黄(S:原子番号16)等の重原子を含む分子 (特に遷移金属錯体)は重原子効果により燐光発光しやすく,当該分子 63 からの燐光発光であればそれは重原子効果によるものであることが技術 常識であったことが認められるものの,重原子を含む分子からの発光で あれば,それが全て燐光発光であるとの技術常識があったということは できず,他にかかる技術常識が存在したことを認めるに足りる証拠はな い。 (イ) Ir錯体でMLCT励起状態に起因する発光は三重項MLCT状態 からの燐光発光であって,Ir−Cの結合の数が多いとMLCT特性が 高くなり三重項MLCT励起状態から燐光発光することが技術常識とい えるかについて 原告が,本件優先日当時,Ir錯体でMLCT励起状態に起因する発 光が三重項MLCT状態からの燐光発光であり,Ir−Cの結合の数が 多いとMLCT特性が高くなり三重項MLCT励起状態から燐光発光す ることが技術常識であったことの根拠として挙げる文献等の内容につい て検討する。 a 甲5の記載内容 (a) 証拠(甲5)によれば,甲5(「Synthetic Metals, Vol.94, 19 98, pp.245-248(邦題:「遷移金属錯体の三重項金属−配位子電荷 移動励起状態からのエレクトロルミネセンス」,平成10年発行) には,概略,次の記載がある。 「要約 ある種のオスミウム(U)錯体,Os(CN) 2 (PPh3 ) 2X (X=ビピリジン誘導体又はアントロリン誘導体)(判決注:甲5 の図1(本判決では図示しない。)には,上記ある種のオスミウム (U)錯体の化学構造式(4種類)が記載されているところ,当該 化学構造式によれば,「アントロリン」とあるのは,「フェナントロ リン」の誤記であると認められる。)の三重項金属−配位子電荷移 64 動(MLCT)励起状態からの発光は,ポリ(N−ビニルカルバゾ ール)(PVK)マトリクスに混入させることによって向上する。 …8Vを超える直流バイアス電圧で,安定した均一な赤色のエレク トロルミネセンスが観測される。(訳文1頁8〜16行) 」 「一般に,光化学において一重項及び三重項励起状態は,どちらも スピン選択の統計に基づくものの,有機分子からのエレクトロルミ ネセンス(EL)は一重項励起状態によると考えられている。これ は,大多数の有機分子は三重項励起状態からの発光量子収率が低く, EL発光に寄与しないためである。しかし,強い三重項状態発光( 0.5を超えうる量子収率)を示す有機金属錯体もあり,このこと は,こうした三重項励起状態材料を用いることによって高効率EL デバイスを設計する可能性を生み出している。既に知られている通 り,遷移金属錯体(Ru,Os,Ir等)は中心金属と配位子の間 に強い相互作用があるため,長い励起状態寿命及び励起波長に依存 性のない量子収率により三重項状態の特性を示す金属−配位子電荷 移動(MLCT)励起状態を示す。(訳文1頁下から8行〜2頁3 」 行) 「本稿では遷移金属錯体の三重項MLCT励起状態からのELの初 観察結果について報告する。(訳文2頁9〜11行) 」 「2.1.材料 …PPh 3をOsO 2(CN) 2Xと光化学反応をさせて,Os( CN)2(PPh3 )X…を用意した。(訳文2頁13〜16行) 」 「3.結果と考察 本研究で用いたOs(U)錯体は室温において高いルミネセンス 量子収率(例えば,化合物4の脱酸素クロロホルム溶液中における 発光量子収率は,0.33)を示す。 (訳文3頁14〜17行) 」 65 「4.結論 初めに,一連のOs(U)錯体のPL特性と電子構造について調 査した。発光層としてOs(U)錯体/PVKを用いたELデバイ スを用意した。ITO/Os錯体:PVK/Al及びITO/Os (U)錯体:PVK/PBD/Alセルを用いることにより,Os (U)錯体の三重項MLCT状態からのEL発光を観測した。我々 の研究結果は,このような高い三重項状態のPL効率を有する材料 を有機ELデバイスの発光層として用いることができることを示し ており,そうすることによって材料の幅を広げEL効率を高める新 たな手法を提示している。(訳文5頁下から7行〜6頁2行) 」 (b) 前記(a)によれば,甲5には,遷移金属錯体(Ru,Os,Ir 等)は,中心金属と配位子の間に強い相互作用があるため,光励起 により,長い励起状態寿命及び励起波長に依存性のない量子収率に より三重項状態の特性を示す金属−配位子電荷移動(MLCT)励 起状態を示すことが記載されているということができる。 b 甲46の記載内容 (a) 証拠(甲46)によれば,甲46(「Pure. Appl. Chem., 1999, vol.71」(邦題:「燐光材料の有機発光デバイスへの応用」 ,平成 ) 11年5月31日〜同年6月4日講演(甲46の訳文1頁欄外脚注 ))には,概略,次の記載がある。 「要約:有機燐光体は,蛍光物質よりも4倍効率がよいため,有機 EL業界から注目されている。本稿では,ランタニド錯体,有機燐 光体,及び金属−有機錯体の有機燐光体カテゴリーを概説する。効 率の良い燐光に必要な特性を考察し,もっとも有望な物質に関して 結論を出す。(訳文1頁9〜12行) 」 「有機金属燐光体 66 ベンゾフェノンの例は,有機配位子が室温で効率よく燐光するた めには,三重項の寿命が短いことが必要であるということを示して いる。これは,一重項と三重項の励起状態を混合するスピン軌道( L−S)相互作用によって実現する。スピン−軌道相互作用は有機 金属錯体内に重原子が存在することで格段に向上される。前述のラ ンタニド錯体と比較して,これらの物質は,代表的にはOs,Ru, Pd,Pt,Ir,ならびにAuの錯体であり,原子遷移では発光 しない。むしろ,最小エネルギー励起状態はしばしば金属配位子電 荷移動三重項状態であり,L−S相互作用によって励起一重項状態 と混合される。その結果,燐光寿命は短く(<100マイクロ秒) 高フォトルミネッセンス効率が可能となる。一重項と三重項の励起 状態の混合は,項間交差が非常に高い確率(>99%)で起こるこ との要因でもある。従って,これらの錯体の一重項及び三重項励起 は燐光発光をもたらすことができる。 (訳文6頁17行〜7頁2行 」 ) 「有機金属錯体の三重項状態からの高効率のエレクトロルミネッセ ンスは,燐光色素2,3,7,8,12,13,17,18−オク タエチル−21H,23H−ポルフィン白金(U)(PtOEP) を用いたOLEDで最終的に証明されている。(訳文7頁16〜1 」 9行) 「三重項−三重項消滅と飽和は,燐光の寿命が短ければ最小化され る。これは緑色燐光材料fac トリス(2−フェニルピリジン) イリジウム(Ir(ppy) 3 )を用いて証明された。PtOEPと同様 に,Ir(ppy) 3 はCBPホストにドープされる。 (訳文11頁14 」 〜17行) 「結論 67 …効率の良い三重項エネルギー移動と恐らく直接電荷トラップ及 び励起子形成がPtOEPや Ir(ppy) 3 のような有機金属化合物の 成功の一要因である。L−S相互作用を特徴とする有機金属錯体は 今までのところもっとも成功した燐光体であるため,異なる波長で 燐光を発する同様の錯体は研究に値する。(訳文13頁16〜25 」 行) (b) 前記(a)によれば,甲46には,Ir錯体を含む金属錯体が三重 項MLCT励起状態となり燐光発光すること,及びこれらの金属錯 体がELデバイスに応用できることが記載されているということが できる。 c 甲8の記載内容 (a) 証拠(甲8)によれば,甲8(「Inorg. Chem., Vol.33, No.3, 1994」(邦題:「facialトリスシクロメタル化Rh 3+ 錯体及 びIr 3+ 錯体:その合成,構造,光学分光特性」 )には,概略, ) 次の記載がある。 「fac-[Ir(ppy)3 ]では,金属配位子間電荷移動( 3 MLCT)最 低励起状態が見られる。電荷移動特性が 3 π−π * 最低励起状態に 混在していることの証拠は,発光減衰時間の短さにより得られる。」 (訳文1頁下から9〜6行) 「1. イントロダクション 芳香族配位子を持つ,シクロメタル化した4d 6 および5d 6 遷 移金属錯体は,光還元プロセスに適した系であると考えられている。 なぜなら,配位子のσ−ドナーおよびπ−アクセプター特性により, 低位の金属配位子間電荷移動(MLCT)状態を誘発するためであ る。この最低励起状態のMLCT特性は金属−Cのσ−結合の数が 最大となることによって,最も高くなるとされている。従って,配 68 位結合するC原子が最大数となる錯体を調製することを狙いとする。 」(訳文1頁下から5行〜2頁2行) 「可視領域に及ぶ弱い吸収特性,およびIr 3+ 錯体にのみ見られ る弱い吸収特性は,それぞれ形式上はスピン禁制 3 MLCT遷移と 同定される。それらは,スピン軌道結合により,より高いエネルギ ーのスピン許容遷移と混在することで強度を得る。Ir 3+ はスピ ン軌道結合定数がより大きいため,Ir 3+ の方がRh 3+ よりも対 応する3MLCTバンドが強くなる。(訳文7頁下から8〜3行) 」 「吸収スペクトルは似ているものの,3つの錯体の発光バンドの形 状やエネルギーはまったく異なる。これは,それらの最低励起状態 が違った性質のものであることを示している。fac-[Ir(thpy) 3 ]のはっきりとした形のある発光バンドは,[Ir(thpy) 2 bpy] + お よび[Ir(thpy) 2 en] + の発光バンドと類似したスペクトル位置で 発生し,似た形状をしている。[Ir(thpy)2 bpy] + および[Ir(thpy ) 2 en] + の発光バンドは,thpy− 配位子上の3 π−π * 遷移に起因し ている。同様に,fac-[Ir(thpy) 3 ]の最低励起状態は,thpy − 上 の 3 π−π * 遷移のために起こると我々は考える。 (訳文8頁3〜 」 11行) 「同様の論拠を fac-[Ir(ppy)3 ]の発光スペクトルバンドの帰属 にも用いることができる。19600cm −1 に最大値を持つ主要 な広いバンドはCH 2Cl 2 溶液中の[Ir(ppy)2en]+の最大値とよ く一致し,これはIr→ppy−3 MLCT遷移とみなせる。従って, 室温でのPMMA中の fac-[Ir(ppy)3]の最低励起状態は ppy−− への 3 MLCT励起のためであると言える。 (訳文8頁11〜16 」 行) (b) 前記(a)によれば,甲8には,Ir−C結合の数が多いとMLC 69 T特性が高くなること,及びIr−C結合数が最大の三つとなるイ リジウム錯体である fac-[Ir(ppy)3]が3 MLCT(三重項MLC T)励起状態に起因して発光していることが記載されているという ことができる。 d 甲50の記載内容 (a) 証拠(甲50)によれば,甲50(「Sci. Pap. Inst. Phys. Ch em. Res. 1984」(邦題:「イリジウム(V)のオルトメタル化錯体 の発光分光学及び酸化消光」,昭和59年発行)には,概略,次の ) 記載がある。 「要約 数個の,2−フェニルピリジン(ppy)及びベンゾ[h]キノリ ン(bzq)の単一核のオルトメタル化Ir(V)錯体の励起状態を, 発光測定により特徴づけた。これらの錯体は,77Kでのガラス中, 及び室温での不活性溶媒中の両方において,金属から配位子への電 荷移動(MLCT)又は配位子中心(LC)励起状態から発光する。 励起状態におけるMLCT又はLC特性の程度は,Ir−C結合の 数及び金属配位圏にある他の配位子の性質を調整することにより制 御することができる。光酸化還元過程での強い還元剤としてふるま う,オルトメタル化種の励起状態の能力は,様々な酸化力のある消 光剤による,fac-Ir(ppy) 3 の発光の消光によって説明される;こ れらの研究は,この種について約+1.8Vの励起状態酸化電位を 示す。(訳文1頁) 」 「MLCT特性は,Ir−Cシグマ結合の最大数を有し,比較的高 エネルギーのLC励起状態をもつ,よく非局在化したパイ−アクセ プター配位子を有する,錯体において,最もよい。例えば,2つの Ir−Cシグマ結合が,よく非局在化したパイ−アクセプトするb 70 py配位子へMLCTを促進させる Ir(ppy)2 (bpy)+ でも事情は同 じである。一方,LC特性の程度は,より少ないIr−C結合が存 在する場合,そして,強い,しかし局在化した,パイ−アクセプト する配位子,及び/又は,低エネルギーLC励起状態をもつ配位子 が,金属配位子圏に存在する場合も,最もよい。したがって,1つ のIr−Cシグマ結合を有する Ir(bpy-C3 ,N’)(bpy)2 2+ ,又は, bzq 配位子がより弱いパイアクセプターであって,bpy より低エネ ルギーのLC励起状態を有する,[Ir(bzq) 2 Cl] 2 ,又は,強いが, 局在化したパイ−アクセプトCO配位子を含む Ir(ppy) 2 Cl(CO), のような錯体は,発光励起状態において,比較的,よりLC特性を 有する。(訳文1頁) 」 (b) 前記(a)によれば,甲50には,Ir−C結合の数が多い(二つ 又は三つの場合)とMLCT特性が高くなることが記載されている 71 ということができる。 e そして,証拠(甲1,8,10,11,28,79,80)及び弁 論の全趣旨によれば,本件優先日当時,三重項MLCT励起状態に起 因する燐光発光を示すIr錯体としては,具体的に以下のものが知ら れていたことが認められるところ,証拠上,Ir錯体で発光するもの として知られているものについては,その発光は全て燐光発光であり, 蛍光発光するものが知られていたことを認めることはできない。 Ir(ppy)3(甲1,8) 〔Ir(ppy)2(HL-X) +(甲10) 〕 〔Ir(ppy)2(dpt-NH2)〕+(甲11,28) 〔Ir(ppy)2(4mptr) +(甲79) 〕 〔Ir(ppy)2(bpy)〕+(甲80) 〔Ir(ppy)2(en)〕+(甲80) 以上のa〜eによれば,本件優先日当時,Ir等の遷移金属の錯体は, 中心金属と配位子の間に強い相互作用があるため,三重項MLCT励起 状態を示し燐光発光することができること(甲5,46),及びIr錯 体においてIr−C結合の数が多い(二つあるいは三つの場合)とML CT特性が高くなること(甲8,50)が知られており,三重項MLC T励起状態に起因する燐光発光を示すIr錯体には,Ir(ppy)2 の部分構 造を有しIr−C結合の数が二つ以上である錯体等が知られていた(甲 1,8,10,11,28,79,80)ということができる。 しかし,金属錯体には,金属中心の遷移(MC;metal-centered)や 配位子内遷移(LC;ligand-centered)という電子遷移に加え,中心 金属と配位子との間で電荷の移動を伴う電荷移動遷移である中心金属か ら配位子への電荷移動(MLCT;metal?to-ligand charge-transfer), 配位子から中心金属への電荷移動(LMCT;ligand-to-metal charge 72 -transfer),配位子間電荷移動(LLCT;ligand-to-ligand charge- transfer)等の電子遷移があり,このような電子遷移に関わる様々な励 起状態があって,金属と配位子の組合せによりどのような励起状態とな るかは変化するものということができる。このことは,前記d(a)のと おり,甲50中に,「励起状態におけるMLCT又はLC特性の程度は, Ir−C結合の数及び金属配位圏にある他の配位子の性質を調整するこ とにより制御することができる。」と記載されていることからも裏付け られるところである。 そうすると,Ir−C結合を二つ有するIr錯体において,他の配位 子の構造が励起状態に影響を与える可能性があるから,当該錯体が,三 重項MLCT状態に起因して燐光発光を示すことがあるとまではいえる ものの,Ir−C結合以外の他の配位子の構造いかんにかかわらず,三 重項MLCT励起状態から燐光発光することが技術常識であったとまで は認めることはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。 (ウ) 前記(ア)及び(イ)によれば,重原子であるIrを含み,Ir−C結 合を二つ含む Ir(ppy) 2 の部分構造を有するIr錯体からの発光につい ては,燐光である可能性はあるものの,他の配位子の構造いかんにかか わらず,これを蛍光ではないとまで断言できる技術水準にあったという ことはできないというべきである。 イ 燐光PLを示す物質をELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機 金属化合物に適用してELにより燐光発光させることが技術常識であった かについて (ア) 原告が本件優先日当時,燐光PLを示す物質をELデバイスの発 光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用すること,またはP LとELとが関連する技術分野であることが,いずれも技術常識であ ったことの根拠として挙げる文献等の記載内容について検討する。 73 a 甲1の記載内容 甲1には,「Ir(ppy)3 なる燐光性錯体を含む,有機発光デバイスの 発光層として用いるための組成物(前記式中,「ppy」は 2-フェニル ピリジンである) 」が記載されていることは,前記2(2)のとおり, 。 当事者間に争いがなく,また,前記2(1)ア,イ及びカによれば,蛍 光とは異なり,燐光は一重項及び三重項励起状態の双方を用いるの で,100%の最大内部効率を達成する可能性を含んでいることか ら,電気燐光の実証は有機発光デバイス(OLED)特性のブレー クスルーを予兆していたこと,fac-トリス-(2-フェニルピリジン)イ リジウム [Ir(ppy)3 ]を用いたOLEDにおいては,三重項の短い寿 命と適度なフォトルミネセンス効率という双方の要因によって,量 子効率のピークを8.0%(28 cd/A),パワー効率のピーク を31 lm/Wとすることができたこと,高性能デバイスに適し た燐光性遷移金属錯体として,適度なフォトルミネセンス効率と約 1μs の寿命で十分であることが記載されているということができる。 b 甲5の記載内容 前記ア(イ)a(a)の甲5の記載によれば,甲5には,光励起により 強い三重項状態発光(0.5を超え得る量子収率)を示す有機金属 錯体を用いることによって高効率ELデバイスを設計する可能性が あること,室温において高いルミネセンス量子収率(例えば0.3 3)を有するOs(CN) 2(PPh 3 ) 2 X(X=ビピリジン誘導体 又はアントロリン誘導体(判決注:前記ア(イ)a(a)のとおり,「ア ントロリン」は「フェナントロリン」の誤記と認められる。)である オスミニウム(U)錯体をELデバイスに適用し,三重項MLCT 状態からのEL発光を観測したことが記載されているということが できる。 74 c 甲45の記載内容 (a) 証拠(甲45)によれば,甲45(特開平2−261889号 公報)には,概略,次の記載がある。 「ところで,有機色素分子のなかにはそのフォトルミネッセンス において青色領域(波長460nm近傍)に蛍光やリン光を発光 するものが多い。このことから,2枚の電極の間に有機色素薄膜 からなる発光層を設けた構造の有機電界発光素子は,フルカラー の表示素子などを実現できる可能性が高く,大きい期待が寄せら れている。しかし,有機電界発光素子では,肉眼で認識できない ほど輝度の低いことが問題となっていた。 (1頁右欄下から5行 」 〜2頁左上欄4行) 「しかし,斎藤らによると,例えば光励起によって有機色素分子 が効率よく発光するのは,気体又は溶液のように色素濃度が希薄 な場合であり,固体凝集状態では発光が困難であることが多く, このことが有機電界発光素子において発光が観測されにくい一つ の原因になっていると述べている。(2頁右上欄9行〜14行) 」 (b) 前記(a)によれば,甲45には,PLにおいて蛍光や燐光を発 光するものをELデバイスに適用することが期待されていたが, ELでは肉眼で認識できないほど輝度の低いことが問題となって いたことが記載されているということができる。 d 甲46の記載内容 前記ア(イ)b(a)の甲46の記載によれば,甲46には,有機燐光 体は,蛍光物質よりも4倍効率がよいため,有機EL業界から注目 されており,Os,Ru,Pd,Pt,Ir,Auの錯体の最小エ ネルギー励起状態はしばしば金属配位子電荷移動三重項状態であり, 高フォトルミネセンス効率が可能となることが記載されているとい 75 うことができる。 e 甲58の1の記載内容 前記ア(ア)c(a)の甲58の1の記載によれば,甲58の1には, PtOEPを適用した燐光系OLED(有機発光ダイオード。判決 注:有機ELデバイスに相当する。)が開示され,OLED中のPt OEPの実測発光寿命が35μsであり,77Kでの寿命が131 μsであり,量子効率が0.9であることが記載されているという ことができる。 f 甲63の記載内容 (a) 証拠(甲63)によれば,甲63(「第51回応用物理学会学 術講演会講演予稿集第3分冊」,平成2年発行)には,概略,次の 記載がある。 「燐光物質を発光層に持つ電界発光素子 【緒言】固体内での電子とホールの再結合によって,一重項励起 子と三重項励起子が生成する。従って,燐光物質を発光層に持つ EL素子を作成すれば,この三重項励起子から直接発光させるこ とができると考えられる。そこで,燐光物質BB,CP1…を発 光層に持つ素子について,室温および液体窒素温度において,発 光特性および発光寿命を調べた。 … 【結果・考察】素子AのEL発光寿命は液体窒素温度で約130 μsであり,室温での約5μsに比べてかなり長い。このとき素 子の輝度は,電流密度のほぼ1次に比例した。従って,この発光 は遅延蛍光ではなく,三重項から直接発光したものであると考え られる。次に,製膜性向上のためにBBをCP1に変えた素子B についての測定を行った。素子Bは,液体窒素温度での発光効率 76 が室温の場合に比べて約1桁高い。このため,この素子も三重項 から直接発光していると考えられる。」 (b) 前記(a)によれば,甲63には,素子Aの液体窒素温度での発 光寿命が室温でのそれと比較してかなり長いこと,素子Bの発光 効率が室温でのそれと比較して約1桁高いことから,素子A及び Bの発光がいずれも三重項からの直接発光であると結論づけてい ることが記載されているということができる。 g 甲64の記載内容 (a) 証拠(甲64)によれば,甲64(「修士論文 有機電界発光 素子の発光機構に関する研究」,平成3年発行)には,概略,次の 記載がある。 「また,これらの結果から,前節のCP1のEL特性に関する結 果を考察すると次のような事が考えられる。 まず発光効率が,77Kのときは室温の場合と比べて3〜10 倍向上している。これは,燐光の量子効率が77Kに冷やすこと により向上したためではないかと考えられる。次にEL発光スペ クトルでは,77Kに冷やすと,620nmのピーク強度比が増 大している。これも,燐光の量子効率が77Kに冷やすことによ り向上したためではないかと考えられる。また,もしこれが本当 なら室温でも,三重項励起子からの発光を観測していると考えら れる。(90頁13〜20行) 」 (b) 前記(a)によれば,CP1のEL特性について,発光効率が室 温の場合と比較して77Kのときは3〜10倍向上しているのは, 燐光の量子効率が77Kに冷やすことにより向上したためと考え られることが記載されているということができる。 h 甲77の1の記載内容 77 前記ア(ア)h(a)の甲77の1の記載によれば,甲77の1には, 一重項状態及び三重項状態のPL収率が同じである場合,三重項状 態からのEL収率は3倍になると見込まれること,重要な課題とし て,発光量子効率の高い三重項材料を見つけて,そのEL素子作製 への適合性を調べることがあったこと,二核Au錯体又は四核Cu 錯体がELデバイスにおける発光材料として用いられたこと,三重 項励起状態のPL効率が高い材料は有機EL素子の発光層として用 いることができ,これによりEL材料の範囲が従来の一重項材料( 有機色素,共役ポリマー)から遷移金属錯体などの三重項材料へと 広がることが記載されているということができる。 i 甲6の記載内容 (a) 証拠(甲6)によれば,甲6(「Nature, Vol.395, 10 Septemb er 1998, pp.151-154」(邦題:「有機エレクトロルミネッセンス素 子からの高効率燐光発光」 ,平成10年発行」には,概略,次の ) 記載がある。 「蛍光発光体にとって,最大外部量子効率(注入された電子あた りの,前面に取り出されるフォトン)は,以下である。 Φel=χΦplηcηe(判決注:Φel はEL効率を,Φ pl はPL効率を それぞれ表す。) ホストの中で1重項励起子になる電荷キャリアの再結合の割合 はχであり,スピン統計上〜1/4と推定される。Φ pl は色素のフ ォトルミネッセント効率,η e は結合して素子から外に放出される フォトンの度合い,η c は励起子を形成する注入電荷キャリアの割 合である。(訳文1頁26〜32行) 」 (b) 前記(a)によれば,甲6には,EL効率とPL効率は正比例の 関係にあることが記載されているということができる。 78 j 甲59の記載内容 (a) 証拠(甲59)によれば,甲59(国際公開公報WO99/2 0081号,優先日:平成9年)には,概略,次の記載がある。 「光ルミネッセンス量子収量の増大は,増大した効率を持つOL EDの製造を可能にする。(訳文1頁18〜20行) 」 (b) 前記(a)によれば,甲59には,PL効率の増大がEL効率の 増大につながることが記載されているということができる。 k 甲61の記載内容 証拠(甲61)によれば,甲61(特開平7−90260号公報 )には,概略,次の記載がある。 「【0002】 【従来の技術】 …発光材料として蛍光色素を使用すると,当該色素分子のフォト ルミネッセンスと同等の発光スペクトルが,エレクトロルミネッセ ンス発光として得られる。」 l 甲62の記載内容 前記ア(ア)k(a)の甲62の記載によれば,甲62には,EL発光 効率を支配する最大の因子は,蛍光の量子収率であることが記載さ れているということができる。 (イ) 前記(ア)によれば,本件優先日当時,光励起により発光する物質を, ELデバイスに適用し電気励起により発光させることは広く行われて おり(甲45,61〜64),ELデバイスにおいて,一重項励起状態 と三重項励起状態が生じる比率は1:3であるから,一重項励起と三 重項励起の両方を利用できる燐光物質を用いることにより100%の 最大内部効率を達成する可能性があることが指摘されていたため,燐 光物質に注目が集まり(甲1,77の1),光励起により燐光発光する 79 金属錯体をELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合 物に適用して発光させることが行われ,Ir(ppy)3 (甲1),Os(CN ) 2(PPh 3) 2 X(甲5),PtOEP(甲58の1),二核Au錯体 又は四核Cu錯体(甲77の1)等がELデバイスにおける燐光発光 材料として用いられていたことを理解することができる。 しかし,光励起により燐光発光する金属錯体をELデバイスの発光層 として用いる燐光発光有機金属化合物に適用した例は,上記のように いくつかあるものの,前記(ア)hのとおり,本件優先日(平成11年 12月1日)の約4か月前の同年7月22日に発行された甲77の1 には,重要な課題として,発光量子効率の高い三重項材料を見つけて, そのEL素子作製への適合性を調べることがあったこと,三重項励起 状態のPL効率が高い材料は有機EL素子の発光層として用いること ができ,これによりEL材料の範囲が従来の一重項材料(有機色素, 共役ポリマー)から遷移金属錯体などの三重項材料へと広がることが 記載されていることからすれば,本件優先日当時においても,ELデ バイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用して燐光 発光する物質を見出すためには,まず,光励起により燐光発光する物 質の中から,発光量子効率(PL効率)が高い物質を見出し,さらに, その物質のELデバイス作製における適合性を調べる必要性が認識さ れていたものと認められる。そして,前記ア(ア)d(a)及び前記ア(イ) eのとおり,本件優先日当時,Ir(QO)3 (甲73),Ir(ppy)3(甲1, 8),〔Ir(ppy) 2(HL-X)〕 +(甲10),〔Ir(ppy)2 (dpt- NH 2)〕 + (甲1 1,28),〔Ir(ppy) 2(4mptr)〕 +(甲79),〔Ir(ppy) 2(bpy)〕 + ( 甲80),〔Ir(ppy) 2(en)〕 +(甲80)等の光励起により燐光発光す るIr錯体が知られていたものの,実際にELデバイスの発光層とし て用いる燐光発光有機金属化合物に適用されたIr錯体は,甲1に記 80 載の Ir(ppy)3のみであったことからすれば,光励起により燐光発光す るものであれば,直ちにELデバイスの発光層として用いる燐光発光 有機金属化合物に適用して燐光発光するものであるとされていたもの ではないというべきである。 したがって,光励起により燐光発光する物質であれば,その具体的な 構造,PL効率等の発光特性及びELデバイス作製における適合性い かんにかかわらず,直ちにELデバイスの発光層として用いる燐光発 光有機金属化合物に適用して,電気励起により燐光発光させることが できるとの技術常識があったということはできず,他にかかる技術常 識があったことを認めるに足りる証拠はない。 (2) 甲4について ア 甲4(「J. Organometal. Chem., Vol.517, 1996, pp.191-200」(邦題: 「生物学的に重要な配位子の金属錯体である,クロロ架橋オルトメタル 化金属化合物および[(OC) 3 Ru(Cl)(μ−Cl) 2 によるパラジ ] ウム(U),イリジウム(V)およびルテニウム(U)のLXXXVTT α−アミノカルボン酸塩錯体」 ,平成8年発行)には,以下の記載があ ) る。 「生物学的に重要な配位子の金属錯体である,クロロ架橋オルトメタル化 金属化合物および[(OC) 3Ru(Cl)(μ−Cl) 2 によるパラジウ ] ム(U),イリジウム(V)およびルテニウム(U)のLXXXVIIα −アミノカルボン酸塩錯体」(標題) 「1.序論 …α−アミノ酸およびその誘導体の有機金属錯体に関する研究を継続す る中で,オルトメタル化錯体[(L)Pd(μ−Cl) 2 (LH=2−ベ ] ンジルピリジン,2−フェニルピリジン,アゾベンゼン)および[L 2I r(μ−Cl) 2 (LH=2−フェニルピリジン)から調製したN,O ] 81 −α−アミノアシダト化合物の合成および評価についてここに報告する。 後者の蛍光イリジウム(V)錯体は強力な光還元剤である[10]。 また,クロロ架橋カルボニル錯体[(OC) 3 M(Cl)(μ−Cl) 2 ] (M=Ru,Os)のα−アミノカルボン酸塩およびグリシンエステル との反応の研究も行った。金属カルボニルフラグメントはペプチドおよ び他の生体分子のマーカーとして用いることができる。 (OC) 3Ru( [ Cl)(μ−Cl) 2 の核酸塩基との反応が研究されてきた。 (訳文2頁 ] 」 ) 「2.結果および考察 …と反応させることにより,化合物1−21を得た。 錯体 α−アミノ酸 … … 16 グリシン 17 L−アラニン 18 L−バリン 19 D−ロイシン 20 L−プロリン 21 L−フェニルアラニン」 (訳文2〜3頁) 「遊離体である[(2−ピリジルフェニル−C 1 N)2 Ir(μ−Cl) 2 ] のUV−vis吸収および錯体16−22のUV−vis吸収は非常に 類似している。350−450nmにおける強い金属−配位子電荷移動 帯が特徴的である。 錯体16−22は,室温においてでさえ,紫外光に曝された状態でDM SO溶液またはCH 2 Cl 2 溶液中で約515nmに強力な蛍光発光(判 決:原文は fluorescence)を示し,錯体18−21は日光に曝された状 態で強力な蛍光発光(判決注:原文は fluorescence)を示す(実験部参 82 照)。この蛍光発光(判決注:原文は fluorescence)はペプチドのマーキ ングに有用となりうる。(訳文5頁下から8〜1行) 」 「3.実験 反応はシュレンク管を用いてN 2 雰囲気下で行った。…UV−vis: Kontron UVIKON 810およびUNICON 21。蛍 光発光(判決注:原文は fluorescence):Perkin−Elmer F S 3000。発光(判決注:原文は The emission)は吸収極大まで照 射を行うことにより測定した。元素分析:Heraeus VT。 (訳 」 文6頁下から8行〜7頁1行) イ 前記アによれば,甲4には,錯体16−21について,室温において, 紫外線に曝された状態で約515nmに強力な「fluorescence」を示す こと,この「fluorescence」はペプチドのマーキングに有用となり得る ことが記載されているということができるところ,甲4記載の錯体16 −21は Ir(ppy)2 X(XはN−O配位子)と表記できるから,本件発明 1の「式L 2 MX(XはN−O配位子)」で表される有機金属化合物に相 当する構造を有するものである。 ウ そこで,甲4の錯体16−21が示したとされる「fluorescence」の記 載について,当業者であれば,これを「蛍光発光」ではなく,「燐光発光 」であると理解するかについて検討する。 一般に,光を扱う技術分野,特にELデバイスの技術分野においては, 三重項励起状態からの発光であり,一般に発光寿命が長い「燐光」(phos phorescence)と,一重項励起状態からの発光であり,一般に発光寿命が 短い「蛍光」(fluorescence)を用語として明確に区別して使用すること が通常である(甲1,71,77の1,甲88)。本件明細書においても, 「得られたイリジウム錯体は,…1〜3マイクロ秒(μsec)の寿命を持 っている。そのような寿命は燐光であることを示している。 (段落【0 」 83 079】)と記載されているように,発光寿命は燐光であることの重要な 指標の一つとされている。しかし,甲4は,ペプチドのマーキング等に 用いられる金属錯体に関する文献であってELデバイスに関する技術分 野の文献ではないこと,一般的な辞典においては,「蛍光(fluorescence )」は,蛍光と燐光を含む概念であるルミネセンス(発光)と同義に用い られることも多い旨記載されていること(甲19及び53:岩波理化学 辞典 第5版 「蛍光」「ルミネセンス」の項,甲52:Collins Englis h Dictionary の「fluorescence」「phosphorescence」の項),甲4におい ては燐光と蛍光を区別する指標の一つである発光寿命等が測定されてい ないことからすれば,甲4の錯体16−21が示したとされる「fluores cence」の記載が,燐光とは異なる蛍光の意味であるのか,あるいは,蛍 光と燐光を含めた上位のルミネセンス(発光)の意味であるのかを,甲 4の記載のみから明確に判断することはできない。 そこで,前記(1)において説示した本件優先日当時の技術水準を踏まえ て検討すると,甲4の錯体16−21は,Irという重原子を含み,か つIr−C結合を二つ含む Ir(ppy)2 という部分構造を有する錯体である から,前記(1)ア(ウ)で検討した技術常識を踏まえると,その発光は燐光 である可能性があると当業者が予測するとまではいえるものの,その発 光が,蛍光ではないとまで断言できる技術水準にあったということはで きないから,当該錯体が示すとされる「fluorescence」が,蛍光か燐光 かは,これを認識することはできなかったものと認められる。そうする と,本件優先日当時,当業者が,発光寿命を測定するなどの実験を経る ことによって燐光であることを確認することなく,甲4の錯体16−2 1が示す「fluorescence」の記載から,これを「蛍光」ではなく「燐光 」であることを容易に理解したということはできない。 (3) 甲1発明に甲4記載のL 2 MXの式で表される有機金属化合物(イリジ 84 ウム錯体)を組み合わせることの容易想到性について ア 前記(2)のとおり,甲4記載の錯体16−21が示す「fluorescence」 が燐光であることを当業者が容易に理解したということはできないから, 甲1発明のELデバイスにおいて燐光発光する Ir(ppy) 3 に代えて,甲4 記載のL 2 MXの式で表される錯体16−21を用いることは,当業者が 容易に想到し得たということはできない。 イ 仮に,重原子効果等の技術常識を考慮することにより,当業者が,甲4 記載の錯体16−21が示す「fluorescence」は燐光であると理解するこ とができたとしても,以下のとおり,甲1発明に甲4記載の錯体16−2 1を組み合わせることが容易に想到できたということはできない。 すなわち,甲4において,錯体16−21の「fluorescence」について は,ペプチドのマーキングに有用となる旨記載されていることからすれば, 甲4記載の発明と,ELデバイスに係る甲1発明とは,適用する対象の技 術分野が異なるものであるから,甲1発明と甲4記載の錯体16−21を 組み合わせる積極的な動機付けがあるということはできない。 また,前記(1)イ(イ)のとおり,光励起により燐光発光する物質であれ ば,その具体的な構造,PL効率等の発光特性いかんにかかわらず,直ち にELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に適用して, 電気励起により燐光発光させることができるとの技術常識があったという ことはできず,光励起により燐光発光する物質の中からPL効率が高い物 質を見出し,さらに,その物質のELデバイス作製における適合性を調べ る必要があった。 そして,前記(1)イ(ア)aのとおり,甲1には高性能デバイスに適した 燐光性遷移金属錯体として,適度なフォトルミネセンス効率と約1μs の 寿命で十分であることが記載されているということができるところ,甲4 には,室温において紫外線励起により強力な「fluorescence」を示すこと 85 が記載されているものの,具体的なフォトルミネセンス効率(PL効率) 及び発光寿命については何らの記載もないから,甲4記載のL 2 MXの式 で表される錯体16−21を,甲1発明の Ir(ppy) 3 に代えて採用するた めの手がかりとなる物性が不明というほかない。 確かに,甲1発明のL 3 Mの式で表される Ir(ppy)3 と,甲4記載のL 2 MXの式で表される錯体16−21とは,Ir(ppy)2という部分構造を有す ること及び発光波長が緑色であること等においては共通するものの,甲4 記載のL 2 MXの式で表される錯体16−21のN−O配位子が,発光特 性にどのような影響を及ぼすかについては,本件優先日当時において何ら かの知見があったことを認めるに足りる証拠が全くない以上,上記部分構 造と発光波長の共通性等に基づいて,甲1発明のL3Mの式で表される Ir (ppy)3 を,甲4記載のL 2 MXの式で表される錯体16−21により置換 することが可能であることを当業者が容易に想到することができたとまで いうことはできない。 また,前記(1)ア(イ)a(b)及び前記(1)イ(ア)bのとおり,甲5には, 光励起により強い三重項状態発光(0.5を超え得る量子収率)を示す有 機金属錯体を用いることによって高効率ELデバイスを設計する可能性が あること,遷移金属錯体(Ru,Os,Ir等)は,光励起により三重項 MLCT励起状態を示すこと,発光量子収率が0.33であるOs(U)錯 体を用いてELデバイスを作成して三重項MLCT状態からのEL発光を 観測したことが記載されている。しかし,甲4記載の錯体16-21につ いては,その発光量子収率(PL効率)が全く不明であることから,甲5 においてELデバイスに適用できることが示唆された高い発光量子収率( PL効率)を示すものであるかを判断する手がかりがないから,甲5の記 載を検討しても,甲1発明に甲4記載のL 2 MXの式で表される錯体16 −21を組み合わせる動機付けがあるということはできない。 86 以上のとおりであるから,仮に,甲4記載のL 2 MXの式で表される錯 体16−21が示す「fluorescence」は燐光であると当業者が理解したと しても,甲1発明のL 3Mの式で表される Ir(ppy)3に代えて,甲4記載の L 2 MXの式で表される錯体16−21を用いることは,当業者において, 容易に想到することができたということはできない。 (4) 原告の主張について ア 原告は,有機化合物の分野における蛍光と燐光の区別においては,その 発光寿命は相対的な基準にすぎず,三重項励起状態か一重項励起状態かは 電子のスピンの向きの問題であって,これを直接観測する方法がないから, 当業者は,三重項励起状態を生じさせる重原子を含む有機化合物か否かと いうことを指標に,当該発光が燐光か蛍光かを区別することとなる旨主張 する。 しかし,前記(1)ア(ア)で説示したとおり,イリジウム(Ir:原子番 号77)よりも重い原子である鉛(Pb:原子番号82)やビスマス(B i:原子番号83)を含む金属錯体であっても,項間交差の効率はあまり 良くなく,その発光は燐光と蛍光の中間の挙動を示すこと,及び,重原子 のインジウム(In:原子番号49),カドミウム(Cd:原子番号48 )や亜鉛(Zn:原子番号30)等の錯体であっても蛍光発光するものが あることが知られていたことからすれば,重原子を含む分子からの発光で あっても,それが蛍光であることもあり得るのであるから,重原子を含む 分子からの発光であれば,それが全て燐光発光であるとの技術常識があっ たということはできない。 したがって,重原子を含むか否かで,燐光か蛍光かを区別することはで きず,原告の上記主張は採用することができない。 イ 原告は,甲4にはL 2 MXの式で表される有機金属化合物が記載されて いるところ,甲4が引用する甲48にはこの有機化合物が強力な光還元剤 87 であり,その発光がMLCT励起状態に由来することが記載され,更に甲 48が引用する甲3には fac-Ir(R-ppy)3錯体が Ir(ppy)3のようにMLC T励起状態を経て発光することが記載されているから,甲4記載のL 2 M Xの式で表される有機金属化合物はMLCT励起状態に起因して発光する ことが理解される旨主張する。 そこで検討するに,前記(2)アのとおり,甲4には,その序論の中で,「 オルトメタル化錯体[(L)Pd(μ−Cl) 2 (LH=2−ベンジルピ ] リジン,2−フェニルピリジン,アゾベンゼン)および[L 2 Ir(μ− Cl) 2(LH=2−フェニルピリジン)から調製したN,O−α−アミ ] ノアシダト化合物の合成および評価についてここに報告する。後者の蛍光 イリジウム(V)錯体は強力な光還元剤である[10] 」との記載がある。 。 そして,参考文献[10]として引用されている甲48には,「我々は, ビス(μ−クロロ)テトラキス(2−(4’−R’−フェニル)−5−R −ピリジナト)ジイリジウム(V)(R=R’=H(1);R=H,R’= NO 2 (2);及びR=NO 2 ,R’=H(3)というタイプの,シクロメ タル化された錯体の光物理特性について,NO 2 基が強く電子を引き抜く 効果をここで報告する。…2と3の発光エネルギー及び寿命は,これらの 発光が,1や他のシクロメタル化 Ir(V)錯体4のように,MLCT励起 状態に由来することを示す。」と記載されている。 また,甲48の上記記載中,「シクロメタル化 Ir(V)錯体」の脚注4 として引用されている甲3(「Inorg. Chem., Vol.30, No.8, 1991, pp.16 85-1687」(邦題:「新合成方法による一連の強い光還元剤の調製:置換2 −フェニルピリジンを含むfacトリスオルトメタル化イリジウム(V) 錯体」,平成3年発行)には,「fac-Ir(R-ppy)3錯体…のそれぞれの発光寿 命は,室温における窒素飽和アセトニトリル中にて約2−3μ秒である。 すべての fac-Ir(R-ppy) 3 錯体に,寿命および発光エネルギーの類似が見 88 られることから,これらは Ir(ppy)3 のようにそれぞれMLCT励起状態を 経て発光することがわかる。(訳文3頁9〜13行)と記載されている。 」 上記のとおり,甲48は「ビス(μ−クロロ)テトラキス(2−(4’ −R’−フェニル)−5−R−ピリジナト)ジイリジウム(V)(R=R ’=H(1);R=H,R’=NO 2 (2);及びR=NO 2 ,R’=H( 3) ,甲3は「fac-Ir(R-ppy) 3 」及び「Ir(ppy) 3 」という,いずれも甲4 」 記載のL 2 MXの式で表される錯体16−21とは異なる構造の錯体がM LCT励起状態に起因する発光を示すことが記載されているだけであり, 甲48及び甲3の記載を参照しても,甲4記載のL 2 MXの式で表される 錯体16−21がMLCT励起状態に起因する発光を示すことを理解する ことはできない。 したがって,原告の上記主張は採用することができない。 ウ 原告は,重原子を含む分子が発光していればそれは燐光発光であること は技術常識であり,イリジウムが発光するとすれば,それは蛍光発光では なく,燐光発光以外はあり得ないものと当業者は理解するものであり,実 際に,イリジウム錯体が発光している場合に,発光寿命等一定の指標を示 して蛍光を発光していると明記している文献はなく,むしろ前記第3の1 〔原告の主張〕(1)イ(イ)記載の表のとおり,多くの文献において,イリ ジウム錯体が燐光発光していることが明示されている旨主張する。 しかし,重原子を含む分子が発光していればそれは燐光発光であること は技術常識であり,イリジウムが発光するとすれば,それは蛍光発光では なく,燐光発光以外はあり得ないものと当業者は理解するとの原告の主張 に理由がないことは,前記(1)アで説示したとおりである。 また,Ir錯体が発光している場合に蛍光を発光していると明記してい る文献が存在しないからといって,甲4記載のL 2 MXの式で表される錯 体16−21が蛍光発光することがあり得ないことを直接裏付ける根拠と 89 なるものではない。 したがって,原告の上記主張は採用することができない。 エ 原告は,甲1には,燐光有機金属化合物としては,「高性能デバイスに は,適度なフォトルミネッセンス効率と約1μsの寿命で十分」と記載さ れているところ,甲4記載のIr錯体は重原子を含むことから三重項の短 い寿命(約1μsの寿命)であることを当業者であれば認識することがで き,また,甲4記載のIr錯体は「室温においてでさえ,…強力な蛍光発 光(注:「fluorescence」の訳であり,単に励起状態に起因する発光を意 味する)を示」すと記載され,適度なフォトルミネセンス効率を有すると 理解できるから,甲1に接した当業者であれば,甲4記載のIr錯体を甲 1記載のELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物に採 用する動機があることは明らかである旨主張する。 しかし,前記(1)ア(ア)c(a)のとおり,甲58の1には「OLED中の PtOEPの実測発光寿命は35μsであり」と記載され,重原子である 白金を含む錯体であるPtOEPをELデバイスに適用した場合の実測発 光寿命が35μsであるとされており,重原子を含む錯体からの燐光が常 に約1μs程度の短い寿命であるわけではないことが理解できる。そうす ると,甲4記載のL 2 MXの式で表される錯体16-21が重原子であるI rを含むからといって,それが約1μs程度の短い発光寿命を示すことの 根拠となるものではない。 また,前記(2)ウのとおり,甲4には,L 2 MXの式で表される錯体1 6−21が燐光PLを示すことも,PL効率の数値も記載されていないの であるから,甲4のIr錯体を甲1記載のELデバイスの発光層として用 いる燐光発光有機金属化合物に採用する動機付けがあるということはでき ない。 したがって,原告の上記主張は採用することができない。 90 オ 原告は,甲5では,光を照射した場合に強い三重項MLCT励起状態か らの発光(燐光)を生じる(PL効率の高い)有機金属錯体がEL効率の 高いELデバイスの発光層となる可能性があるという仮説に基づき,光を 照射した場合に強い燐光を生じる(PL効率0.33)特定のオスミウム (U)錯体について,ELデバイスに電圧を印加することで三重項励起状 態からの発光を示すことを具体的データとともに示した上で,当該仮説が 正しいことを,初めての観察結果として報告したものであり,また,甲5 には,遷移金属錯体の中でも,少なくともルテニウム錯体,オスミウム錯 体,そしてイリジウム錯体が,光の照射により三重項励起状態(すなわち, PLによる燐光発光をすること)を示すことが記載されていることからし ても,PLを示すイリジウム錯体を,ELデバイスの発光層として用いる 燐光発光有機金属化合物に適用してELにより発光させることに動機付け がある旨主張する。 しかし,甲5の上記記載から,PL効率0.33程度の強い燐光PLを 生じるIr錯体であれば,これをELデバイスの発光層として用いる燐光 発光有機金属化合物に適用することについての動機付けがあるということ ができるとしても,前記(2)ウのとおり,甲4には,L 2MXの式で表され る錯体16−21が燐光PLを示すことも,PL効率の数値も記載されて いないのであるから,甲5の上記記載は,甲4のL 2 MXの式で表される 錯体16−21をELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化 合物に適用する動機付けとなるものではない。 したがって,原告の上記主張は採用することができない。 カ 原告は,甲4には,「錯体16−22は,室温においてでさえ,紫外光 に曝された状態でDMSO溶液またはCH 2 Cl 2 溶液中で約515nm に強力な蛍光発光(注:「fluorescence」の訳であり,単に励起状態に起 因する発光を意味する)を示」すと記載され,適度なPL効率を有する 91 ことが記載されている上,本件発明の課題は,「有機発光デバイスの発光 層に使用した場合に燐光を発する新たな有機金属化合物を得ること」で あり,先行技術(甲1)によるEL効率や,これと同等以上のEL効率 を発揮することではないから,本件発明を容易に想到するか否かを判断 するに当たっては,甲1のような「高性能」デバイスに用いられる「適 度なフォトルミネセンス効率」までは必要なく,甲4が燐光PLを示す ことを当業者が認識すれば足りる旨主張する。 しかし,前記(2)ウのとおり,甲4には,L 2 MXの式で表される錯体 16−21が燐光PLを示すことも,PL効率の数値も記載されていな いのであるから,甲4のIr錯体を甲1記載のELデバイスの発光層と して用いる燐光発光有機金属化合物に採用する動機付けがあるというこ とはできない。 また,甲1記載のELデバイスの発光層として用いる燐光発光有機金 属化合物に代えて,甲4記載のIr錯体を採用することの容易想到性の 判断に当たっては,甲1に記載された課題及び技術内容等に照らして, 甲4記載のIr錯体を組み合わせる動機付けがあるかどうかを検討する ことは当然である。そして,前記(1)イ(ア)aのとおり,甲1には,蛍光 とは異なり,燐光は一重項及び三重項励起状態の双方を用いるので,1 00%の最大内部効率を達成する可能性を含んでいることから,電気燐 光の実証は有機発光デバイス(OLED)特性のブレークスルーを予兆 していたこと,fac-トリス-(2-フェニルピリジン)イリジウム [Ir(ppy)3 ]を用いたOLEDにおいては,三重項の短い寿命と適度なフォトルミネ センス効率という双方の要因によって,量子効率のピークを8.0%( 28 cd/A),パワー効率のピークを31 lm/Wとすることがで きたこと,高性能デバイスに適した燐光性遷移金属錯体として,適度な フォトルミネセンス効率と約1μs の寿命で十分であることが記載されて 92 いるのであるから,甲4記載のIr錯体を甲1記載のELデバイスの発 光層として用いる燐光発光有機金属化合物に採用することが容易かどう かを判断するに当たっては,甲4記載のIr錯体が,甲1発明のELデ バイスの発光層として用いる燐光発光有機金属化合物として採用するに 必要な要素とされる上記「適度なフォトルミネセンス」を有するかどう かが検討されなければならないことは当然である。 したがって,原告の上記主張は採用することができない。 (5) 小括 以上によれば,本件発明1(X配位子がN−O配位子の場合)と甲1 発明との相違点についての原告主張に係る取消事由1は理由がない。 そして,本件発明2及び3は,本件発明1を引用するものであって, 本件発明1の発明特定事項を全て含むものであるから,前記(1)〜(4)に述 べた事項は,本件発明2及び3にも妥当する。したがって,本件発明2及 び3との関係においても,原告主張に係る取消事由1は理由がない。 4 取消事由2(相違点に関する容易想到性の判断の誤り(Xが二座配位子であ って,O−O配位子である場合)について 原告は,甲2には,本件発明のL 2 MXの式で表されるMLCT励起状態に 起因して発光する有機金属化合物が記載され,かつ,この有機金属化合物は燐 光発光することも明らかであるから,甲1に記載された Ir(ppy)3 錯体(L3M に該当する)を甲2記載のL 2 MXの式で表される燐光有機金属化合物に置き 換えて本件発明1とすることは,当業者が容易になし得たものである旨主張す る。 そこで,甲2には,本件発明のL 2 MXの式で表される有機金属化合物が記 載されているといえるかについて検討する。 (1) 甲2(「BOOK OF ABSTRACTS, 217th ACS National Meeting, INOR292, 21 -25 MARCH 1999」(邦題:「292.発光性のロジウム及びイリジウムのモノ 93 及びバイメタル1,3−ジケトン錯体」 ,平成11年3月発行)には,次の ) 記載がある。 「モノ及びバイメタルのロジウム(V)及びイリジウム(V)のビス(2-フ ェニルピリジン)(1,3-ジケトン)錯体系が調製され,特徴づけられている。 そのすべての誘導体は媒体内で発光し,配位子内(IL)または金属配位子 電荷移動(MLCT)遷移に特徴的な可視(λmax=480−650nm ) 発光スペクトルが見られる。IL及びMLCT発光は1,3−ジケトン 配位子と関連する遷移を含む。これらの錯体の発光特性に対する金属(ロジ ウム/イリジウム)または置換基(R)の影響について議論する。本研究は ACSPRF及びNIHMBRSの資金援助を受けたものである。」 (2) 前記(1)のとおり,甲2には,モノ及びバイメタルのロジウム(V)及び イリジウム(V)のビス(2-フェニルピリジン)(1,3-ジケトン)錯体系 が調製され,その特性を明らかにしたことが記載されているが,具体的に 化学構造が記載されているのは,前記(1)で図示された構造を有するロジウ ム(V)のビス(2-フェニルピリジン)(1,3-ジケトン)錯体(以下「ロジウ ム二核錯体」という。)のみである。そして,甲2の「モノメタル及びバイ メタル」の意味について,原告は,「モノメタル」は錯体に含まれる金属が 1つの場合を意味し,「バイメタル」は錯体に含まれる金属が二つの場合を 意味する旨主張するけれども,甲2の記載からは必ずしも明確ではなく, また,1,3−ジケトンの構造も,上記のロジウム二核錯体におけるもの 94 以外は何ら記載されていないことから,イリジウム(V)を含む錯体として 想定できるものは,甲2において具体的に構造が記載されたロジウム二核 錯体について,ロジウムがイリジウムに置換されたもの,すなわち「イリ ジウム二核錯体」のみというべきである。 ところで,一般に,金属錯体は,中心金属の数によって,金属が一つであ る単核(mononuclear)錯体と,金属が複数ある多核錯体(polynuclear) とに区別されており,特に金属が二つあるときは二核錯体と呼ばれている。 そして,一般式としてL 2 MX(MはIrであり,XはO-O配位子)と表 記した場合には,中心金属はMの一つだけであると解するのが通常であり, また,本件発明の特許請求の範囲請求項2及び3並びに本件明細書の発明 の詳細な説明(段落【0048】 【0049】 , )には,L配位子の具体例と して「2‐(1‐ナフチル)ベンゾオキサゾール,2‐フェニルベンゾオ キサゾール,2‐フェニルベンゾチアゾール,7,8‐ベンゾキノリン, フェニルピリジン,ベンゾチエニルピリジン,3‐メトキシ‐2‐フェニ ルピリジン,チエニルピリジン,及びトリルピリジン」,X配位子の具体例 として「アセチルアセトネート,サリチリデン,ピコリネート,及び 8‐ヒ ドロキシキノリネート」が記載され,さらに別の例が段落【0050】及 び【図39】(本判決では図示しない。)に記載されているが,それらの構 造の中に他の中心金属が含まれるものは例示されていない。 したがって,本件発明のL2 MXの式で表される有機金属化合物は,中心 金属は一つである単核錯体であり,二核錯体は含まれないと解するのが相 当である。 そうすると,甲2の記載から想定されるイリジウム二核錯体は,本件発明 のL 2MXの式で表される有機金属化合物に包含されるものではない。それ ゆえ,甲2には,イリジウム二核錯体が実際に記載されているに等しいと いえるかについて検討するまでもなく,甲2には本件発明のL2 MXの式で 95 表される有機金属化合物が記載されているということはできない。 (3) 原告は,この点について,本件特許の特許請求の範囲及び本件明細書を 見ても,L 2 MXの式で表される有機金属化合物に二つの金属原子が含まれ ないとする根拠はないから,甲2には,本件発明のL 2 MXの式で表される 有機金属化合物が記載されている旨を主張する。 しかし,前記(2)のとおり,本件明細書の記載を考慮すれば,本件発明に おいては,中心金属が一つの単核錯体を意図しており,金属が複数ある多 核錯体を含むものではないことは明らかであり,本件明細書中に二核錯体 を積極的に排除する記載がないからといって,本件発明のL2 MXの式で表 される有機金属化合物に二核錯体が含まれるとする根拠となるものではな い。 したがって,原告の上記主張は採用することができない。 (4) 小括 以上によれば,本件発明1(X配位子がO−O配位子の場合)と甲1発 明との相違点についての原告主張に係る取消事由2は理由がない。 そして,本件発明2及び3は,本件発明1を引用するものであって,本件 発明1の発明特定事項を全て含むものであるから,前記(1)〜(3)で説示し た事項は,本件発明2及び3にも妥当する。したがって,本件発明2及び 3との関係においても,原告主張に係る取消事由2は理由がない。 5 結論 以上の次第であるから,原告主張の取消事由はいずれも理由がなく,本件審 決にこれを取り消すべき違法は認められない。したがって,原告の請求は棄却 されるべきものであるから,主文のとおり,判決する。 知的財産高等裁判所第4部 裁判長裁判官 富 田 善 範 96 裁判官 大 鷹 一 郎 裁判官 田 中 芳 樹 97 |